第拾伍頁 シベリア抑留………一国の大統領に頭を下げさせた大愚行

事件名シベリア抑留
発生年月日昭和二〇(1945)八月二六日〜昭和三一(1956)年
事件現場満州・朝鮮半島北部・南樺太・千島列島
下手人ヨシフ・スターリン、ソビエト連邦政府、ソ連軍
被害者関東軍兵士及び現地在住開拓民
被害内容終戦したにもかかわらず、帰国が許されずに強制労働に従事。一割が酷寒と栄養失調で落命。
事件概要 第二次世界大戦末期にソビエト連邦対日参戦にて得た捕虜をシベリアに連行して強制労働に従事させた事件である。
 抑留者とされた捕虜の数には諸説(最大は二〇〇万人)あるが、武装解除されて投稿した関東軍兵士や千島列島、樺太、満州国、朝鮮半島各地の守備兵の約六〇万人が連行され、酷寒と栄養不足の中で約一割が命を落としたと云われている。尚、死亡者の内、氏名が特定されている者は令和元(2019)年一二月時点で四万一三六二人である。

 概要(では済みそうにないが(苦笑))に入ると、ソビエト連邦ではロシア革命直後頃から政治犯等の囚人に過酷な強制労働が課せられたが、これは労働力不足を補う側面もあった。ヨシフ・スターリン体制下の1930年代以降は強制収容所(ラーゲリ)の数が爆発的に増加し、強制労働の対象となる囚人も増加した。

 シベリア抑留に限らず、ソ連による強制労働の労働環境は初期からして非常に劣悪であった。
 白海・バルト海運河建設などに動員された白海・バルト海強制労働収容所では昭和七(1932)年から昭和一六(1941)年にかけての一〇年間で三万人近い死亡者を出した(死亡率が最も高かったのは昭和九(1934)年で、囚人の10.56 %が死亡した)。

 スターリン捕虜という存在に対して、ポツダム会談でイギリス首相チャーチルが炭鉱労働者不足を嘆いた際に「ドイツの捕虜を使えばいい。我が国ではそうしている。」と答えていたように、捕虜を強制労働に酷使することに一片の罪悪感も抱いていなかった(そもそもこの人物に「罪悪感」という概念が存在していたじゃ極めて疑わしいが)。
 一応、当時のソ連は昭和四(1929)年に締結されたジュネーヴ条約に加わっていなかったため、国際法的には捕虜の扱いに関する責任は負っていなかった。ただ、それでも昭和六(1931)年以降独自規定として戦時捕虜の人道的な扱いを定める程度の良識を持ってはいたが、実際にはほとんど守ってなかった。
 対日参戦で得た日本人捕虜を含めて、ソ連はポーランド侵攻以降、東欧・ドイツ・北東アジアで三八九万九三九七人の捕虜を得ており、昭和二四(1949)年一月一日の時点で五六万九一一五人が死亡し、五四万二五七六人が未帰還のまま抑留されていた。

 ともあれ、第二次世界大戦全体にまで話を拡大するととんでもない分量になるので、欧州の方々には申し訳ないが、この頁では対日参戦から生まれた日本人(及び当時日本人とされていた人々)に対するシベリア抑留に範囲を限定させて頂く(←つまり、抑留及び強制労働が行われたのはシベリアだけではなかった)。

 ソ連軍対日参戦で攻め込んだのは満州帝国・日本領朝鮮半島北部・南樺太・千島列島だった。昭和二〇(1945)年八月八日に宣戦が布告され、二日後にはモンゴル人民共和国もこれに便乗して日本に宣戦布告した。
 一週間もしない八月一四日に大日本帝国は中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は進撃を止めず、現地日本軍もこれに応戦した(←完全な正当防衛である)。
 結局完全胃底腺が為されたのは八月二六日になってからだった。

 悪辣なのは停戦・武装解除が為されたにもかかわらずソ連軍の横暴が続いたことだった。
 殊に満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍はその通りに行はず、民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。また捕虜の扱いについては一切言及されなかった。

 これに先立つ八月一六日、日本の降伏を受けてスターリンは日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤ(←スターリンの同郷で、それを傘に着た横暴な振る舞いの多い人物だった)に下していたが二三日にはこれを翻し、「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜約五〇万人をソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した。

