第拾参頁 対日参戦………有効期限無視の火事場泥棒侵略

事件名対日参戦
発生年月日昭和二〇(1945)年八月八日〜昭和二〇(1945)年九月二日
事件現場千島列島、樺太、満州
下手人ソビエト社会主義共和国連邦
被害者千島列島、樺太、満州国の日本人居留民
被害内容略奪・暴行・殺戮・シベリア連行・一家離散
事件概要 昭和一六(1941)年一二月八日に開戦された太平洋戦争は緒戦こそ日本軍が目覚ましい連戦連勝を繰り広げたが、半年後の翌昭和一七(1942)年六月五日にはミッドウェー海戦で大敗するや完全に制海権・制空権を失い、サイパン島が陥落すると本土への空襲が激化した。
 開戦前から多少なりとも彼我の戦争能力を知る者達は緒戦の勝利を重ねる内に有利な条件での講和を画策していたが、完全に泥沼化し、日本側から講和交渉を切り出せない状態にあった。
 昭和一八(1943)年九月八日には同盟国のイタリアがあっさり降伏し、昭和二〇(1945)年四月三〇日には同じく同盟国であったドイツの総統ヒトラーが自殺し、同年五月一日にベルリンが陥落し、翌日にはドイツも降伏した。
 さすがにこの時点で大日本帝国も戦争に勝てるとは思っておらず、講和の道を模索していたのだが、時の政府が頼りとしたのは、ソビエト連邦だった。

 だが、そのソビエト連邦も同年四月六日に日ソ中立条約の不延長を通告してきており、日本に好意的とは言い難かった。ただ、同条約は不延長の場合でも一年間は有効で、昭和二一(1946)年四月六日まで両国は中立を守る義務があり、その為、日ソ間には国交も継続していた(同年八月六日の原爆投下直後、駐日ソビエト大使館から調査員が広島に派遣されている)。
 日本にとって、この時点で連合国との講和仲介を依頼し、担い得る大国はソビエト連邦しか存在しなかった。だが、結果としてソビエト連邦は仲介を断っただけでなく、日本の知らない内に同年二月のヤルタ会談にて連合国に対日参戦を密約していたのだった…………。

 歴史の結果を知っているから云えることなのだが、当時のソビエト連邦の最高権力者ヨシフ・スターリンは世界史上屈指の猜疑心の塊男で、凡そ「信義を守る」という言葉の通じない男だった。
 恐らく、自分が約束と云うものを一顧だにしない人間だから、余計に人を信じられなかったのだろう。或いは政策的主張は真逆でも人間的に似た者同士として親近感を抱いていたアドルフ・ヒトラーに裏切られ、独ソ不可侵条約を反故にされた経験からも、自分が日ソ中立条約を反故にすることに後ろめたさを感じなくなっていたのかも知れない。
 とはいえ、スターリン自身も対日参戦が(表向きは認めなくても)条約反故であることは自覚していたので、連合国(主にアメリカ)に対してそれ以上の見返りを求めた。

 アメリカ大統領ハリー・トルーマンもソビエト連邦が参戦する見返りとして、ソ連日露戦争で失った領土(南樺太)と千島列島の奪還を認め、対日参戦はドイツ降伏の三ヶ月後と決められた。  だが、スターリンはそれしきの戦果に満足する男ではなかった。

 少ない物資に苦しみながら頑強に抵抗する日本軍との本土決戦を控え、米軍の被害を軽減する為にソ連対日参戦を求めたトルーマンだったが、程なく、これが早計だったことを知った。

 原爆実験の成功である。

 原子爆弾の威力をもってすればアメリカ単独で日本を降伏に追い込むのは時間の問題で、そうなると戦後の国際社会における発言力・力関係を考慮すれば、ソ連対日参戦は不要どころか、下手に勢力拡大して欲しくない害悪でしかなかった。
 一方、スターリンの方でも広島への原爆投下を知り、アメリカがソ連の助力無しに日本を屈服させることに危惧を覚え、八月八日日本に宣戦布告し、満州・朝鮮・樺太・千島列島に攻め込んだのだった。
 その宣戦は、同日のモスクワ時間午後5時(日本時間では午後11時)、ソビエト連邦外務大臣ヴァチェスラフ・モロトフが駐ソ日本大使佐藤尚武を呼出し、布告したものだった。
 慌てた佐藤はモロトフに東京への連絡許可を求め、モロトフはこれを了承したが、回線は既に断ち切られていた(←やることがセコいのう)。

