第拾頁 ノモンハン事件………満蒙を仮面にした代理紛争

事件名ノモンハン事件
発生年月日昭和一四(1939)年五月一一日〜九月一六日
事件現場満蒙国境のノモンハン
下手人日ソ両国軍
被害者モンゴル人、満州族
被害内容 日本軍:戦死七六九六名、戦傷八六四七名、生死不明一〇二一名。
 ソ連軍:戦死九七〇三名、戦傷 一五九五二名
 モンゴル軍:戦死 二八〇名戦傷 七一〇名
事件概要 あくまで表向きだが、このノモンハン事件で紛争を繰り広げたのは満州国モンゴルである。ま、誰の目にも日ソの代理紛争だったのは明らかなのだが………。

 ともあれ、ノモンハン事件と云う、紛争というより戦争に近い大事件が起きた背景は日ソの勢力圏争いがあり、そこに満州国モンゴル人民共和国が絡んでいた。
 満州国日本の傀儡国家で、モンゴルソ連の衛星国で、前者はハルハ河を国境と考え、遊牧民族で放牧を主な生業とする後者はハルハ河流域の放牧地を国境緩衝地帯のように考え、満州国の考える国境を何度も越えていたので、それが火種となっていた。

 加えて、大日本帝国シベリア出兵の後に国交を樹立したとはいえ、共産主義を敵視しており、昭和一一年(1936)年一一月二五日に共産主義を嫌うナチス・ドイツのヒトラーと日独防共協定を結んでいたし、満蒙での覇権を捨てていないソビエト連邦も「ソ連は唯一の友好国」と主張するモンゴルと軍事同盟を締結し、満州国を承認せず、駐ソ日本大使にもモンゴルと揉めれば黙っていないことを警告していた。
 それゆえ日ソ両軍満蒙国境を警戒し、有事に備えていたが、既に日中戦争に突入していた日本に余裕がある筈もなく、満蒙に駐屯するソ連軍日本軍の三倍の兵力を擁していた。

 実際、軍人による殺し合いに至らないレベルでは、昭和九(1934)年頃までにも、偵察員の潜入、住民の拉致、偵察目的での領空侵犯は双方が繰り返していた。  そして昭和一〇(1935)年一月のハルハ廟事件(ハルハ廟周辺を占領したモンゴル軍に対して満州軍が攻撃)、六月の楊木林子事件(ソ満東部国境でも、日本の巡回部隊とソ連の国境警備兵が少人数での銃撃戦を展開。ソ連兵一名が死亡)、一二月のオラホドガ事件日本モンゴルの紛争。航空部隊を投入したモンゴル側に対して、翌年二月に日本軍も騎兵一個中隊や九二式重装甲車小隊を出動させ、モンゴル軍は戦死八名と負傷四名を出して退却) と言った事件が勃発した。
 明けて昭和一一(1936)年には、一月に金廠溝事件満州国軍で集団脱走事件。日本軍満州国軍の合同部隊に追われた脱走兵はソ連領内に逃げ込み、ソ連兵の死体やソ連製兵器が回収されたことから、日本側ではソ連の扇動工作があったと非難した)、三月二九日のタウラン事件(オラホドガを偵察していた支隊が国境地帯にてモンゴル軍機の空襲を受けた。日本軍は航空部隊を派して反撃。日本軍は戦死一三名、捕虜一名)、同月に長嶺子事件(長嶺子付近で日ソ両軍が交戦、双方に死傷者が出た)が起き、同年の内にはヘレンレムテ事件アダクドラン事件ボイル湖事件ボルンデルス事件といった軍事衝突が呆れるほど頻発した(←正直、本作を制作する為に調べるまでこんなに事件があったとは知らなかった……………)。

 日中戦争が勃発した昭和一二(1937)年以降、紛争件数は年間一〇〇件を超え、事の是非はともかく、ソビエト連邦モンゴルに大規模な進駐を行ったのは当然の成り行きだった。
 そして同年六月にはソ満国境のアムール川に浮かぶ乾岔子(カンチャーズ)島周辺でカンチャーズ島事件が起きた。
 詳細は省くが(←さっきからこればっかやな(苦笑))、既存の条約内容を巡って両国において国境への認識に相違があり、六月一九日、ソ連兵六〇名が乾岔子島などに上陸し、居住していた満州国人を退去させた。満州国防衛を担っていた関東軍も出動し、約二週間の戦闘の果てに、七月二日のソ連軍撤収にて終結した。

