第玖頁 張鼓峰事件………因縁の日ソ国境紛争

事件名張鼓峰事件
発生年月日昭和一三(1938)年七月二九日〜八月一一日
事件現場満州国東南端張鼓峰
下手人日ソ双方共下手人
被害者日ソ双方共被害者
被害内容日本兵戦死五二六名、負傷九一四名。ソ連側戦死・行方不明七九二名、戦傷・戦病三二七九名。
事件概要 昭和一三(1938)年七月二九日から八月一一日にかけて、満州国東南端の琿春市にある張鼓峰で発生した日本とソビエト連邦との国境紛争(実質的には日ソ両軍による戦闘)。ソ連では、ハサン湖事件と呼ぶ。

 日本の大陸侵略進出と、ロシア帝国(及びソビエト連邦)の南下政策は満蒙を舞台に不幸な遭遇を生み、大日本帝国及び(その傀儡国家だった)満州国と、ソビエト連邦の間では国境を挟んで常に高い緊張状態があった。
 満州には、満州と極東ロシアを結ぶ東清鉄道という鉄道があった。またそこから南に伸びる支線が南満州鉄道であり、ソ連は前者を日本は後者を軍事・交通の要衝としたため、数々の日ソ国境紛争の原因の一つとなった。
 日ソ間以外でも、これらの鉄道を舞台に、昭和四(1929)年には中ソ紛争が、昭和六(1931)年には満州事変が起きてもいた。

 事件現場となった張鼓峰(ロシア名・ザオジョルナヤ)は満州国領が大日本帝国朝鮮とソ連領の間に食い込んだ部分にある標高150メートルの丘陵であり、西方には豆満江が南流している(下図参照)。

張鼓峰周辺地図


 今も昔も、国境を巡って国と国が揉めるのは国境線に対する認識の相違にある(もっとも、その「認識」は軍事上の地理的要因や天然資源や交通経路を自国に御都合的に解釈したものであることが多い訳だが‥‥……)。
 張鼓峰に対して、ソ連はロシア帝国と清の間で結ばれた北京条約に基づき、国境線は張鼓峰頂上を通過していると考えていたが、日本では張鼓峰頂上一帯は満洲領であるとの見解を持っていた。
 どちらが正しいかは専門歴史学者ではないロングヘアー・フルシチョフには断じ難い(←と言うか、日ソ双方とも侵略の果ての主張と見做している)が、現実として両国間においてきな臭く、厄介な場となっており、両国のスパイも相当数入り込んでいた。

 昭和一三(1938)年七月、ソ連は張鼓峰頂上に軍を進め、その後も兵力を増強し続けた。
 同月六日、ソ連軍の電文を傍受・解読した関東軍は、ソ連側が張鼓峰を朝鮮と満州を結ぶ戦略的に重要な鉄道を見渡せる高地と見て、それを占領するこがソ連の有利になるとしてハサン湖の西側の高地、特に係争中の張鼓峰の高地をソ連兵が確保せんとしていることを知った。
 同月一二日、ソビエト国境警備隊の小部隊がハサン湖の西側高地の領域に入り、山に砲床、観測壕、鉄条網、通信施設などを建設するなど、築城を始めた。そしてその翌日、これを監視していた日本軍の松島伍長が殺害された。

 当初、満州国国境の防衛を担当していた日本の第一九師団(朝鮮方面軍)はソビエト軍の前進を無視していたが、関東軍がその対応を第一九師団に要請し、第一九師団はこの件を東京に知らせ、政府からソ連に対して正式に抗議するよう助言した。

 同月一五日、政府は駐ソ日本大使代理の西に、ハサン湖西方の沙草峰及び張鼓峰はソビエトと朝鮮の間の国境地帯であるとして、これらの地域からソビエト国境警備隊を退去させるようソ連政府に要求した。
 前日には(名目上、独立国であった)満洲国も同様の抗議を行っていた。しかしソ連側は、現地はソ連領であるとして譲らず、外交交渉は物別れに終わった。
 現地でも一八日、軍使を派して撤兵を要求したが、回答はなかった。

 そしてソ連軍は撤退するどころか、同月二九日、張鼓峰北方の沙草峰にも越境し、陣地を構築しようとしたが、これは日本守備隊に撃退された。
 それに対してソ連軍は翌三〇日夜半から三一日にかけて、張鼓峰および沙草峰付近に大挙して来襲。日本側守備隊はこれに反撃し、被占領地を奪回して満洲国領土を回復した。
 だが、ソ連は更に兵力を増強し、執拗に侵攻を企て、朝鮮の古城、甑山などを砲撃した。

 ソ連側では第一沿岸軍に戦闘準備を下令し、太平洋艦隊にも動員令を発した。 一方の日本側では、第一九師団満州国軍部隊とともにソ連軍と相対した。
 八月一日、ソビエト軍航空隊も出動し、日本側の第一線に爆撃を行い、更に編隊を組んで朝鮮の洪儀、慶興、甑山、古城などを爆撃した。
 この猛攻撃に日本軍は多大な損害を受けつつも奮戦し、何とか国境線を確保。日ソ軍双方に大きな損害が出た。
 翌二日、ソビエト側の極東戦線司令官ヴァシーリー・ブリュヘルが前線に到着。ブリュヘルは紛争各地域に増援部隊を送り、同月六日にソ連軍大部隊は張鼓峰頂上付近に総攻撃を開始した。

 同月一〇日、駐ソ日本公使・重光葵が停戦を申し入れ、翌一一日にモスクワにて停戦が合意され、交戦状態は同日をもって終了した。

 停戦合意における協定は下記の通りである。
・ソ連沿海州時間一一日正午、双方戦闘行為を中止する。
日ソ両軍は、ソ連沿海州時間一一日午前零時現在の線を維持する。
・実行方法は現地における双方軍隊代表者間において協議する。