 日本への侵攻を「8月の嵐作戦」と称したソ連軍はシベリアから満州国、北サハリンから南樺太、カムチャッカ半島から北千島への侵攻を目論んだが、第一優先としたのは満州で、その戦況次第で南樺太・千島列島への侵攻を開始するとした。
 極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は三方面から満州国に攻めかからせた。部隊は第1極東正面軍・第2極東正面軍・ザバイカル正面軍からなる三部隊で、擁する兵力は兵員一五七万七七二五人、火砲二万六一三七門、戦車・自走砲五五五六両、航空機三四四六機をだった。

  それに対して日本の北方防衛を担っていた関東軍の兵力は約七〇万。数の上ではやや不利だったが、深刻なのは兵器力の格差だった。火砲は歩兵砲・山砲などすべてを含めても約一〇〇〇門、戦車は約二〇〇両、航空機は約三五〇機で、内戦闘機は六五機という有様だった。機動力で云えばソ連軍の何十分の一かでしかなかった。
 更に、関東軍全体としてはソ連が侵攻してくることへの危機感は一様に持ち合わせていたが、「いつ頃攻めて来るか?」に関しては個々に見解がかなり異なり、「即座に攻めてくる。」と見た者もいれば、「来年(昭和二一(1946)年)頃には………。」と見ていた者もいた。
 かかる戦力差を補うべく、関東軍では要塞群の密集する東部・北部に主力部隊を配置してソ連軍を阻止し、西方面では逐次的な抗戦と段階的な後退行動によって敵部隊を消耗させつつ連京線以東の山岳地帯に誘導して、ここで敵主力を可能な限り叩き、最終的には通化・臨江を中心とする総複郭内に立て篭もるのを主軸とした。
 要するに兵器力の差が深刻だったため、戦車や自走砲の通りににくい地形を利用したゲリラ戦術による攪乱作戦を採ったのである。


 ともあれソビエト連邦軍はハバロフスク時間の八月九日午前一時に、対日参戦を発動した。
 前述した様に、兵員数も不利なら、兵器力の差はもっと不利だった訳だが、それが顕著に表れたのが、西正面だった。
 関東軍は三倍以上の戦力差で攻めてくる敵に対して、要塞の防御力と主力部隊の戦力を頼みとして応戦したが、地形的に機械化戦力は来るまい、として手薄にしていた西方面への一方的な侵攻を許してしまった。
 西方面のソ連軍は関東軍の抵抗を受けることなく順調に進撃。戦車隊は僅か三日で四五〇qも進撃した。鉄道沿線の日本軍は殲滅され、八月一五日までに大興安嶺が突破された。
 精強な機甲部隊を前に関東軍が目指した籠城・ゲリラ戦術は兵器的に功を奏さず、前線では八月一二日に新京に向かって後退を開始した。
 その殿軍を原田宇一郎(中将)率いる第二航空軍が担い、攻撃機の中には弾を打ち尽くした後、敵戦車に体当たり攻撃を行ったものも相当数に上った(命懸けで居留民や国土を守らんとした自己犠牲精神を全面否定したくはないが、やはり軍国主義教育や、降伏を許さない先陣訓がなければ敵味方問わず第二次世界大戦全体の犠牲はもう少し軽減されたように思われてならない)。
 激しい戦闘の中、退路も遮断され、ソ連軍に包囲された師団の中には北部の山岳地帯で持久戦闘を展開し、終戦を知ることもなく包囲下で抗戦を続けるものもあった。結局、関東軍参謀二名の命令により停戦したのは同月二九日のことであった。

