第拾壱頁 関東軍特種演習………日ソ中立条約破棄の正当化要因?

事件名関東軍特種演習(かんとうぐんとくしゅえんしゅう)
発生年月日昭和一六(1941)年七月一六日〜三一日
事件現場満州国北辺国境地帯
下手人 関東軍
被害者具体的被害者無し
被害内容 ソビエト連邦の対日感情悪化
事件概要 もし、この関東軍特種演習(以下、「関特演」と表記)を「事件」だと、元関東軍幹部や日本史における日本の悪行を一つとして認めまいとする自慰史観者の前で云えば、彼等は目玉をひん剥いて、「演習だ!事件でもなければ、誰かにとやかく言われる筋合いもない!」と言って激怒するだろう。

 そう、表向きは軍事演習である。
 独立国の軍隊が有事に備えて自国内にて軍事演習をするのは特におかしな行為でもなければ、事件でもない。この関特演も(あくまで表向きだが)独立国である満州国から国防を託された(←勿論実態は強要)関東軍が仮想敵国としていたソビエト連邦軍に備えたごく普通の演習である。
 しかし、それは結果的に「演習」に終止しただけで、ソ連に隙があれば即座に「強襲」に変わり得るものだった。

 事の始まりは昭和一六(1941)年六月二二日の独ソ戦争である。
 この時点で日本は日中戦争が泥沼状態にあり、同盟国のナチス・ドイツは欧州の大部分を支配下に治めるも、イギリスが頑強に抗戦する中、独ソ不可侵条約を反故にしてソ連に攻め入った。
 不意を突かれた上、当時のソ連軍は独裁者ヨシフ・スターリンが猜疑心から有能な将校を次々と粛清していたため極端に弱体化し、緒戦において連戦連敗を喫した。
 ドイツと三国同盟を、ソ連と日ソ中立条約を締結していた日本は微妙な立場に立たされたが、一連の動きを受けて開戦一〇日後の七月二日に御前会議を開催し、『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』を採択した。

 詰まる所、独ソ戦争がドイツ有利に進展したら武力を行使して北方問題を解決するとの方針を打ち出したのである。そしてこの採択に基づいて七月七日に大動員令が下り、関特演が行われた。
 第一次動員として同月一三日に内地から約三〇〇の各部隊を動員、第二次動員として三日後の一六日に一四個師団基幹の在満州・朝鮮部隊を戦時定員に充足し、且つ内地より二個師団を動員して満州北部の陸軍に膨大な兵力と資材が集積された。

 つまりは演習に託けた軍備増強並びに戦争準備だった。
独ソ戦当初のドイツ軍圧倒的優位を見て、日独同盟を重視し、ドイツと協力してソ連を挟撃すべしと云う、所謂北進論が叫ばれた訳だが、これを唱えた面子には枢密院議長・原嘉道等がいたか、その中に日独伊三国同盟にソ連を加えてた四国同盟構想を持ち、モスクワでスターリンとハグまで交わしていた外務大臣・松岡洋右が含まれていたのには呆れるばかりである(←つまりテメーで提唱・締結しておきながら、遵守する気は更々なかった)。

 ともあれ、首相・近衛文麿はノモンハン事件を振り返り、その時点での関東軍が保有していた兵力・約二八万では満州工業地帯の防衛が困難であると判断して、関東軍首脳部の主張を支持した。
 これにより動員令が発令され、関東軍は戦時定員の一四個師団に加えて多数の砲兵部隊・戦車部隊・航空部隊・支援部隊を有す七四万もの大兵力となった。

 しかしながら、程なくこの大兵力の多くは南方に向けられた。
 昭和一六(1941)年七月二八日に仏領インドシナ(現・ベトナム)進駐が始まり、米英蘭との緊張状態が加速し、日本政府はソ連方面よりも東南アジア方面へと政策の重点を移して行った(南進論)。

 半年も経たない内に中国との戦争継続状態にありながら米英との戦端を開くという愚昧極まりないことをしでかした日本軍だったが、さすがに馬鹿ばかりではなく、南方に侵出しながら北方でソ連と事を構えるのは余りにも不利と判断された。
 同年八月三日、関東軍と海軍が話し合い、海軍は尚も対ソ好戦的だった関東軍に対して文書から「対ソ開戦」の文字を削除するように迫り、五日に妥結した。
 これを受け、大本営陸軍部と関東軍は九日に年内対ソ開戦の可能性を断念した。そして北方の兵力は充実させたものの、南方進出方針の決定により、満蒙国境警備のみを行うに留まった。
 だが、日ソ開戦が見送られただけで、在満日本人の苦難は増した。
 太平洋戦争中期には島嶼防衛のために南方軍に対し関東軍から兵力・資材の引き抜きが始まり、末期には本土決戦の為に更に兵力・資材が引き抜かれ、満州在留邦人に穴埋め負担が課されたのであった(根こそぎ動員)。