 日本人捕虜は、まず満州の産業施設の工作機械を撤去しソ連に搬出するための労働に使役され、後にソ連領内に移送された。九月五日より関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵在満州民間人満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた(←満州鉄道関係者は逸早く情報を得て、自分達だけさっさと内地へ逃げていた!)。
 捕虜達は日本に帰れることを期待していたが、ソ連軍捕虜を一〇〇〇名単位の作業大隊に編成し、貨車に詰め込んだ。
 この時点で捕虜達は電車の進行方向と日の傾きから西へ向かっていることを察知し、絶望した(ちなみに行き先は告げられていなかった)。

 ソ連はシベリアを含むモンゴル、中央アジア、北朝鮮、カフカス、バルト三国、ウクライナ、ベラルーシ等の連邦及びソ連勢力圏内七〇ヶ所以上に収容所を設け、抑留日本兵を強制労働に従事させた。
 まず生活環境からして過酷で、ラーゲリと呼ばれた収容所の冬は−40℃が普通、時には−60℃を下回ったと云う
 だがそんな酷寒にもかかわらず害虫は棲息していて、床に就くや南京虫に噛まれ、猛烈な痒みで疲労困憊状態でもまともに眠れなかったと帰還者達は語っている。

 そんな環境下で抑留者達が従事したのは主に鉄道工事、森林伐採、鉱物採掘で、過酷なノルマに苦しんだ。
 単純に寒さの問題だけでも殺人的だった。ソ連軍から支給された服や靴の耐寒性は−30℃までで、これが日本なら真冬の北海道でも暖かく過ごせそうだが、シベリアの酷寒は前述した様に−40℃如何に達する。
 さすがにそれ以下の気温では休息日になったが、日本では想像もつかないこの酷寒ではすべての水分が凍結し、金属に触ったら最後、手から離れなくなった。その際には金属を湯で温めてゆっくり剥がしかなかったが、相手が鉄道のレールの様な大きなものでは温めても剥がれず、表皮や肉が千切れる覚悟で剥がすしかない有様だった。

課された過酷なノルマに関して一例を挙げると、森林伐採では一日に大木三本を切り倒すことが課せられていた。二人一組で取り組み、斧で三分の一切った後、反対側から二人用の鋸で切って行くと云う作業で一日三本の伐採を要求された。
 林業に関しては全くの無知なので二人一組で木を三本切るのがどれ程重労働なのかはいまいち想像がつかない(←木の太さにも左右されると思うし)。ただ、前述したような酷寒環境下では普通に動くだけで大変だったし、金属と凍傷の問題から作業の中断も起きたことは想像がつく。
 加えて、隊列を乱したり、遅れたりするとカンボーイ(監視兵)がやってきて蹴ったり、銃床で殴ったりし、カマンジール(現場監督)が鞭を振ったと云うから想像を絶する過酷さだったことだろう。
 私見だが、小学生の頃、真冬の縄跳びで回し損ねた縄が耳たぶに当たっただけでもとんでもなく痛かった記憶が有るが、たかが縄跳びでああまでいたかったのだから、酷寒の鞭打ちは痛いなんてもんじゃなかったことだろう。

 そして苛酷に輪を掛けたのが「粗末」を通り越して「死ね!」と云っているとしか思えない食事だった。刑務所でも、強制労働現場でも、何の娯楽も無い苛烈な環境下では食事がたった一つの楽しみ、最大の御馳走であることが少なくない。
 だが、シベリア抑留下における三食は下記の通りだったらしい。

朝食ライ麦黒パン一切れ・親指大の青いトマトが入った塩スープ
昼食精白していないコーリャンのカーシャ(雑炊)
夕食えん麦のカーシャ

 見ただけでも「ひでぇ…………。」一言だが、黒パンはライ麦収穫時に草取りをしていないため雑草混じりで、塩気があり酸っぱく、未成熟の青トマトは空腹でも食えないほどまずく、カーシャの分量は飯ごうのフタに入る程度だったと云う。
 一応、夕飯のカーシャには魚や肉が入っていたが、量として形にならない程度だったと云うから話にならない。