 そして翌昭和一三年(1938)年7月に張鼓峰事件が発生(同事件の詳細は前頁参照)。事件を受け、陸軍省軍務局など陸軍中央は不拡大方針を採ったが、関東軍は不信を抱き、断固とした対応を強調して、『満ソ国境紛争処理要綱』を独自に策定した。
 これは日本側主張の国境線を直接軍事力で維持する方針で、この処理方針に基づいた関東軍の独走、強硬な対応が、ノモンハン事件での紛争拡大の原因となったとも云われている。

 そして昭和一四(1939)年には、紛争件数は約二〇〇件に達した(呆)
 激増する国境紛争に対応するため関東軍は、新設の第二三師団を紛争地の防衛にあたらせることとした。第二三師団は日中戦争拡大による師団増設の必要に迫られて新設された急造部隊だったため、常備師団と比して平均年齢も高めで、装備も旧式だった。
 師団長には小松原道太郎中将、参謀長には大内孜大佐といったソ連通が選ばれたが、彼等の目にも対ソを目的とした備えとしては明らかに質も練度も不足していた。

 そして小松原が懸念した様に、第二三師団の進出はソビエトモンゴルの各国境付近での紛争を激増させた。
 昭和一四(1939)年一月二〇日、凍結したアルグン川を渡って対岸を捜索していた、東八百蔵中佐率いる師団捜索隊の兵要地誌班がソ連軍に急襲され、田川伍長が拉致された。
 は歩兵一個中隊をもって田川奪還の為にソ連軍と交戦したが、奪還出来なかった。
 それ以後も紛争は断続的に起こり、四月二三日〜二四日にかけての軍事衝突は特に大規模なものとなった。そして数々の小競り合いを経たが、五月一一日〜一二日の交戦は特に大規模なものであった。
 ノモンハン事件は、この五月一一日の交戦が始まりとされている。


五月一三日
 第二三師団は関東軍司令部に、モンゴル軍がハルハ河を越えてノモンハンに襲撃、と打電。同時に援軍を要請した。それに対して作戦参謀・辻政信を初めとする関東軍幕僚等は誰一人「ノモンハン」という地名を知らず、慌てて地図を広げる有様だった
 だが、その割には受電から僅か二時間二五分後で小松原が求めた規模を遥かに上回る戦力の急派が決定した。関東軍幕僚が如何に好戦的で、その為の準備も入念に行っていたかが窺い知れると云うものである。

五月一五日
 援軍を得た小松原は、東支隊を送り出していたが、同支隊は敵が既にいないことを知って引き上げた。一方で急派された軽爆撃機五機が、モンゴル側が主張する国境はおろか、日本満州国側が主張していた国境であるハルハ河も越えて、ハルハ河付近のハマルダバ山地区に展開していたモンゴル軍の兵舎を爆撃した。

 日本側の一連の動きに対してソ連では、軍隊を急派、モンゴル軍もこれに合流した。
 ハルハ河に達したブイコフ支隊は、架橋後、戦車と装甲車と狙撃兵二個中隊、更にはモンゴル軍騎馬隊を渡河させ、日本軍が七三三高地と呼んだ砂丘に陣地を構築。
 小松原もこの動きに応対したが、既に日本軍が兵力を出してはモンゴル軍が退去し、日本軍が去ればモンゴル軍が舞い戻るといったパターンに気付き、際限がないことを参謀長・大内からに報告が為された。
 同報告を受けた関東軍参謀長名で機を見て急襲しては?と打電。も大内も紛争不拡大の方針だったと云われているが、機を見て場合によっては急襲・撤収という曖昧な命令に結果として小松原は従わず、参謀長不在を理由に自らの指示で出撃を強行した。

