第弐頁 ゴローニン事件………囚人がもたらした異国情報

事件名ゴローニン事件
発生年月日文化八(1811)年四月二三日〜文化一〇(1813)年六月二六日
事件現場国後島泊
下手人松前奉行?ピョートル・リコルド?
被害者高田屋嘉兵衛、ヴァシリー・ゴローニン
被害内容抑留による帰国困難
非の割合日本:ロシア=5:5
事件概略 ロシア帝国海軍兼軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイルヴィチ・ゴローニンが、千島列島測量中に国後島にて松前奉行配下の役人に捕縛され、約二年三ヶ月間、日本に抑留された事件である。

 事件の背景として、東方へ領土を拡張していたロシア帝国と、松前藩を中心に北方への進出を図っていた日本との衝突と、事前の外交トラブルがあった。
 かねてよりロシア側では領土拡大の野心に燃えつつも、交易・燃料補給基地としての日本に期待し、 寛政四(1792)年にアダム・ラクスマンが保護していた日本人遭難者・大黒屋光太夫らを伴い、シベリア総督の親書を所持した使節として蝦夷地に来航したのを皮切りに、通商を求める高官・軍人達が訪れていた。
 しかし、江戸幕府は祖法となっていた鎖国政策を重んじ、まともな交渉を取り合わなかった。

 前頁でも触れたが、ニコライ・レザノフが、文化元(1804)年九月に日本人漂流民、皇帝アレクサンドルT世の親書、ラクスマンが入手した信牌をもって外交使節として、長崎へ来航した際には、江戸幕府は散々待たせた挙句、黙殺に近い態度を取った為、レザノフはキれ、一時は武力による日本への開国強要を皇帝に上奏した程だった。
 レザノフ自身はこの強硬策上奏をすぐに撤回したのだが、部下のニコライ・フヴォストフ等が暴走し、前頁にある文化露冦をしでかした。

 この暴挙にさすがに江戸幕府は国土防衛の必要性を感じた。その辺り、さすがに軍事政権だけあって、対処は遅くなかった。それまでロシアの漂着船に対して食糧等を支給して速やかに帰国させるとしていたロシア船撫恤令を廃止し、文化四(1807)年一二月に、ロシア船は厳重に打払い、近づいた者は逮捕もしくは切り捨て、漂着船はその場で監視すると云う内容のロシア船打払令を発令し、東北諸藩に蝦夷地沿岸警備強化の為の出兵を命じていた。
 そんな情勢も知らず、千島列島に測量にやって来たのがゴローニンの災難だった。

 文化八(1811)年、ペトロパブロフスク港にてゴローニンは千島列島南部の測量任務を命じられ、同年五月に択捉島の北端に上陸した。
 そこで松前奉行所調役下役・石坂武兵衛と出会ったゴローニンは薪水の補給を求めたところ、石坂から振別(ふれべつ)会所に行くよう指示され、会所宛の手紙を渡された。
 しかし、逆風に遭遇したゴローニンは未探索地域であった根室海峡に関心を持ち、同海峡を通過して北上しオホーツクへ向かわんとして振別に向かわず、穏やかな入り江がある国後島の南部に向かった。

 結果、この行為はスパイ行為と見做され、五月二七日、泊湾に入港したゴローニンに対し、先の文化露冦を受けて強行体制にあった日本側では、松前奉行支配調役・奈佐瀬左衛門が警固の南部藩兵に砲撃を命じた。
 まともな交渉は困難と見たゴローニンは、補給を受けたいというメッセージを樽に入れて送ることで日本側と接触せんとした。
 六月三日、海岸で日本側の役人と面会したゴローニンは陣屋に赴くよう要請され、翌四日に、少尉ムール、航海士フレブニコフ、他四名の水夫とアイヌ人・アレキセイを伴って陣屋に向かった。
 陣屋で食事の接待を受けたゴローニン一行だったが、薪水補給に対し、松前奉行の許可が出る迄人質を残して欲しいと日本側から要求された。ゴローニンはこの屈辱的な要求を拒否し、船に戻ろうとしたが、そこで捕縛された。

 艦長の拘束を知った副艦長ピョートル・リコルドは、ゴローニンを奪還すべく陣屋の砲台と砲撃戦を行ったが、大した損害を与えることが出来ず、却ってゴローニン達の身を危険に曝すのでは?と懸念した。
 そこでリコルドは彼等の私物を海岸に残して、一旦オホーツクへ撤退。オホーツクに着いくと、事件を海軍大臣に報告し、ゴローニン救出の遠征隊派遣を要請するため、九月にサンクトペテルブルクへ向かって出発した。
 ところが、途中立ち寄ったイルクーツクにて県知事トレスキンから、既に遠征隊派遣を願い出ているとの報せを受け、リコルドはイルクーツクに滞在して、遠征隊を待った。
 たが、ヨーロッパ情勢の緊迫化のため、遠征隊派遣で日本とまで事を構えることを懸念した本国サイドでは派遣要請を却下した。
 それゆえ、自力でゴローニンを奪還せんと決意したリコルドは、文化露冦の際に捕虜となりロシアに連行されていた中川五郎治を連れてオホーツクへ戻った。勿論、人質交換によるゴローニン奪還の為である。