 結果、関特演は(表面的には)文字通りの演習に終わり、牡丹江北演習場で行われたそれは、七月一六日〜三一日の半月間であった。



事件の日ソ関係への影響 関東軍特種演習そのものは演習の振りをした戦機伺いで、結局戦機は見出されず、日ソ開戦に至らなかったので、これ自体が直接日ソ間に何か影響を及ぼした訳ではなかった。

 だが、太平洋戦争末期に「演習を行った。」という出来事を大義名分に悪用された。詳しくは次々頁の「対日参戦」に譲るが、昭和二〇(1945)年八月八日に二日前の広島への原爆投下を受けて降伏は時間の問題と化していた日本に対し、ソビエト連邦は宣戦布告し、満州・樺太・千島列島に攻め込んだ。
 この時点で不延長が決まっていたとはいえ、日ソ中立条約は有効期間内(失効予定日は昭和二一(1946)年四月二五日)で、当然この破約はソ連を非難する理由として充分だった。
 それに対してソ連側では、「首都モスクワにドイツ軍が迫っている時に、関東軍特種演習が行われたことによってモスクワ救援の為の部隊をシベリア方面からの移送が妨げられた事は日ソ中立条約違反の利敵行為である。」とした。
つまり、関特演によってその時点で日ソ中立条約は効力が「事実上」消滅しており、ソ連対日宣戦布告が中立条約期限切れ前に行われていても国際法上問題は無いと主張し、対日参戦を正当化した。

 勿論、こじ付けにもなっていない。百歩譲って、ソ連の主張するように関特演日ソ中立条約を無効化するに値する背信行為だったとしても、それならそれでソビエト側からその旨を通告し、実際に日本側と不延長を決めたときに同条約が無効であることを宣言するのが筋である。
 そもそも、ロングヘアー・フルシチョフ自身、関特演が開戦戦機を伺う敵対的な思惑があったことを認めはするが、実際に軍事行動が為されず、行動が演習・警備強化に留まった以上、ソ連の非難は適切ではない、と考えている(兵が国境を越えたり、ソ連兵への殺傷があったりすれば別である)。

 ただ、結果としてソビエト連邦は、それを受け継いだロシアは、関特演を大義名分とした。ソビエトによる対日参戦は米英もヤルタ会談で秘密裏に認めていたため、論戦において日本に味方しなかった。
 だが、昭和二〇(1945)年四月五日に、ソ連の外相ヴァチェスラフ・モロトフが駐ソ日本大使・佐藤尚武に日ソ中立条約を破棄する旨を通告した際に、佐藤は同条約の第三条をたてに、後一年は有効な筈だと主張し、モロトフも「誤解があった。」として同条約が昭和二一(1946)年四月二五日迄は有効であることを認めた。

 関特演を条約反故の大義名分とするのに不適切なのは他ならぬソビエト側も分かっていた筈である。おそらく関特演が無かったとしても、ソ連は条約反故の為に他の事例を持ち出して言い掛かりをつけたことだろう。
 それでもソ連側に隙があれば攻め入る気満々だった輩が当時の日本政府に間違いなく存在したことを忘れてはならない。
 もし日本側から対ソ戦に踏み込んでいれば、「先に条約を破った!」として戦後日本は千島列島、樺太に加えて北海道をも失っていたかも知れないのである。



不幸中の幸い 殆ど無い。有るとすれば、日本側から日ソ中立条約を破棄・破約するという愚行が関東軍特種演習における索敵を通じて避けられたことぐらいだろうか?
 ソ連及びロシアはこの関特演以外に対日参戦を正当化する材料を示していない。まだこのことがあるから北方領土返還交渉に対してソ連を「先に条約を破った。」として(例え相手が認めていなくても)こちらに是がある立場を持ち出せる。
 また、このことがソ連及びロシアにある種の気まずさを抱かせ、同国が破約を行うことへの歯止めになっていると信じたいところではある。


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令和三(2021)年二月五日 最終更新