第拾肆頁 真岡郵便電信局事件………誰が局員達を死なせたのか?

事件名真岡郵便電信局事件
発生年月日昭和二〇(1945)年八月二〇日
事件現場樺太真岡
下手人ソ連軍?局長?
被害者郵便電信局女子局員
被害内容凌辱を恐れた女子局員達の集団自決
南樺太略図

 地名の漢字表記は事件当時のもの
 括弧内は現在のロシア名


 事件概要 樺太第二の都市・真岡(現・ホルムスク)が舞台となった、別名「北のひめゆり」とも云われる、年端も行かない少女達の痛ましい犠牲が生まれた集団自決事件である。

 事の発端は前頁で触れたソビエト連邦の対日参戦である。
 昭和二〇(1945)年八月九日、ソビエト連邦軍は不延長が確定しつつもまだ有効期間中だった日ソ中立条約を無視(一応は、日本の関東軍特種演習を敵対行為として無効と主張しているが)して満州国・千島列島・朝鮮半島そして当時日本領だった南樺太に攻め込んで来た。

 前頁でも触れたが、第二次世界大戦前、当時のソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンは人類史上突出した猜疑心を遺憾なく発揮して、自分に取って代わる可能性が有る(と一方的に見做した)人物を徹底的に(無実の罪に陥れて)粛清していた。
 その対象はソビエト連邦軍にも及び、能力・人格に優れた多くの将校が粛清され、第二次世界大戦末期のソ連軍は悪魔にも等しいチンピラ軍だった(←勿論ソ連兵の全員がそうだというつもりはないが、世界各地でソ連兵の蛮行・悪行に歯止めが掛からなかった事実は消しようがあるまい)。
 勿論、質的に良い軍隊とは云い難く、南樺太では日本軍が常日頃からソ連と国境を接していたことや、対米戦にもある程度備えていたこともあって、樺太戦開戦当初において日本軍は決して劣勢ではなかった。
 が、ソ連軍の侵攻は日本軍が停戦に応じてからが本番で、八月一五日の玉音放送を聞いた人々が個々に様々な想いを抱えつつも、戦争が終わったことに胸を撫で下ろしたのに襲撃を受けたのである。
 戦時中も空襲を受けなかった樺太は、様々な産業が発展していたこともあって、子供達がチョコレートやバナナを食べる余裕もあり、本土に比して戦中の平和を享受していたのだが、南樺太各地でソ連軍による空襲に見舞われた。
 裏方の話になるが、玉音放送の翌日、スターリンはアメリカ大統領トルーマンに対日参戦によってソ連が奪還する地域に千島列島全体と北海道北半分を加えるよう要請していた。勝利が確定してから後出しジャンケン的に分捕り分増額を求めたのだから本当に呆れ果てるしかない(←勿論戦後ソ連の勢力拡大を望まないトルーマンはこれを拒否したが、日本が感謝する必要はないな)。
 そしてそんなスターリンの動かすソ連軍だから、降伏受諾を無視して進撃は続いた。

 とはいえ、ソ連政府首脳も馬鹿ばかりではない(まあ、「賢い」と見做されたらスターリンの粛清対象だから、馬鹿であるか馬鹿を装うしかなかっただろうけれど)。降伏無視の進撃がいつまでも続けられるとは思っておらず、一九日頃から各地で停戦となった。恐らく降伏文書調印までに実効支配地を少しでも多く獲得しておこうとの魂胆だったのだろう。
 だが、それを考慮に入れてもかかる進撃が無法極まりなく、「極限の非難に値する」と云うロングヘアー・フルシチョフの意見は如何なる善良なロシア人・如何なる善良な親露的日本人を前にしても変わらないだろう。