 人間は何もせず、体を全く動かさなかったとしても一四〇〇kcalのエネルギーを必要とするが、上述の食事は一〇〇〇kacl程度と算出され、とても生きれたものじゃない。
 ほんの少しだけ当時のソ連に同情的に見て、第二次世界大戦で参戦国中最多の戦死者を出して労働力が深刻なまでに不足していたために捕虜を使役したことを是としたとしても、こんな食事では絶対作業効率は上がらない

 当然こんな地獄のような環境下では抑留者達の心が荒まない訳が無かった。
 黒パンは大切れを抑留者が切り分けて配膳されたが、切った後の僅かな大きさの差を巡って毎日喧嘩が起きたと云う。
 栄養失調で抑留者仲間が死亡すると、最初の内は皆で埋葬して通夜を営んだりしたが、それが頻繁になると死んだ仲間の服を剥ぎ、奪い合うようになったと云う。
加えて、抑留者の大半が軍人だったため、戦時中の階級社会がそのままラーゲリにも持ち込まれ、階級差別や将校特権がまかり通ったため、下級兵士は上官とソ連兵の両方に苦しんだ(しかも将校は国際法によって捕虜労働を免除されていた!)。

 以上が、抑留状況の概略だが、勿論、かかる非人道的行為がバレないまま延々と続けられる筈はなかった。
 終戦から三ヶ月を経過した昭和二〇(1945)年一一月になって、ようやく日本政府は関東軍兵士がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報を得た。翌昭和二一(1946)年五月、日本政府はアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、一二月一九日、「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立した。
 そして昭和二二(1947)年から抑留者の帰国事業が行われ、日ソ国共同宣言がなされた昭和三一(1956)年にかけて、四七万三〇〇〇人が帰国した。

 帰国事業開始当初、昭和二四(1949)年五月二〇日の段階で、ソ連は同年五月〜一一月までに全員が引き上げるだろうと発表し、その数を九万五〇〇〇人としていた。だが、この時点で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)と日本政府が把握していた抑留者数は、約四〇万八七〇〇人で、四倍以上の差異があった。
 また、当初日本人捕虜の存在をスターリンがすっとぼけていたことを考えれば、抑留者の存在を認めた以上、即座に返還するのが筋だが、話は容易ではなかった。
 ソ連では捕虜達を重要な労働力と見ていた(←じゃあ、囚人より酷い扱いするなよ)。また、第二次世界大戦直後より米ソは深刻な対立関係に入り、ソ連内でも囚人を返す事で様々な情報が洩れるリスクを懸念する声もあれば、資本主義諸国内に共産主義を広める為に、帰国後にソ連の尖兵となり得る者を育てたいとの意図もあった(実際、捕虜達に共産主義を植え付ける教育が為され、共産主義に賛意を示したり、詳細にその主義を覚えたりした者から帰国が許された)。
 加えて、中国での国共内戦、朝鮮半島での朝鮮戦争等が勃発し、日ソ間の航行も容易ではなかった。またソ連政府と比較的親しかった日本社会党や日本共産党の議員が訪ソして抑留を視察したが、ソ連側は抑留者を人道的に遇しているように見せ、その偽装工作にまんまと騙された(或いは親ソ的立場から実態を見ぬ振りしたとも云われている)議員達は帰国後にソ連の思惑通りの報告をした……………って、戦争が終わったのにポツダム宣言の趣旨に反して帰国が許されない時点で大問題だろうが!!
 ともあれ、様々な国家間(或いは政党間)の駆け引きの中で数々の実態が隠蔽され、抑留の実態は明らかにならず、帰国事業も遅々として容易には進まなかった。
 それでも昭和二八(1953)年三月五日にスターリンがくたばり、三年後のフルシチョフによるスターリン批判、同年の日ソ共同宣言を経てようやくすべての抑留者が(と云うと語弊があるが)帰国出来た。