五月二一〜二四日
 この間、小松原は、達の打電に一応は従ったかのように部隊を待機させた。

五月二五日
 小松原、出撃命令を下す。
 小松原はこれまでの紛争で捕えた捕虜からの情報を元にソ連軍の力を推測した上で行動に出たのだが、結果的に過小評価だった(日本軍一七〇一名に対し、ソ連モンゴル軍は二三〇〇名。砲も日本軍は短射程の山砲・歩兵砲の五門対し、ソ連モンゴル軍は自走砲を含む一二門、榴弾砲四門を備えていた)。
 戦力差において、戦車に至っては、日本軍〇台に対し、ソ連軍は多数を備えていた(余談だが、朝鮮戦争開戦当初、北朝鮮軍が韓国軍を圧倒しまくったのは、韓国軍に戦車が無かったからだった。後のソビエト連邦崩壊により、朝鮮戦争はスターリンの了承を得た金日成が仕掛けたものであることが明らかになっているが、北朝鮮は今尚「南朝鮮(韓国)が先に仕掛けた!」と喧伝している。陸戦にて戦車の無い状態で多数の戦車を擁する相手に喧嘩を吹っ掛けた例がこのノモンハン事件以外にあるなら誰か教えて下さい(笑))。

五月二八日
 早朝、東捜索隊は殆ど抵抗を受けずに敵陣を突破。橋の一.七キロ手前に陣取り、応急陣地を構築していたが、ソ連軍は即座に反撃開始。ブイコフの指揮官車が構築中の応急陣地に突入時に東隊の攻撃を受けて行動不能に陥り、ブイコフは指揮官車を放棄して退却した。
 ブイコフはどうにか戦闘指揮所に逃げ戻るとイヴェンコフに「敵は我が軍を包囲し、渡河施設を奪取した。」と報告した。だが、これは混乱したブイコフによる誤報で、この時点では東捜索隊は渡河点までは達していなかった。
 そして東捜索隊は戦闘に勝利したものの、存在をソ連軍に知られてしまったため、不安を感じて戦果と援軍要請を打電したが、山県大佐に届くことはなかった。

 同日八時、山県支隊主力はソ連モンゴル軍陣地中央を攻撃。モンゴル騎兵隊ブイコフソ連狙撃兵中隊は退却し、日本軍はそのままソ連モンゴル軍を包囲しようと二個中隊を前進させたが、ここでソ連モンゴル軍は備部隊(モンゴル第六騎兵師団)を投入して抗戦した。
 しかし、騎兵隊は進撃直後に日本軍の猛射で立ち往生させられたところに、味方であるソ連軍から誤認砲撃を受け、そこへ日本軍の追撃を受けて壊滅。師団長チメディディーン・シャーリーブーも戦死した。

 この日、日本軍ソ連軍も無線通信が上手くいかず、各隊は個々に幅三〇kmに近い広正面でバラバラに戦うことになってしまっていた。殊に東捜索隊は孤立状態でソ連モンゴル軍の猛攻を受けたが、装甲車を伴った騎兵や狙撃兵の攻撃を死傷者続出させながらもその都度撃退した。

 そして夜半、タムスクからソ連の援軍が到着。だが相も変わらず個々がバラバラに戦うもので、残存の部隊の到着を待つこともなく行軍体勢のまま東捜索隊を攻撃するも、東捜索隊の夜襲攻撃により、放棄した戦車四輌とトラック数台を残して撃退された。  だが、東捜索隊も全兵員一五七名の内、中隊長二名を含む戦死一九名、重傷四〇名、軽傷三二名、合計九一名の死傷者を出して戦闘力を喪失していた(通常、軍隊はその半数の兵を失うと組織的行動が不可能となり、「全滅」とされる)。
 捜索隊に派遣されていた師団参謀の岡元少佐は捜索隊の傷付き振りから後方への後退を具申したが、は山県からの正式な撤退命令は届いていないことを理由に、部下達に悲壮な徹底抗戦を訓示した。

五月二九日
 朝から東捜索隊には激しい砲撃が浴びせられ、温存していた唯一の重装甲車も着弾・破壊された。その後、ソ連軍は砲撃の支援を受けながら一個大隊が化学戦車五輌を伴って攻撃。化学戦車の火炎放射にそれまで固く陣地を守っていた東捜索隊もひとたまりもなく陣地を放棄した。
 この戦闘で火炎放射が日本軍歩兵に対し有効であるということが立証されたのを受け、以後、ソ連軍では要所要所で火炎放射器が投入されることとなった。