 だが、同時に日本側の落ち度も触れておかなくては公平を欠くだろう。
 恵須取では一四日に空襲を受けて街全体が停電状態にあって玉音放送が聞けず、二日後に防空壕から無防備に海岸を歩いていたソ連兵を銃撃したことで、物凄い報復反撃に遭った。
 降伏・停戦が決まった以上、政府及び軍はすべての国民にその事実を知らせ、武装解除を徹底しなければならない。だが樺太において、大本営→第五方面軍→第八八師団(樺太師団)経由で一六日に来た命令には「樺太死守」と云うものがあり、自衛戦闘を認めるもその内容が曖昧で、人々は終わった筈の戦争継続状態に戸惑った。
 勿論戦闘を継続したソ連の非の方が遥かに大きいが、日本側の停戦に対する不徹底の責任も小さくはない。
結果的に日本軍及び日本人は僅か二週間で樺太を追われた。
 ソ連軍は樺太を実効支配し、自国領とした同地から日本軍と日本人を追い払い、大日本帝国政府・大日本帝国軍も樺太を捨て、北海道や内地への撤収に掛かった。
 だが、満州・朝鮮半島・千島列島同様、樺太においても撤収は喫緊故に混迷を極めた。

 前衛基地に出向していた軍隊はともかく、開拓民として居を構えて一般ピープルはいきなり住処を追われたのである。自然災害時でも同様だが、「戦争は終わった…。」との安堵感から危機意識も低下していたところをいきなり襲われたのだから、多くの住民が着の身着のまま樺太脱出に掛かったのは想像に難くない。
 かかる事態にあって、ソ連側の非はどうあれ、居留民の避難誘導は政府・軍の責務である。当然、(可能な限り)樺太に在住する全日本人の最後の一人が樺太を脱するまで避難状況を把握しなければならない。
 そしてその任務故、危難に直面し、悲しい犠牲を強いられたのが真岡郵便電信局の女子局員達だった…………。

 正直、ロングヘアー・フルシチョフは電話を含む過去の通信状況を把握していないので、第二次世界大戦末期において郵便電信局がどんな体制だったのか断片的にしか知らない。
     三〇年以上前に『ハイスクール奇面組』という漫画で見た農衆電話なるもので、自宅の電話から局の様なところに通信し、同じ村内の知人宅への接続を依頼するシーンを観たことがあるのだが、これに近いものだろうか?
 つまり当時の電話・通信を担う為に、「乙女」と評されたうら若き少女達が電話交換手として常駐していた。

 そして事件は八月二〇日に起きた。
 海岸から程近い街の中心部にあった真岡郵便局ではソ連軍上陸後も電話交換業務が行われていた。戦時中にあって電話交換手は通常の電話の取次ぎだけではなく、軍の連絡を行政機関に伝えるという重責も担っていた。それ故、敵襲が迫っているからと云って安易に局から避難する訳にはいかなかった
 下は一七歳から上は二四歳までの若き女性達が電話交換手として従事していた業務は軍務でもあり、多くの人々からの経緯を集める憧れの仕事であったが、同時に彼女達には「命より大切な仕事」との教育が為されていたから尚更だった。

 まあ、だからと云って局側が彼女達の戦死を望んでいた訳ではない(←当たり前だ!)。ソ連軍対日参戦に踏み切ってから一〇日以上が経過し、日本がポツダム宣言を受け入れて尚侵攻を続けて来るソ連兵に捕まれば、殺害される恐れがあると同時に、女性は強姦という名の凌辱を受けることも考えられた。と云うか、実際に日本(厳密には満州・樺太)でも、ドイツでもソ連兵による強姦は相次いだ。

 「魂の殺人」とも例えられる強姦が女性の心にどれほどの絶望をもたらすのかは正直想像しようがないし、そんな目に遭った人に「どんな気持ちですか?」等と尋ねられる筈もないが、状況や人によっては自らの命を絶つ人もいる。文字通り「死んだ方がマシ!!」と云う心境に陥らせる程被害者の心を踏み躙る。
  それゆえ真岡郵便局では、軍務に携わってもいた電話交換手達に、「生きて虜囚の辱めを受けず」の思想的に、「凌辱されるぐらいなら死を選ぶべし」として青酸カリが配布された…………