 その間、当のゴローニン達は縄で縛られたまま徒歩の、所謂、「キリキリ歩け!」状態で護送され、七月二日、箱館に到着。そこで予備尋問を受けた後、八月二五日に松前に護送・監禁された。
 翌々日から始まった取り調べは、ゴローニンがフォボストフの文化露冦に関係しているのでは?との容疑で進められたが、松前奉行・荒尾成章は、ゴローニンの、「フボォストフの襲撃はロシア政府の命令に基づくものではなく、自分もフボォストフとは関係ない。」と云う主張を受け入れ、一一月に江戸幕府にゴローニン等の釈放を上申したが、幕閣は拒否した。

 帰国の叶わなかったゴローニンだったが、虜囚としての待遇は徐々に改善され、監視付ながら散歩が許されるようになり、居住も牢獄から城下の武家屋敷へと変わった。
 だが、望郷の念に駆られたゴローニン等は、脱獄して小舟を奪い、カムチャッカから沿海州方面へ向かうことを密かに企て、これに失敗したため、再度牢獄生活となった。
 その後、ゴローニンはロシアへの知識を深めんとする幕府の意図から、通詞(通訳)達へのロシア語教育に務めさせられた。牢獄へやって来た者の中には文化露冦で襲撃に遭遇していた間宮林蔵もいて、間宮は壊血病予防の為のレモンやみかん、薬草を手土産にしながら、様々な観測・作図用具を持ち込んで、その使用方法を教えるよう求めたが、友好的に振る舞いつつも、ゴローニンのことを間者と見做していた(←有名な話だが、間宮林蔵自身、公儀隠密だったとの説がある)。

 一方、オホーツクに戻ったリコルドは、中川五郎治や日本人漂流民を伴ってディアナ号と補給船・ゾーチック号の二隻で国後島へ向い、同年八月三日に因縁の国後島泊に到着した。
 国後陣屋でゴローニンと日本人漂流民の交換を求めたリコルドだったが、松前奉行調役並・太田彦助は漂流民護送を感謝しつつも、「既に処刑した。」との偽りの理由でゴローニン等の解放を拒絶した。
 失意のどん底に叩き落されたリコルドだったが、ゴローニン処刑の報を鵜呑みにせず、事の真偽を確かめるために八月一四日早朝、国後島沖で高田屋嘉兵衛の手船・観世丸を拿捕し、乗船していた嘉兵衛以下六名をペトロパブロフスクへ連行した。
 或る程度の自由は許されながらも、抑留生活を強いられた嘉兵衛だったが、彼はそれにめげず、リコルドとの同居生活の中で親しくなった現地人からロシア語を学び、貿易港でもあったペトロパブロフスクにて各国の商船と交流する等、商魂逞しい人物だった。

 やがて嘉兵衛リコルドと事件解決について話し合いを持つようになった。

 嘉兵衛は、ゴローニンの捕縛は、フヴォストフの蛮行ゆえに幕府が強硬策に出た故のものであることを説明。日本政府へ蛮行事件の謝罪の文書を提出すれば、きっとゴローニン達は釈放されるだろうと説得した。
 交渉はすんなりとは進まず、翌年には一緒に抑留されていた三人の仲間が病死した。焦る嘉兵衛リコルド説得を続けた。そしてついにリコルドもカムチャッカ長官だった自分の役職名義で謝罪文を書き上げ、自ら日露交渉に赴くこととした。

 その頃、幕府側でも強硬策一辺倒は見直されつつあった。
 ロシアとの紛争を広げない為にも、フボォストフの襲撃がロシア皇帝の命令に基づくものではないことを公的に証明されることを条件に、ゴローニンを釈放することとした。
 その旨をロシア側へ伝える説諭書「魯西亜船江相渡候諭書」を作成すると、ゴローニンに翻訳させ、ロシア船の来航に備えた。そこへリコルドがやって来たのだから、タイミング的にも事件は解決に向かっていた。