 東正面でも三倍以上の大軍相手に苦戦を強いられ、兵員のみならず、武器弾薬・燃料も不足しており、質的にも圧倒的に不利だった。 それでも強固な要塞地帯を頼りに善戦したが、敵に包囲されて観月臺は同月一〇日に陥落、天長山守備隊も同月一五日に全滅した。
 東部正面最大都市、牡丹江にてソ連軍主力が来るとした清水司令官の好判断もあって、防戦中に牡丹江在留邦人約六万人を後退させるのに成功したのが不幸中の幸いだった。
 だが、二日に渡る壮絶な市街戦の末、日本軍五個歩兵連隊は全滅。第五軍は、同月一七日までに六〇km西方に後退し、そこで停戦命令を受けた。

 そして最大激戦区となった北正面だが、ここにはソ連軍だけではなく、モンゴル人民軍も参戦していた。
 開戦当日こそ悪天候が味方し、ソ蒙連合機動軍の機甲部隊が機動力を奪われたことで本格戦闘に至らなかったが、同月一一日にソ連・モンゴル軍は攻撃を開始した。
 善戦した関東軍だったが、兵員数の差から背後にも敵兵に回られ、結局停戦までひたすら耐えるしかなかった。

 そしてソ連軍は予定通り、満州方面での優勢を受けて朝鮮半島・南樺太・千島列島にも攻め込んだ。
 朝鮮半島では、ソ連軍が咸興方面と羅南方面が前線と見られていたが、太平洋艦隊北朝鮮作戦部隊・第一極東方面軍第25軍・第10機甲軍団の一部が来襲。同月一二日から一三日にかけて、ソ連軍は海路から北朝鮮の雄基と羅南に上陸してきた。
 それに対して関東軍は上陸部隊の準備が整わない内に撃滅する、所謂、水際迎撃を行い、上陸したソ連軍を分断、ソ連軍の攻撃前進を阻止するだけの損害を与えることに成功し、水際まで追い詰めた。
 だが、同月一五日にはソ連軍に新手が加わり、北方から狙撃師団が接近したので防御に転じたところで同月一八日に停戦命令を受けた。

 そして南樺太では、ソ連軍の第2極東戦線第16軍は、「8月11日10:00を期してサハリン(樺太)国境を越境し、北太平洋艦隊と連携して8月25日までに南サハリンを占領せよ。」との命令を受けて、ようやく戦端が開かれた。
 これを迎え撃つ樺太の日本軍は、四年前の関東軍特種演習から対ソ戦準備をしていたが、太平洋戦争中盤からは対米戦準備も進めさせられて、対米・対ソの双方で中途半端な状態だった。
 一一日午前五時頃、ソ連軍第56狙撃軍団が本格的侵攻を開始。樺太中央部を通る半田経由と、安別を通る西海岸ルートの二方向から侵入した。
 これに対して日本軍は九日に方面軍から積極戦闘を禁じ、防戦主体の命令の元、国境付近の半田一〇kmほど後方の八方山陣地において陣地防御を実施した。
 何度考えてもふざけた話だが、戦闘はポツダム宣言を受諾した八月一五日以降も終わらず、逆に拡大していった
 日本政府からの明確な指示が出ないまま、ソ連軍による無差別攻撃に対応し日本軍も自衛戦闘として応戦を続けた。ソ連軍は一六日には塔路・恵須取に、二〇日には真岡へも上陸し。  その際真岡郵便電信局事件(次頁参照)と云う痛ましい事件が発生し、軍使を殺害するソ連軍に対して交渉の術を持てない歩兵第二五連隊は、熊笹峠へ後退しつつ抵抗を続けた。
 二二日に知取にて停戦協定が結ばれるが、にもかかわらずソ連軍航空機は赤十字のテントが張られ白旗が掲げられた豊原駅前を空爆し、ソ連軍潜水艦は樺太からの引揚船・小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸を留萌沖で攻撃し、一七〇八名の死者と行方不明者を出した!!!三船殉難事件
 そして南下し続けたソビエト連邦軍は二四日早朝に豊原に到達すると樺太庁の業務を停止させて日本軍の施設を接収。翌二五日には大泊に上陸して樺太全土を占領した。