 結局、シベリア抑留は強制労働・酷寒・栄養不足という劣悪環境の中で万単位の犠牲者を出した。
 ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約四万一〇〇〇人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している。だがアメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は二五万四〇〇〇人で、行方不明や死亡と推定される者九万三〇〇〇名を加え、シベリア抑留による事実上の死者数を約三四万人としている。
 またシベリア抑留中にソ連のハバロフスクで開廷された軍事法廷では日本人一四四人が銃殺刑の判決を受け、内三三人に執行されたことが確認されている(その後の動向が不明な者は七九人)。
 結局数に関する詳細は今も不明で、日本政府・厚生労働省は令和に入った現在でも、ソ連の後を受けたロシア連邦などから提供された資料を基に、旧ソ連や満州で死亡して新たに判明した日本人の名簿更新を続けている。
 また、犠牲になったか、否かだけでもこれだけ不鮮明なのだから、故国日本への帰還を果たせていない遺骨も多い。冷戦終結後に、ロシア側から収容所や墓地の所在地リストが日本政府に手渡されたことに基づき、厚生省(現:厚生労働省)や民間の遺族団体などによって、遺骨収集事業が進められた。
 これにより遺骨のDNA型鑑定などによって平成二二(2010)年までに約八二八名の身元が特定され、遺族に引き渡された。
 令和元(2019)年、厚労省は平成一一(1999)年〜平成二六(2014)年間の戦没者遺骨収集事業で、日本に持ち帰られたシベリア抑留による死亡者遺骨約六五〇人分の内、少なくとも一六人分の遺骨が日本人のものでは無かったとするDNA鑑定が平成三〇(2018)に判明していたことを認めた(残る遺骨についても約六〇〇人分が日本人でない可能性があるということも)。
 だが、厚労省がこの事実を認めたのはNHKによる調査報道で明らかになった故で、取り違えの疑いを一四年前に把握しながら、ロシア側と協議せず事実上放置していたため、「信頼関係を損ねた。」として日本の遺骨調査団の派遣がロシア側の意向で中止になってしまっている。
 ソ連が崩壊し、日露間が以前よりは腹の割った付き合いが出来ると思われる平成・令和の世でさえこの様なのだから、抑留者の犠牲に対してまだまだ多くの隠蔽が為されているのは想像に難くなく、日本国民はロシア政府に対しても、日本政府に対しても信頼出来ない点は多く、シベリア抑留は現代に至るまで日ソ・日露間の交流に暗い影を落としていると云わざるを得ない。



事件の日ソ関係への影響 有りまくりである。何と云っても日本人サイドの対ソ感情は極度に悪化したことは想像に難くない。
 ただでさえ有効期間中だった日ソ中立条約(※昭和二〇(1945)四月五日の時点で「不延長」は決定していたが、昭和二一(1946)年四月五日までは有効とされていた)を破って攻め込み、ポツダム宣言受諾後も進撃を続け、日露戦争後に領土・勢力圏内となった南樺太・満州・朝鮮半島はともかく、戦争を介さない正当な条約締結で領土となっていた千島列島までも奪われたのだから、これで対ソ感情が好転すると考える者は正気じゃない。
 まして、シベリア抑留に関連する一連のソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものであった。

 それゆえ対ソ感情は悪化した。ただそれでも終戦直後のGHQによる占領下で外交権も保持していなかった日本政府は自国の立て直しで精一杯で、すぐにはシベリア抑留に気付けなかったこともあって、良くも悪くも日ソは表立っての争いにならなかった。
 その後、日本が主権を回復し、ヨシフ・スターリンがくたばる等の経緯を経て、日ソがまともな交渉を持てるようになったことで抑留者の帰国が漸次叶うようになった。

 ただ、勿論のことだが、帰国を達成しただけで問題はなくなった訳ではなかった。
 シベリア抑留を生き抜き、捕虜状態から解放されてもその後の人生に様々な問題を抱えた人々は多かった。
 まずは帰国出来なかった人達である。帰国が許されても、共産主義を是としたり、現地女性と恋愛関係に陥ったりしたことで帰るに帰れなくなった人々もいた。心の底からソ連型共産主義を尊崇し、現地女性との家庭に幸せを見出したのなら、必ずしも不幸とは云えないが、それでも故郷に二度と帰れなかったことや、故郷に戻ることに後ろめたさを感じる余生を送ったという不幸な一面は残ったことだろう。
 また、帰国出来た人々の中にも抑留中のソ連との交流から「ソ連のスパイ」と見做されて苦しんだ者、「共産主義の手先」と見做されて苦しんだ者も存在した(実際にスパイ活動に従事したり、日本に共産主義を広めようとしたりした者もいたから厄介である)。
 つまりは戦争で命を助かりながら、ソ連の支配下に入ったことで帰国後に日本人でありながら元の日本人として周囲に認められない、顔向け出来ないという辛酸舐める人生を送った人も云うた訳で、帰国叶って尚そんな想いをしたかとを思うと言葉も無い。