 文化一〇(1813)年五月二六日、リコルドは、ディアナ号で再々度国後島泊に上陸。まずは嘉兵衛と共に抑留生活を送って来た金蔵平蔵を国後陣屋に送って先触れとし、次いで嘉兵衛が陣屋に赴いてそれまでの経緯を説明し、交渉の切っ掛けを作った。
 そして陣屋にて「魯西亜船江相渡候諭書」を託された嘉兵衛はディアナ号に戻り、それをリコルドに手渡した。
 松前奉行側でもディアナ号の国後島到着を知ると、二人の吟味役(高橋重賢、柑本兵五郎)にゴローニン配下のシーモノフアレキセイを連れて国後に向かわせた。だが、彼等はリコルドの謝罪文を、公式なものと認めなかった(リコルド嘉兵衛を拉致した張本人なので)。
 リコルドは他のロシア政府高官による公式の釈明書を提出するよう求められ、これに応じることとした。

 六月二四日、釈明書を取りにオホーツクへ向け国後島を出発。一方、高橋は嘉兵衛等を連れて松前に向かい、松前奉行・服部貞勝に交渉内容を報告した。内容を確認した服部は八月一三日にゴローニン等を牢獄から出し、引渡地である箱館へ移送した。

 リコルドはオホーツクにて、イルクーツク県知事トレスキンとオホーツク長官ミニツキーの釈明書を入手し、ロシアに帰化していた元日本人漂流民を通訳に伴って嵐に難渋しながらも九月一一日に絵鞆(現:室蘭市)に入港した。そこで嘉兵衛の手下・平蔵がディアナ号に乗り込み、一六日夜に箱館に到着。入港直後に嘉兵衛が小舟にてディアナ号を訪問し、リコルドとの再会を喜び合った。

 九月一八日朝、嘉兵衛はディアナ号にてリコルドからオホーツク長官の釈明書を受け取り、翌 一九日正午、両国の会見が為され、イルクーツク県知事の釈明書が手渡された。
 松前奉行はロシア側の釈明を受け入れ、二六日にゴローニン等を解放し、嘉兵衛一行で最後までロシア側に留められていた久蔵を引き取った。
 ここにゴローニン事件は解決したが、ロシア側が求めた通商開始については拒絶された。



事件の日露交流への影響 蛮行とそれに対する報復から険悪化した日露関係は、人質交換のような形で交渉が持たれ、蛮行が不良軍人による暴走で、国家とは関わり合いがないことが認められたことで解決した。
 一方、日露両国とも国交がない状態で起きたこの事件に学ぶところは多く、交易・国防・親善などの様々な観点から事件当事者の情報は重要視された。

 帰国後、日本で罪人とされながらも、軍命に従事していたゴローニンと、事件解決に尽力したリコルドはサンクトペテルブルクに到着後、両名とも飛び級で海軍中佐に昇進し、年間一五〇〇ルーブルの終身年金を与えられることとなった。
 その後、ゴローニンは日本での虜囚生活に関する手記を執筆し、『日本幽州記』が官費で出版された。
 この書は三部構成で、第一部・第二部が日本における捕囚生活の記録、第三部が日本および日本人に関する論評で、ロシアのみならず、広くヨーロッパにおいても日本に関する信頼のおける史料と評価され、後には日本にももたらされた。

 一方、日本においても、一連の事件の被害者であり、解決における功労者でもあった高田屋嘉兵衛リコルドを迎えるため松前から箱館に戻った九月一五日から称名寺に収容され、監視を受けた。
 現代の視点から見れば随分な仕打ちだが、海外の情報に乏しかったこの時代、直に海外と接した者はそれを知る重要な証言者であるとともに、他国に懐柔されたスパイではないか?との懸念を抱かれる存在でもあった。
 実際、前頁の中川五郎治も、ロシアから日本に帰国を果たした初の漂流民・大黒屋光太夫も取り調べを受け、日常生活も監視された。
 それゆえ五郎治も、光太夫も、そして嘉兵衛もキリスト教に帰依していないことを必死に訴え、嘉兵衛はロシアの地で客死した部下を葬る際に、現地人のキリスト教式の供養を断り、仏式・アイヌ式の供養を行った。
 そんな状況にあって、ディアナ号が箱館を出た後も解放されなかった嘉兵衛だったが、体調不良のため自宅療養を願い出たことで許され、後にはゴローニン事件解決の褒美として、幕府から金五両が下賜された(←幕府も嘉兵衛を頭から疑っていた訳ではなかったことが分かる)。