 敗色濃厚を悟ったは一五時に鬼塚曹長を呼ぶと、山県への戦闘経過の報告と遺書を言付け脱出させた。そして一八時に残存の二〇名の兵員を連れて突撃したは、負傷後に自分を生け捕りにせんとしたモンゴル第六騎兵師団第一七連隊のロドンギーン・ダンダル連隊長との取っ組み合いの中で戦死した(を討った功績でダンダルハャーリーブーに代わって師団長に昇進)。
五月二九日
 前日夕刻に戦況を知った小松原は山県に同日をもって後退するよう命令。しかし、激戦続く中ですんなりとは退却出来ないと考えた山県は「敵に一撃を加えた後、撤退する。」と時間稼ぎを行ったが、それを真に受けた師団は機関銃・速射砲の計五個中隊を増援に送った(←好意が完全に裏目に出た)。
 同日、関東軍参謀・辻が支隊本部を訪れ、山県に用兵のまずさでを見殺しにしたと非難を浴びせ、夜襲にて東捜索隊の遺体を収容することを命じた。

五月三〇日
 山県はの命令通り、夜半に自ら六〇〇名の兵力とと第二三師団の参謀を連れ、捜索隊陣地跡に夜襲をかけた。その時には、捜索隊を壊滅させたソ連軍が、軍団司令部の命令によりハルハ河西岸に撤退していたため、山県支隊は妨害されることなく東捜索隊の一〇三名の遺体を収容した。その際にもは強権を振るい、「三人で一人の遺体を担げ。」と命令した。

 同日、モンゴル第六騎兵師団部隊がハルハ河の東岸へと再度進出している。そこを日本軍航空部隊が攻撃し、モンゴル軍は軍馬に大きな損害を受けたが、午後六時にハルハ河東方七kmの高地頂上に到達した。そこで、日本軍の機関銃射撃により前進を阻止され、ハルハ河の西岸へ撤退した。このようにまだ戦闘は継続中であったが、関東軍による、東捜索隊の全滅を隠匿して「敵を包囲して之に一大打撃を与えたり。」とする過大な報告を信じた大本営は三〇日に「ノモンハンに於ける貴軍の赫赫たる参加を慶祝す。」との祝電を関東軍に送った。そして関東軍は植田謙吉司令官名で小松原に賞詞を送った。

 ソ連軍のフェクレンコとイヴェンコフは、二九日に日本軍の増援を恐れてソ連モンゴル軍に撤退命令を出し、ソ連モンゴル軍は次の戦闘に備えて防衛線を西岸に移した。
 小松原も三一日に山県に撤収命令を出した。

 かくして、ノモンハン事件は両者痛み分けの形で終結した。
 両軍の損害は、日本軍戦死一五九名(内東捜索隊一〇五名)、戦傷一一九名、行方不明一二名で合計二九〇名
 対するソ連軍の損害は戦死及び行方不明一三八名、負傷一九八名モンゴル軍の損害は戦死三三名の合計三六九名。犠牲者数で言えば戦力が勝っていたソ連モンゴル軍の方の損害が大きかった。



事件の日ソ関係への影響 身も蓋もない言い方をすると殆ど影響していない。
 シベリア出兵からして日ソ関係は険悪で、戦前は大陸覇権を推し進め、戦後は親米路線を続けた日本ソビエト連邦ソビエト連邦崩壊まで残念ながら真の友好は築き得ていない。否、「真の友好」などと言ってしまうと日本に限らず、ありとあらゆる国家間において成立したことあるのか?という話になってしまうのだが、少なくともシベリア出兵から日ソ共同宣言が終わるまでは建前はともかく、腹の内では双方自らの意志で相手を敵視していたと云えよう。