 この事件を知った当初、道場主は青酸カリが配布されたことに対し、いざと云う時に服毒するか否かは個々人の判断に委ねられているのかな?と想像した。
 命と貞操のどちらがより大切なのかは各々の価値観によって個人ごとにことなるだろう。実際、強姦の憂き目に遭った際に舌を噛んで命を絶った人もいるだろうし、筆舌に尽くし難い屈辱を受けても生きる道を選んだ人もいるだろう。
 だが、その後文献を当たるにつれ、凌辱されかかった際に命を絶つことは当時の軍国主義教育による半強制だった側面が強いと考えている。
 電話交換手達に青酸カリを配布した責任者が実際に「死ね」と思っていたかどうかは詳らかではない。もしかしたら立場や世の風潮から青酸カリを配りつつも、内心では「強姦されたとしても死なないで。」と思っていたかも知れない。だが、「捕まるぐらいなら死ね。」と云わんばかりの風潮の前に彼女達は死を選ばざるを得ない状況に追いやられたように思われてならない。

 事件の概要説明に戻るが、八月二〇日にソ連軍は艦砲射撃後に真岡に上陸。銃声が街中に轟いて尚も電話交換手達は状況を伝え続けた。
 午前六時、真岡郵便局から五〇q東に離れた豊原の郵便局に急報が入った。急報を入れたS・Kさん(※御存命中の遺族の気持ちを考慮してイニシャル表記に留めます。以下、他の電話交換手達も同様です)で、その内容は、

 「豊原局、豊原局、指示をお願いします。誰もこちらの監督責任者はおりません!

 艦砲射撃を受けています!目の前にソ軍が来ています。艦砲射撃を受けています!!」

 と云うものだった。
 豊原局の電話交換手の証言によると背後からは爆音や、「苦しい……。」と呻く女性の声も聞こえたと云う………………………。
 通信を受けていた豊原の交換手K・Yさんは背後の音から真岡の電話交換手達が青酸カリを飲んだであろうことを察し、「お願い!お願い!飲まないで!飲まないで助かるから死なないで!逃げて!」と絶叫したが、電話越しに聞こえて来たのは相変わらずの爆音に混じっていた「私も行くからね。」の声で、更に「ああ、ロスケ(※ロシア人を敵視した際の蔑称。本来なら記載したくない単語ですが、史実を伝える為敢えてそのまま表記)が見えます。もうこれで駄目です。豊原さん、さようなら。」と云った電話交換手の声で「苦しい…。」と云う声が聞こえた………。

 K・Yさんは「もう一度声を出して!真岡さん!真岡さん!」と絶叫したが、それっきり声が聞こえることはなく、この集団自決で九人の電話交換手の命が失われた………

 この真岡郵便電信局事件は昭和四九(1974)年に映画『樺太1945年夏 氷雪の門』にて世に知られるようになり、作中では「皆さん これが最後です さようなら さようなら」が電話交換手の最期の台詞とされ、彼女達を慰霊する稚内市の九人の乙女の像にもこの台詞が碑文として刻まれている。
 恐らくは上述の「ああ、ロスケが見えます。もうこれで駄目です。豊原さん、さようなら。」が元になっていると思われる。また同じ樺太にあった泊郵便局の局長は「交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら。長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら」だったと証言している。

 まあ、悲惨極まりない声を聞かされて平常心を保ち難い状況で人間の記憶がどこまで正確化を疑問視すれば切りが無いが、大意は変わりないと見て良いと思われる。
 いずれにせよ九人の電話交換手が命を絶ったほかにも、銃撃や自害で同郵便通信局からは彼女達を含め一九人の犠牲者が出た。

 実際にソ連兵が真岡郵便局に一現われると、男性局員が応対。局員が暴力を振るわれることはなく、押し入れに隠れていた二名の電話交換手を含む四名の女性局員も助かり、倉庫への移動を命じられた(金品の略奪はあった)。

 真岡が落ち着いたのは一ヶ月後で、電話交換手達の遺体が仮埋葬されたのは事件から一〇日以上経ってからで、本葬が行われたのは一二月になってからだった。



事件の日ソ関係への影響 不明である。
 そもそもこの真岡郵便電信局事件に対して、ロシア人の中には、「ソ連兵の蛮行に数えるのは不当!」、「ソ連兵は郵便局員を殺していない!ヤポンスキー(日本人)が勝手に自害を強要した!」と主張する人もいるかと思われる。
 要するに無関係を主張する可能性である。