 一方、戦局的に些か様相が異なったのが千島列島だった。
 というのも、既に交戦中だった米軍との対陣を無視して語れないからで、この時点での千島列島では、アリューシャン列島からの撤退により、占守島を初めとする北千島での戦局が重視されていた。
 当初はアッツ島からの米軍空爆に対する防空戦が主であったが、樺太同様兵力増強が図られたが、補給の困難から、ある程度の数が終戦まで確保(第九一師団基幹の兵力約二万五〇〇〇人、火砲約二〇〇門)された。
 この防備の固さゆえか、九日の対日参戦開始から何事もなく、八月一五日を迎え、一八日一六時を期限とする戦闘停止命令を受け、兵器の逐次処分等が始まっていた。だが、ここでもソ連軍は日本の降伏を無視したかのような攻勢に出た
 ソ連軍は一五日に千島列島北部の占守島への侵攻を決めており、日本が停戦に応じる日であった一八日未明に揚陸艇一六隻、艦艇三八隻、上陸部隊八三六三人、航空機七八機による上陸作戦を開始。
 当然、かかる暴挙に対する反撃は全くの正当行為で、日本軍第九一師団は、水際での火力防御を行い、少なくともソ連軍の艦艇一三隻を沈没させた。

 日本軍の激しい抵抗を押し切って上陸に成功したソ連軍は島北部の四嶺山付近で日本軍一個大隊と激戦を展開。日本軍は戦車多数を失いながらもソ連軍を後退させ、その後のソ連軍再攻撃にも優勢に戦ったが、一八日に政府の意向を受けた第五方面軍司令官・樋口季一郎(中将)より一六時に戦闘行動の停止命令を発した。
 停戦交渉の間も小競り合いが続いたが、二一日に最終的な停戦が実現し、二三・二四日の二日間で日本軍の武装解除が為された。
 かくして戦闘行為こそ終わったものの、ソ連軍は二五日に松輪島、三一日に得撫島を、別部隊によって二九日に択捉島、九月一日〜四日の間に国後島・色丹島を占領した(歯舞群島の占領に至っては、降伏文書調印後の、三日から五日のこと!!)。


 くどい繰り返しだが、ソ連軍による日本領土(及び植民地・勢力圏)への攻撃は、その多くが八月一四日に日本政府がポツダム宣言を受諾し、翌一五日に終戦詔書が発布された後のものだった。
 そのことはソ連軍も百も承知だったのだろう。ソ連最高統帥部は、日本政府の宣言受諾を「政治的な意向」であるして、前線の軍事行動には何ら変化もなく、「日本軍には停戦の兆候を認め得ない。」との見解を表明し、攻勢作戦を続行した。つまり「現場は降伏していない。」と(一方的に)決め付けて、自分達の侵攻を正当化した訳だ!
 一々述べるのも馬鹿馬鹿しいが、降伏受諾(八月一五日)から降伏文書調印(九月二日)までの間に「ソ連による実効支配地」を可能な限り拡大し、既成事実化を推し進めるのが目的だったのは明白過ぎる程明白だった。
 だが、このことは降伏した筈の日本軍が武力抵抗することを「是」とし、ソ連によるこれらの地の戦後支配を「非」とするのに充分な理由を与えた(特に前者)

 連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーも八月一五日に、昭和天皇・政府・大本営に対して、日本軍すべてに対する戦闘停止を命じたが、これは自衛行動を禁ずるものでは無かった。と云うか、恭順の意を示しているのに武器を持って攻撃して来るのとあっては、残された武器を再度手にして反撃する他ないのは当然である
 一応、一七日、関東軍総司令山田乙三がソ連側と交渉に入ったものの、ヴァシレフスキーは「二〇日午前まで停戦しない。」と回答した。これを受けてマッカーサーは関東軍とソ連軍を停戦させるべく、一八日に改めて、日本軍全部隊のあらゆる武力行動を停止する命令を出し、日本軍は各地で戦闘を停止し、停戦が本格化したが、ヴァシレフスキーは同日に北海道上陸命令を下達していたと云うから呆れる他ない(幸い北海道上陸は実現しなかったが)。