 そしてこの事件を受けて、ロシアは日本との国境画定と国交樹立を急務と考え、江戸幕府も国交樹立は断ったが、国境画定の必要性は実感していた。
 実際、リコルドは、イルクーツク県知事から国境画定と国交樹立の命令を受けていたが、その実践は容易ではないと見た。
リコルドは交渉長期化がレザノフの二の舞になり、更なる日露間のトラブルを生むことを懸念し、ゴローニンとも相談の上、日本側には箱館を去る際に、国境画定と国交樹立を希望し、翌年六、七月に択捉島で交渉したい旨の文書を手渡した。
 幕府も、国境画定に関してのみ交渉に応ずることとし、実際に択捉島までを日本領、新知(シモシリ)島までをロシア領とし、得撫島を含む中間の島は中立地帯として住居を建てないとする案を立て文化一一(1814)年春、高橋重賢を択捉島に送った。
 しかし、タイミング悪く、高橋が六月八日に到着した時には、ロシア船は去った後で、国境画定はプチャーチン来航まで持ち越されることとなった。
 もし、この国境画定が幻に終わっていなければ、日露両国は更に多くを学び、日露交流のみならず、幕末の欧米列強との和親条約、修好通商条約の締結にももっと多くの影響を与えていたと思われる。

 そして、これは日露両国の未来の友好の為にロングヘアー・フルシチョフの願望を含めて書き残したいのだが、ろくな国交もなく、些細な感情の行き違いから暴力や拉致に及んで尚、然るべき立場の者が責任と誠意ある態度を示すことでこんな厄介な問題を日露両国は犠牲者も出さず(虜囚生活による病死者は出てますが)に解決出来たことを教訓として重んじて欲しい。
 この一件からも、日露両国及び両国民は決して友好を築けない民族ではないことははっきりと見て取れるのだから。



不幸中の幸い 少し前述したが、感情的な暴走と、相互不理解から阿呆みたいな人質の取り合いを展開しながら、犠牲(病死を除く)なく、話し合いで国家間のトラブルが解決したことであろう。

 そもそもここまで事件が泥沼化したのも、相互不理解と、外交に携わる者らしからぬ冷静さの欠如が見て取れる。段階を踏んで箇条書きにすると、

・祖法を守る為とはいえ、たらい回しや黙殺の果てに拒絶して相手を怒らせた江戸幕府の誠意の無さ。

・相手の態度が気に入らないからと言って、武力行使を提言したのは(時代的な倫理観からも)悪いとは言わないが、その撤回を徹底させられなかったロシア帝国海軍の不備。

・武力行使にも値しない略奪・暴行でしかないフヴォストフの愚行。

・それを怒るのは分かるが、問答無用の武力行使に走った江戸幕府の極端性。

・そんな情勢の悪化も分からず、好奇心から別航路を辿って、スパイ疑惑を招いて捕らえられたゴローニンの思考の甘さ。

・海外相手の交渉に担保を求めたのは分かるが、それを「人質」に求め、断られたとに腹を立ててゴローニンを捕らえた松前奉行の短慮。

・思い止まったとはいえ、増援部隊派遣に走らんとしたリコルドの危なさ。

・自国民は受け取りながら、リコルドゴローニン処刑の虚偽を告げて事態をややこしくした松前奉行の意味不明。

・処刑済みを鵜呑みにしなかったのは褒められるが、事態打開の為に罪のない商人を拉致して人質にしたリコルドの暴挙。

松前奉行ゴローニンとフヴォストフの蛮行が無関係と認めたのに、釈放を認めなかった江戸幕府の頑迷。

 ・‥‥‥‥………よくまあ、これほど悪要因が重なったものである……………勿論、当時の日露両国が互いに未知の部分の多い国で、本国に逃げられたら容易に追及出来ない状態にあることから、様々な点で相手を疑いの目で見なくてはならなかったことを考慮する必要はあるだろう。
 実際、事件を通じて見て、状況に対する読みの甘さや、感情の行き違いにある落ち度はあるにせよ、個々人はそれなりに自分の出来ることを尽くしていた。

 ゴローニンは、謂わば、フヴォストフの蛮行に巻き込まれたに等しく、人質要請を拒絶したのも当然の行為だったと云える。

 リコルドの、高田屋嘉兵衛一行の拉致は褒められたものじゃないが、捕虜を虐待することなく、ゴローニンを助ける為にデマに苦しんだり、様々な要請を却下されたりしても数々の手を打ち続けた粘り強さと仲間意識は尊敬に値する。

 高田屋嘉兵衛も、何の咎もないのに拉致された被害者でありながら、事件解決に全力を尽くし加害者である筈のリコルドともある種の友情を築いていたのだから、人としてかなりの度量あるものであったことが垣間見える。

 この事件に従事した者の中に短慮で軽挙妄動に走る者が日露のどちらかにいても事件は更なる泥沼化を呈し、犠牲者の数も増やしていたことだろう。
 まことに不幸中の幸いだったと云えよう。


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平成三一(2019)年三月八日 最終更新