 確かに、結果的に真岡郵便電信局関係者がソ連兵から危害を加えられることはなかった。とはいえ、ソ連兵は同局で金品は略奪しており、樺太各地で略奪・暴行と云った狼藉を働いていた。
 電話交換手達が自決していなかったとしたら、生き残った彼女達をソ連兵がどう遇したかは想像するしかない。また自決に関しても、(従うか否かは別として)ソ連兵もまたスターリンから「降伏するぐらいなら死ね!」と命じられていた。
 それゆえ、この事件に真犯人を求めれば、それは「軍国主義教育」と云うことになるのかも知れない。

 まあ正直、ソ連兵が直接手を下した訳ではないこの犠牲に対してソ連側がどこまで知っていたかも不詳である。ソ連兵とて皆が皆戦場で落花狼藉を働いた訳ではないだろうし、不埒な行為に及んだ者達は者達で(少なくとも公の場では)自分達の蛮行を口外することも無かっただろう。
 それゆえ、「凌辱を恐れて死を選んだ。」と云う少女達を前にしたソ連兵は事件の悲惨さからも、自分達が獣の様に見られていた様からも目を逸らし、積極的には喧伝しなかったと推察される。

 願わくば、降伏より死を強要することに悲しみを覚える心あるソ連兵の少女達への哀悼の気持ちが戦後の彼等の蛮行への歯止めになったと思いたい。



不幸中の幸い 自決を選んだ九人の電話交換手達に対してはその痛ましさに言葉も無い…………。正直、彼女達の「不幸」に「幸い」等見出しようがない。

 戦後、軍務にも携わっていた彼女達の自決は「公務死」とされ、彼女達は靖国神社に合祀され、彼女達の慰霊に稚内を訪れた昭和天皇は彼女達を慰める和歌を詠まれた。
 彼女達が自らの名誉に戦時中と同じ価値観を心から抱いていたのなら、合祀も天皇陛下による慰霊もこの上ない名誉だったかも知れないが、年端も行かない少女達の遺族が語った悲しみの声を聞けば、やはり彼女達は軍国主義教育の犠牲者で、戦後の慰霊は「不幸中の幸い」とは捉えられない。


 少し話が逸れるが、ロングヘアー・フルシチョフは彼女達が合祀された靖国神社に対して好意的ではない。
 その詳細理由を語れば長くなるから割愛することになるが、国や郷土の為に命を落とした人々への慰霊に反対はしないが、同社の戦争に対する大義には賛同しかねるし、合祀を望まない人々の意向を無視して合祀する独善振りにも眉を顰めている。
 確かに戦没者達は「靖国で会おう。」を合言葉に戦場に散り、合祀されることを名誉としていたが、それは本心だったのだろうか?

 戦没者は「英霊」として敬われている訳だが、ロングヘアー・フルシチョフは、赤紙(召集令状)を受け取る際に「おめでとうございます。」と云われ、嘘でも喜んだ振りをしなければならない、「戦争反対」を叫べば「非国民」呼ばわりされかねなかった世相にあって、「英霊」に祀り上げられることで意に沿わぬ死に向かわしめられた「犠牲者」としての側面を無視出来ない。
 また、戦没者以外にもこの真岡郵便通信局事件で命を落とした電話交換手達や、対馬丸事件で海に沈んだ学童達や、極東軍事裁判で絞首刑に処された文官(広田弘毅)、判決前に獄死した外交官(松岡洋右)が合祀されているのを見ると、「兵士じゃなくても、戦死じゃなくても、戦時に関連して外国人によって死に追いやられた人間が合祀対象か?!」と見えてしまう。

 電話交換手達の犠牲に対する慰霊の気持ちは主義主張に違いはあっても良識が有れば誰しもが抱くだろうし、彼女達が自らの生死に対して如何なる形で誇りを抱いていたかは分からないが、当時の風潮によって死を強要された、云い方を変えれば「生き残る訳にはいかない。」と思い込まされた悲惨さは刮目しなくてはいけないと考える。
 些かこじつけ気味だが、この問題を真剣に考えることで今後の世界に戦争における非戦闘員の犠牲が幾分なりとも減り得るなら、彼女達の犠牲も少しは報われることにならないだろうか?
 「不幸中の幸い」はなくとも、「不幸」を教訓に新たな「不幸」を防ぐことは重んじたい。


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令和三(2021)年九月三〇日 最終更新