 それでも一九日に関東軍総参謀長秦彦三郎(中将)がソ連側の要求をすべて受け入れ、本格的な停戦・武装解除が始まった。
 二四日には正式な停戦命令がソ連軍に届いたが、現場のソ連軍は九月二日の降伏文書調印後もそれを無視して戦闘・占領を継続。終結したのは満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島全域を完全に支配下に置いた九月五日になってからだった……………。



事件の日ソ関係への影響 最悪としか云いようがない‥‥‥……。
 条約反故や日本領を奪われたことだけを云っているのではない。戦場となった当時の日本領では多くの居留民が国籍問わず戦果に蹂躙された。と云うのも、猜疑心の塊男ヨシフ・スターリンは自分に忠実でないと疑ったものを片っ端から粛清しており、それにより軍隊でも能力・人格に優れた将校が何人も粛清され、それが為に独ソ戦争序盤では連戦連敗を喫していた。
 そんな状況だから対日参戦の為に動員された兵員は新たに急募されたもので、こうなると質に構っておられず、とにかく人数を集めたため、対日参戦に参加した兵員にはゴロツキやチンピラの類が少なくなく、そ奴らは行く先々で上層部の訓示を無視して強姦・放火・暴行・略奪を繰り返した(これは西部戦線でも同様で、ベルリン陥落に際しては多くのドイツ人女性が凌辱の憂き目を見た)。
 また、満州では満州国に従っわず匪賊化していた者や、満州国を傀儡とした日本による支配を恨んでいた満州人が暴徒と化して報復的に日本人居留民に牙を剥いたことが悲劇に拍車を掛けた。

 気が重いが、各地の悲惨な状況について触れると、まずは満州。
 北方を守る関東軍だったが、激戦が継続されていた南方や本土決戦に向けた内地に物資・人員が回され、兵員不足を補う為、現地の老人や少年が臨時に配備され、その未熟な陣容はソ連軍の格好の餌食だった。
 しかもソ連軍は、何度も前述した様に日本がポツダム宣言を受諾後も攻め続け、日本軍もこれに頑強に抵抗した(←くどいが完全に正当な自衛行為である)。
 当然、戦闘は激しいものとなり、日本人・ロシア人双方において失われなくていい命が多数失われた………。

 勿論関東軍にてこれらの侵攻(及びそれに伴う蛮行)に対して危機感がない訳ではなかった。
 作戦立案・検討過程において、関東軍は交通連絡線・生産・補給などに大きく貢献していたおよそ一三二万人の居留民を、開戦の危険性が高まるに伴い内地へ移動させることが検討されたが、輸送のための船舶を用意することは事実上不可能であり、朝鮮半島に移動させるとしても、いずれ米ソ両軍の上陸によって戦場となるであろう朝鮮半島に送っても仕方がないと考えられ、また輸送に必要な食料も目途が立たなかった。
 それでも、総司令部兵站班長・山口敏寿(中佐)は、老幼婦女開拓団を国境沿いの放棄地区から抵抗地区後方に引き上げさせることを総司令部第一課に提議したが、第一課は居留民の引き上げにより関東軍の後退戦術がソ連側に暴露される可能性があり、ひいてはソ連侵攻の誘い水になる恐れがあるとして、「対ソ静謐保持」を理由に却下していた。

 状況悪化に伴い、満州開拓総局は開拓団に対する非常措置を地方に連絡していたが、多くの居留民開拓団は悪化していく状況を深刻に捉えていなかった。満州開拓総局長斉藤(中将)も開拓団を後退させないと決めていた。
 加えて事態が深刻化してからも中央省庁から在満居留民に対して後退についての考えが示されることもなかった。前述の「対ソ静謐保持」を理由に国境付近の開拓団を避難させることもなく、ソ連侵攻時、引き揚げ命令が出ても、一部の開拓総局と開拓団が軍隊の後退守勢を理解せず、待避をよしとしなかった。
 偏に、多くの開拓団と開拓総局の人々が関東軍(=日本軍)=無敵を盲信し、情報の不足し過ぎていた故だった。