 そして掛かる状況に苦しんだことで、国家とのトラブルも続いた。
 所謂、「賃金未払い問題」、「賠償問題」である。
 近代において、個人を奴隷の如く酷使することは国際法や国家間の規範で厳しく禁じられている。それゆえソ連に限らず捕虜を強制労働させた側は表立ってはこれを認めず、あくまで「賃金によって働いてもらった労働者」との態を取る。
 それゆえ、抑留者は抑留された国で働いた賃金を受ける権利があり、捕虜の給養費は捕虜所属国の負担となっており、この慣習はハーグ陸戦条約などで確認されている。だが、日本政府はハーグ会議でもこの規定採用に反対しており、この問題に誠意ある対応しているとは云い難い。

 シベリア抑留からの帰還者は日本全国で四件の国家賠償訴訟が行われている。だが、戦時中の国家の過失を問うこの手の裁判において、司法は概ね犠牲者に冷たい。国家の過失そのものは認めても、賠償命令を否定するケースが多い。
 実際、シベリア抑留関連では、平成二一(2009)年一〇月二八日の京都地裁判決で、「国による遺棄行為は認められない。」などとして、原告の請求を棄却する判決が出された。
 勿論、悪いのはポツダム宣言による規定を無視して捕虜を強制連行し、強制労働に従事させたソ連政府なので、本来ならソ連を攻めるのが筋である。だが、ソ連は既に崩壊しているし、後を受けたロシア連邦がこの責任に向き合うとは思えない。
 一例を挙げると、日本政府だって、戦時中に韓国人や中国人を強制労働させた問題の非は認めても、「過去の問題」として賠償には応じていない(日韓基本協約で大韓民国側が賠償請求を放棄しているのが根拠となっている)。勿論韓国の裁判所で日本政府に賠償を命じるのは国家間の在り様としては有り得ない話で、これを放置している韓国政府の怠慢は大問題である。

 話を日ソ関係に戻すが、それゆえ、本来なら日本国政府が元抑留者に然るべき補償を行った上で、この問題を日本が解決したことを持って、ロシアにその責を求めない代わりに日露間の交流における日本側への譲歩を引き出すのが筋だとロングヘアー・フルシチョフは思っている。
 まあ、ロシア政府相手にそれが困難なのは想像に難くないし、それでなくても(日本・ソ連・ロシアに限らず)国家と云うものは自らの非を認めることに消極的で、その賠償に努めるのは更に稀である。

 一応、日本政府にもシベリア抑留問題に対して、抑留者に何もしなかった訳ではない(←当然だ!)のは触れておきたい。所謂、シベリア特措法の制定である。
 平成二二(2010)年五月二一日に本会議で可決されたシベリア特措法−正式名・戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法では、旧ソ連、シベリアやモンゴルで強制労働させられた元抑留者に対し、一人当たり二五万〜一五〇万円を一時金として支給するとしている。
 法案では抑留された期間に応じて、元抑留者を五段階に分類。独立行政法人「平和祈念事業特別基金」の約二〇〇億円を財源に支給されるというものである。

 最後に余りこういう書き方はしたくないが、恐らく現在の日露両政府首脳はこのシベリア抑留に出来る限り触れたくないと考えている、とロングヘアー・フルシチョフは推測している。
 第二次世界大戦に前後する出来事に関する責任問題の多くは、日本国政府にとっては大日本帝国政府の、ロシア政府にとってはソビエト連邦政府の尻拭いをさせられているに等しく、「何で七〇年も前の前政府のやったことを俺達が………。」と腹の内で思っている政治家は両国内に多いことと思う。

 他国間の例だが、ベトナム戦争にて多くのアメリカ軍人がベトナムで行方を絶っているが、米越両政府にとってこの問題は腫物とのことである。ベトナムはベトナムで自国内に旧敵国兵が潜んでいることを、アメリカはアメリカで自国兵が戦地に置き去りにされ見捨てている状態を指摘されたくない故に。

 逆を云えば、日露両政府が完全に腹を割って、両国共同でシベリア抑留に苦しんだ人々及びその遺族に誠意ある賠償(そういう言い方が嫌なら「補償」でもいい)を行えば日露関係は「災い転じて福となす」となると思うのだが、どうだろう?
 極めて困難だとは思うのだが。