 それゆえ、このノモンハン事件日ソ暗黒交流の一コマで、満州国モンゴルを代理に置いている分、日本ソ連も同事件をいずれは相手と戦う日の為の様子見や、優勢地点の確保としての準備段階的なものと見ていた節がある。
 何せ、当時の大日本帝国は中華民国と交戦中(既に首都南京を陥落せしめていたが、中華民国政府は重慶に立て籠もって徹底抗戦していた)で、普通に考えるなら更に別の国と戦端を開くのは愚の骨頂である。周知の通り、大日本帝国は後にその「愚の骨頂」をやらかすのだが、この時点ではまだ中国政府を後押しする勢力を何とか出来ればいいぐらいに思っていた。
 一方、欧州では第二次世界大戦が始まる四ヶ月前で、ソビエト連邦は密かに天敵である筈のナチス・ドイツと手を結ばんとしていた。当然ドイツと友好を結ぶにしても、敵対するにしても、そこには日本との関係も付随してくる。
 いずれにしても、両国とも確たる勝算か、完全なる臨戦態勢が整わない内は全面抗争に入る訳にはいかなかった。

 とはいえ、そんな常識が通用するとは言い切れない状態にあったのも事実だった。
 時の大日本帝国政府は決して戦線の拡大を望んでいなかったが、そもそも日中戦争自体が政府の戦線不拡大方針を関東軍が無視する形で始まっていたし、ソ連の最高権力者スターリンは信義の通じる相手ではなかった。ま、歴史の結果を後から知っているから言える意見なんですがね(苦笑)。

 ともあれ、さすがに多大な犠牲を出したノモンハン事件が大局的に日ソ交流に影響しなかったとはいえ、双方は戦術面では見直しを図るようになった。ただそこに反省の気持ちは欠片もなかったが

 ノモンハン事件を経て、小松原道太郎は山県の指揮に大いに不満を抱き「前進せず、又捜索隊を応援せず。遂に見殺せしむるに至り。」、「任務を達成せんとするの気魄なし。」と散々な評価を自分の日記に書き、山県が帰投するや呼びつけて作戦の細部について問い詰めたが、ソ連軍戦力の過少評価により、充分な砲兵等の支援兵力を出さなかった自分の失策についての反省はなかった

 事件後に戦場を視察したも、報告に「外蒙騎兵がこんなに戦車を持っていようとは誰も思ってはいなかった。」、「戦場に遺棄された外蒙兵の死体には食糧も煙草もないが、手榴弾と小銃の弾丸は豊富に持たされていた。」と気付いたことを記述し、この戦いの反省として、「第二三師団の左右の団結が薄弱であることと、対戦車戦闘の未熟さであろう。」としていたが、そこにも充分な速射砲などの対戦車兵器を準備出来なかった自分らの反省はなく第二次ノモンハン事件以降も同じような光景が繰り広げられることとなった。

 ソ連でも、赤軍参謀総長シャーポシニコフがヴォロシーロフ国防人民委員にノモンハン事件における戦闘について報告に出頭した際、ソ連軍の指揮官であるフェクレンコ第五七特別軍団長について、「ステップ砂漠地帯という特殊な条件下での戦闘活動の本質を理解していない。」と辛辣な評価が下され、更迭された。

 日ソ共に戦術面では反省しても、戦略的には覇道企みまくりで、それを図る前哨戦に利用された満州国モンゴルの人々こそいい面の皮だったことだろう。



不幸中の幸い ノモンハン事件日ソの長い不幸な交流史の一コマなので、ここに両国にとってのプラス面を見出すのは困難である。
 無理矢理見出すとすれば、日本政府内にソビエト連邦と事を構えることを避ける傾向が生れたことぐらいだろうか?

 古今東西、軍隊と云うものは軍事予算を計るのに、仮想敵国を必要とする。当時大日本帝国は軍備を整える目算として、海軍はアメリカ合衆国を仮想敵国とし、陸軍はソビエト連邦をそれとしていた。
 だが、結果として日中戦争を継続していた陸軍が駒を進めたのは東南アジア方面だった。南方資源を求める為だったり、大東亜共栄圏の大義名分づくりだったり、とその理由・目的は様々な見方はあるが、結果として日本側からソ連に対して「事を構えるべきではない。」との見方が生れる契機となったのではあるまいか?
 勿論歴史の結果としてはその後も日ソ間に不幸は続き、最終的には第二次世界大戦末期の対日参戦に至った訳だが、腹の底はどうあれ少なくとも日本側はソ連日ソ中立条約を結び、大戦末期には米英との和平仲介を依頼するなど、親ソならずともソ連との不戦を重視していた。

 ま、相手がスターリンではどうにもならなかったのだが……………。


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令和三(2021)年二月五日 最終更新