 停戦合意時点で第一九師団は張鼓峰頂上を死守した状態にあり、国境を巡る紛争としては日本側に有利な内容で終結した。
 現地において一一日午後八時、日本軍は歩兵第七四連隊長・長勇大佐(沖縄戦で有名)を代表とし、ソ連は極東軍参謀長シュテルン大将を代表としてソ連軍陣地内において会見し、停戦が実現した。
 翌一二日午後九時三〇分、両者は下記内容の文書をもって現地協定覚書を交換した。
・張鼓峰稜線北部における現状につき、さしあたり両国政府に報告すること。
日ソ両軍指揮官は、軍事行動停止に関し、両国政府の決定により、今後張鼓峰付近においてはいかなる事件も発せざるため、万全の処置を取ることを保証す。
・昭和一三(1938)年八月一二日午後八時より、日ソ両軍は張鼓峰稜線北部において、日ソ両軍主力を稜線より八〇m以上の線に後退せしむべし。

 前述した様に日本軍は張鼓峰頂上を確保しており、現地調査の結果、ソ連軍もこれを確認し、協定通り双方部隊の後退を完了、戦闘状態は終熄した。

 だが、日ソ両国とも満蒙における覇権を諦めた訳ではなかったので、これが束の間の講和に終わったのは残念な史実であった。



事件の日ソ関係への影響 この張鼓峰事件、多大な犠牲者を出した事件にしては直接的には良くも悪くも日ソ関係に余り影響していない。

 冒頭に記している様に、約二週間の紛争で日本兵は戦死五二六名、負傷九一四名を出し、ソ連側は戦死・行方不明七九二名、戦傷・戦病三二七九名の損害が出た。
 第一次世界大戦においてほとんど激戦を経験しなかった日本にとって、日露戦争以来となるロシア人との本格的な戦闘であった(日本軍日露戦争シベリア出兵で相当な痛手を蒙っていたが、要塞や玄関によるものとして、直接戦闘におけるロシア軍の能力を過小評価してい)。
 この張鼓峰事件と程なく起きたノモンハン事件において高度に機械化された赤軍の実力を痛感した日本軍だったが、当時日中戦争の真っ只中で、中国国民党軍を主敵と見做していた日本陸軍ではこの事件を教訓として機械化を積極的に進めるということにはならなかった。

 当面の敵対国との事情を優先するのは当たり前だが、逆の言い方をすれば、国境問題を別にすれば、日ソはいがみ合う理由もなく、同事件を経ても日本はソ連と本格的に戦うことを考えていなかった。
 もっとも、歪んだ国防観で戦争への自縄自縛に陥っていたのは日本陸軍もスターリンも同様で、謂わば、両国間紛争の病根は残された訳で、この張鼓峰事件が(事件としての規模が大きくなかったにせよ)日ソ間の完全な和解としての解決に繋がれなかったのは残念ではある。



不幸中の幸い 国と国が友好な状態にあっても、武器を持った軍隊が国境線を挟んで対峙していれば、相手を好意的に見るのは至難の業だろう。
 不幸にして紛争・戦闘が起きれば相手国の人間がどんな人間であろうと「倒すべき敵」と認識せざるを得ず、まして敵将が名将であればある程、悪鬼としか見做せなくなってしまう。
 だが、何千人単位の犠牲が出た紛争が短期に終息し、日本に有利な内容で停戦合意が為されたのには、ソビエト側の極東戦線司令官ヴァシーリー・ブリュヘルの存在が大きかった。

 ブリュヘルは、国境紛争の拡大に反対の立場を取っており、自国国境警備隊による国境侵犯の事実を確かめ、責任者の処罰を要求していた。そのため、戦闘が本格化してもソ連側の戦意は熾烈なものとならず、犠牲と戦闘長期化はまだ抑えられたものとなった。
 だが、ブリュヘルの公平公正な措置はソ連軍の兵力集中を妨げたとして、スターリンによってブリュヘルは粛清されてしまった。この史実がようやく世に知られたのは、ソ連崩壊を経て近年になってかららしい。
 また上記の同事件におけるソ連軍の損害の実態も、ソ連崩壊における情報公開によるもので、しかも戦死者の一八%が将校だったと云うことも判明した。数的にも日本軍の倍の犠牲者が出ており、このことが早期にソ連国民に周知されていればソ連国民の対日感情は著しく悪化していたかも知れない。
 ソビエト連邦の情報隠蔽体質は二〇世紀後半から現在に至るまで国家の悪しき在り様として非難対象になっているが、彼の国が体面を慮って犠牲者数を隠蔽したおかげで国民間の感情悪化に歯止めがかかったのは、それ自体は悪くないにしても、些か皮肉である。

 ちなみに、この張鼓峰事件における戦闘には、後の第二次世界大戦で活躍した日本人軍人の名も散見される。
 歩兵第七五連隊の連隊長は佐藤幸徳大佐で、彼は悪名高いインパール作戦に抗命した人物であった(一方、愚策を命じた牟田口廉也は葬式の日にまで言い訳のビラを撒いた)。
 山砲兵第二五連隊・連隊長は田中隆吉大佐で、彼は東京裁判で検事側証人を務め、日本軍人の非を証言しつつも、昭和天皇への責任追及回避に努めた人物でもあった。
 単純に論じるのは問題があるのを百も承知で書くが、かかる硬骨な人物達がいたからこそ、戦闘が不必要に拡大しなかったと述べるのは過言だろうか?


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令和元(2019)年一〇月一二日 最終更新