不幸中の幸い シベリア抑留に関して「不幸中の幸い」を語るなら、「よくまああんな環境下で犠牲者が一割で済んだものだ………。」と云う想いである。
 詳細は分からないが、江戸時代の日本において、最悪の重労働を課された佐渡金山の金掘り人夫は平均三年で死んだと云う。そこを行くと抑留者は最長で一二年働かされた者がいた訳で、死亡率からすると佐渡金山よりはマシだったのかも知れない(まあ、「比較の上」でしかないが)。
 一応、病気と判断された者は医師の診察を受けることも出来、医師は何故か女医が大半だったらしい…………う〜ん…ロシア美女の女医か…………診察されたい…Het(No)、俺が診察したい…………イテテテテテテ(←道場主のイデアツイスターを食らっている)。

 イテテテテテ…………まあ、冗談はさておき、真面目に考えてソ連政府にとってもシベリア抑留の第一目的はシベリア開発で、何も抑留者を虐待する事ではなかった筈である(副次的なものとして、日露戦争以来の報復としてこき使いたい気持ちも多少はあったと思うが)。
 抑留者を無意味に死なせればそれだけ労働力は低下し、生産性はダウンする。まして減った労働者数を補おうにも戦争は終わっており、そうなると連邦内の「罪人」を増やさざるを得なくなり、通常社会の生産力が低下する。
 恐らく、シベリア抑留が苛酷なものになったのは、抑留者を生かして使う為の予算をケチり、更にはとんでもない計算間違いがあったものと思われる。人道上の問題を置いておいて、開発進捗第一に主眼を置いたとしても抑留者への待遇は苛烈を通り越して馬鹿としか云い様がないから、元々シベリアでの強制労働に良いイメージを持っていないロシア人はその実態を知った際には多くが心を痛めたと信じたいところである。

 その最大の証左となるのが、平成(1993)五年一〇月のボリス・エリツィン大統領(当時)の訪日と思われる。
 ソビエト連邦の後を受けたロシア連邦政府はシベリア抑留に対して、公式には「移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しない。」としている。
 だが、それでもエリツィンはシベリア抑留を「非人間的な行為」としてその罪を全体主義に帰させたものとはいえ、謝罪の意を表し、天皇陛下、抑留団体代表者、総理大臣細川護熙(当時)を前に頭を下げた。エリツィンの人格をロングヘアー・フルシチョフは詳細に掴んではいないが、このことは個人の性格よりもシベリア抑留がそれ程両国間にあって不幸な歴史であったことを示す何よりの証拠であろう。

 現在のロシアではソ連崩壊から現在に至るまでの歴史に在って、ゴルバチョフやエリツィンを「アメリカ合衆国と比肩し得たソビエト連邦を弱体化させた」として白眼視する傾向が強く、シベリア抑留の非を認めない政治家も少なくない。
 まあ日本を初め、世界中どこの国にも我が国の非を認めない政治家は必ず存在し、そもそも欧州諸国が過去のアジア・アフリカに対する植民地支配を、アメリカが原爆投下を、有りもしない大量破壊兵器の存在をでっちあげてイラクに戦争を仕掛けたことを謝罪していないことを思えば、国家が非を認めて謝罪するのは稀である(利害や領土が絡めば尚更)。
 その点、ソ連時代より弱体化して様々な国の助けを必要としていた当時のロシアの苦境を差っ引いてもエリツィン大統領が頭を下げて謝罪したことは稀有でありながら、このことは決してエリツィン大統領及びロシア人の潔さにこそなれど恥にはならない。

 超大国ロシアの大統領が頭を下げざるを得ない程シベリア抑留は大悪行であったことをロシア人が受け止め、それを日本が許し、すべての犠牲者に報いる行動を共に取ることで真の日露友好が達成されれば、シベリア抑留中に命を落とし、ツンドラ(永久凍土)に眠る何万人もの人々の霊も浮かばれ、「不幸中の幸い」が見いだせるのではなかろうか?

 道は決して近くなく、平坦でも無いが、日露両国民には出来ると私(ロングヘアー・フルシチョフ)は信じたい。


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令和三(2021)年一〇月七日 最終更新