 勿論、だからといって、関東軍や日本政府が何もしなかった訳ではない。
 八月九日にソ連軍侵攻が始まると関東軍は直ちに大本営に報告し、命令を待った。翌日一〇日朝に総参謀長統裁の元に官民軍の関係者を集め、具体的な居留民退避の検討を開始した。
 同日一八時に民・官・軍の順序で新京駅から列車を出すことを決定し、正午に官民の実行を要求した。しかし官民両方ともに一四時になっても避難準備が行われることはなく、軍は時間を無駄に出来ない状況を鑑みて、避難順序の構想を破棄し、とにかく集まった順番で列車編成を組まざるを得なかった。
 第一列車が新京を出発したのは予定より大きく遅れた一一日一時四〇分で、その後総司令部は二時間毎の運行を予定し、大陸鉄道司令部に対して食料補給などの避難措置に必要な対策を指示した。
 現場では混乱が続き、故障・渋滞・遅滞・事故が続発したために避難措置は非常に困難を極めた。結果として最初に避難したのは、軍家族、満鉄関係者などとなり、暗黙の了解の内に国境付近の居留民は置き去りにされた(特に満鉄関係者は誰一人犠牲にならず、真っ先に逃げたことが後々非難される元となった)。

 他方、辺境における居留民については、最前線部隊が保護に努めていたが、ソ連軍との戦闘が激しかったために救出の余力がなく、殆どの辺境居留民は後退出来なかった。
 殊に国境付近では、「根こそぎ動員」によって戦闘力を失っており、死に物狂いでの逃避行の中で戦ったが、侵攻してきたソ連軍や暴徒と化した満州民、匪賊などによる暴行・略奪・虐殺が相次ぎ(葛根廟事件。数千人の避難民が退避している際にソ連軍から一斉射撃を浴びた後、戦車で轢き殺された。その後生存者も死者も中国の暴民によって衣服をはがされ、強姦された)、ソ連軍の包囲を受けて集団自決した事例(麻山事件佐渡開拓団跡事件)、各地に僅かに生き残っていた国境警察隊員・鉄路警護隊員の玉砕が多く発生した。
 弾薬処分時の爆発に避難民が巻き込まれる東安駅爆破事件も起きた。また第一線から逃れることが出来た居留民も飢餓・疾患・疲労で多くの人々が途上で生き別れ・脱落することとなり、収容所に送られたり、孤児となったりする人々も出た。

 樺太ではソ連軍侵攻後に第八八師団と樺太庁長官、豊原海軍武官府の協力で、二三日までに八七六七〇名が北海道本島に向けて離島出来たが、その後の脱出者を合わせても四一万人の中約一〇万人が脱出出来たに過ぎなかった。
 殊に前述した真岡郵便電信局事件三船殉難事件の様な痛ましい事件も多く起きた。そして約五〜六〇〇〇と推定される民間人犠牲者の内、特定された遺骨は一柱として日本に帰還していない

 太平洋戦争において、よく沖縄県が日本領において「唯一戦場となった」と云う書き方をされるが、これは「現・日本領土」という意味においてで、(経緯の是非はどうあれ)南樺太・千島列島・朝鮮半島も国土蹂躙の憂き目を見て、民間人が戦闘に曝されたのは沖縄と同様である(←一応、満州国は形の上では独立国としていたので、ここでは「日本領」には含めていません)。
 南樺太・朝鮮半島・北千島が現日本領でないために、「戦場となった日本領」と云う見方が忘れられがちなのもまた悲劇的と云えよう。
 勿論、これら戦地となった北方からシベリアに連行され、強制労働に従事させられた日本兵・居留民の悲劇(シベリア抑留。次々頁参照)も忘れてはならないのは云うまでもない。


 そしてかかる悲劇や悪行の連発を受けては、戦後日本は(様々な対米追従を差っ引いても)容易には親ソ的になれず、サンフランシスコ講和会議において日ソ間では講和が成立せず、いまだに両国間には平和条約が締結されずにいる。
 殊に、戦争勃発の前に、「日ソ中立条約違反」があることをもって、ソビエト連邦を「信用に値せぬ国家!」と決め付ける様になった日本人も少なくないだろう(ロングヘアー・フルシチョフだって、ヨシフ・スターリンの様な奴が統べる国では国家間の取り決めを守るとの信用は持てない)。  すべてをこの対日参戦のせいにする訳ではないが、戦後の日ソ交流を潤滑ならざるものにしている要因を為しているのは間違いなかろう。



不幸中の幸い 一応、日露両民族の名誉の為に触れておきたいが、日本政府・日本軍も何も好き好んで居留民を見殺しにした訳でもないし、ソ連軍首脳もチンピラ兵による非人道的行為を容認した訳ではなく、日本軍と日本人に対する非人道的な行為を戒めていた。
 だが、結果的にソ連軍の現地部隊は(世界各地で)それを無視して、正当な理由のない発砲・略奪・強姦・車両奪取などを堂々と行った。

 このような逼迫した状況下で関東軍の現地責任者は、一刻も早くこの現状下に鑑み現地での状況を東京に逐次伝え、ソ連に対してこのような事態を一刻も早く改善するようにと外交的交渉を早く進展するようにと求めた(この話に直接関係ないが、日中戦争中の南京大虐殺の際にも、欧米各国が日本政府に「残虐行為を辞めさせよ。」と伝えている。
 事件を「原爆投下による犠牲を薄れさせる為の極東軍事裁判における捏造」と云っている右寄りの方々には、戦時中でも残虐行為に対する抗議は為され、その事は自国民には伏せられることを認識して頂きたい。)。
 まあ、本来なら関東軍を指揮督戦して励ます筈の上層部が既に航空機等で本土に逸早く退避していた状態では「何とも」な説得力しか持ち得なかったが、事態改善への意欲があったことは認めたいし、逆に上層部を欠いた状態で満州国に残された現地の責任者も現地状況を日本政府に電報を使用して再三に渡って送り続けたことは忘れない様にしたい。
 日本政府も、連絡船などによる内地向け乗船に満州からの避難民を優先するようにと本土より打電をして取り計らっていた。

 また、「不幸」な報復的襲撃の「中」にも一服の清涼剤的な「幸い」が無い訳ではなかった。
 満州吉林省では現地居留民達が親しくしていた中国人から匪賊による襲撃を知らされたことで、竹槍と云う貧弱武装ながら逸早い抵抗を行うことが出来た。
 竹槍で何処まで抵抗出来たかは詳らかではないが、これによって多少なりとも犠牲は軽減されたであろうし、居留民達の危機を知らせてくれた中国人がいたことからも、居留民すべてが残忍な侵略者・収奪者と見られていた訳ではなかったことが分かる。

 また、この満州からの引き揚げの過程で家族が離れ離れとなり、現地に残された幼児達が中国残留日本人孤児となる悲劇が起きた訳だが、逆説的な味方をすると彼等が「孤児」となったと云うことは、命を永らえることが出来たからこそである(その場で殺害の憂き目を見ていれば「孤児」にはなり得ない)。
年端も行かない彼等が異国の地で生き延びることが出来たのは、侵略や植民地支配への怨みよりも眼前で泣き叫ぶ幼子を助けることを優先した心ある中国人が数多くいたことは誠に「不幸中の幸い」だっただろう(←中国人達だって、決して楽な生活をしていた訳ではない)。
 中国残留日本人孤児問題の解決は難渋を極め、最後まで身元の分からなかった人々や、身元が分かっても親兄弟に既に死なれていて再会の叶わなかった人々も多く、幸いにして肉親と再会出来た方々もその多くが人生の大半を過ごした中国に帰ったと聞く。
 それでも再会出来た人々が少なからず存在し得たのも、暴徒と化して略奪・暴行に走る中国人がいた一方で、自らも貧苦に在りながら眼前の幼い命を重んじた心ある中国人が数多くいたからなのを人として忘れてはならないだろう。

 国と国が争ったからと云って、個人が異民族への慈悲を失うかどうかは全くの別問題なのである(勿論、不当に殺害・略奪を仕掛けてくる相手は誰であろうと反撃して良いとロングヘアー・フルシチョフは考える。急迫不正の侵害に対する正当防衛の発動に国も個人もない)。


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令和三(2021)年二月一二日 最終更新