第拾陸頁 ベレンコ中尉亡命事件………防空圏突破と機密保持とで大混乱

事件名ベレンコ中尉亡命事件
発生年月日昭和五一(1976)年九月六日
事件現場北海道函館空港
下手人?ヴィクトル・ベレンコ
被害者?自衛隊(主に空自)、ソビエト連邦軍、ソビエト連邦政府/td>
被害内容領空侵犯・強行着陸に伴う種々の混乱
事件の概要 昭和五一(1976)年九月六日、ソビエト連邦軍現役将校ヴィクトル・ベレンコ(中尉)が、MiG(ミグ)-25迎撃戦闘機(以下、「MIG25」)で日本の函館空港に強行着陸し、亡命を求めた事件。

 同日、ソ連邦空軍所属のMIG25数機がチュグエフカ基地(ロシア連邦沿海地方にあり、ウラジオストクから約300km北東、チュグエフカから10km南方に位置するロシア空軍の基地)から訓練目的で離陸したが、その中の一機を操縦していた同軍中尉ヴィクトル・ベレンコは演習空域に向かう途中で突如コースを外れ急激に飛行高度を下げた。

 午後一時二〇分頃に、ベレンコ機のこの動きを日本のレーダーサイトが補足し、領空侵犯の恐れがあるとして、航空自衛隊(以下、「空自」)千歳基地のF-4EJがスクランブル発進した。
 空自では、地上レーダーと発進したF-4EJの双方で日本へ向かってくるMiG25を捜索したが、地上レーダーは航空機の超低空飛行には対応出来ず、また、F-4EJのレーダーは地表面におけるレーダー波の反射による擾乱に弱く、低空目標を探す能力(=ルックダウン能力)が低かった。
 と云うのも、F-4EJのみならず、戦闘機に付与されたルックダウン能力が実用に供されたのはこれが戦闘機史上初めての試みで、充分な性能を発揮出来なかったのも無理なかった。

 結果、ベレンコのMIG25は空自から発見されないまま北海道の函館空港に接近し、市街上空を三度旋回した後、滑走路に強行着陸した(午後一時五〇分頃)。
 滑走路の中程寄りに接地したMIG25は、ドラッグ・シュート(パラシュートを利用した空力ブレーキ)を使用したものの、接地点が悪くて滑走路をオーバーランし、前輪をパンクさせて滑走路先の草地にあるンテナの手前で停止した。

 着陸したベレンコに最初に接近したのは空港敷地内で工事をしていた現場監督(強行着陸前後の一部始終を撮影)だったが、撮影しながら機体に近づく監督にベレンコは銃を取り出して空に向けて威嚇発砲したため、身の危険を感じた監督はフィルムを差し出した。

 直後、空港の航空管制官が自衛隊にこのことを通報したが、「警察に電話するように。」と云われ、警察に電話したら「自衛隊に連絡するように。」と云われた。悪質なたらい回しである
 にっちもさっちもいかなくなった航空管制官がとにかく早く来るように警察に伝えたところ、着陸から二〇分経過した午後二時一〇分頃にようやく北海道警察(以下、「道警」)の警官隊が到着。その後函館空港周辺は、道警によって完全封鎖された。

 行動を開始した道警は、
「領空侵犯は防衛に関わる事項であるが、日本国内の空港に着陸した場合は警察の管轄に移る。」
 として現場を封鎖し、陸上自衛隊員は管轄権を盾に締め出され、航空自衛隊千歳基地から来た隊員も函館空港事務所に行くものの門前払いされた。日本の縦社会的な下らんセクト主義は昔からだな(嘆息)

 道警の取り調べ(←任意であった)に対し、ベレンコはアメリカへの亡命を要望。当初は千歳空港を目指したが、千歳空港の周辺は曇っていたため、函館空港に着陸した旨を供述した。

 この動きに対してソビエト連邦はその日の内にベレンコとの面会、身柄・機体の早期引き渡しを要求したが、事件は下記の通り推移した。

九月七日
 ベレンコの身柄が東京に移送される。

九月八日
 アメリカ合衆国政府が亡命受け入れを通告。

九月九日
 防衛庁の事情聴収後、駐日ソ連大使館員がベレンコに面会。意思確認をしつつ、翻意を促すもベレンコの意思は変わらず。
 同日中にベレンコは東京国際空港からノースウェスト航空の定期便でアメリカに向かい日本を出国。

九月一〇日
 法務省から防衛庁にベレンコ機の管轄が移送。

 かくして、表面上はソビエト連邦の一軍人が、東西冷戦の相手国であるアメリカ合衆国への亡命を希望し、その中継地点で一時的に日本の空港を頼ったという形で事件は終わった。
 そう、一個人の問題としては希望叶ってアメリカがベレンコを受け容れたことで終わったのである。あくまで表面上は。



事件の日ソ関係への影響 一言で云うなら日本社会に恐怖心が残った。
 只でさえ、米ソを旗頭とした東西冷戦の真っただ中、日ソは国交回復して二〇年を経ても尚、互いに(北方領土問題もあって)友好国とは呼び難い状態にあり、アメリカ陣営に組み込まれた日本は従米的な立場(←四年前にようやく沖縄が返還されたばかり)から、以前にも増してアメリカ様の顔色を窺いながらでしかソビエト連邦と交流出来なかった。

 一応、時代背景的には、米ソデタント崩壊の直前という時期で、緊張は緩和に向かっていたため、事件そのものは単純に、一軍人の亡命強行とされた訳だが、それでも冷戦上、敵対陣営の軍用機が領空を侵犯し、また高度な機密情報を抱えたその機体を確保したことは、日ソ双方にとって軽視出来る事件ではなかった(MIG25を初めとするソビエト連邦空軍機の機密を掴むのにアメリカを初めとするNATO陣営は血眼になっていた)。

 ソ連にとってはMIG25が日本政府=防衛庁の手に渡ったの重大な機密漏洩だった(前述した様に、機体に引き渡しを要求していた)。同時に、日本社会でもこれほど重要機密を抱えた機体をソ連がそのままにしておくとは思えず、「スペツナズ(ソ連軍特殊部隊)が機体を取り返しに来る。」、「機密保全のため破壊しに来る。」等の噂が広まった。

 勿論、一国の軍隊が他国の領内にて当該国に無断で軍事行動に出るのはとんでもない話だが、当時日本はソ連を「やりかねない国。」と見ていた。
 実際、21世紀に入った現代でも、パキスタン共和国領内でアメリカ軍特殊部隊が9.11同時多発テロの首謀者ウサマ・ビンラディンを(勿論パキスタン政府の了解なしに)殺害したなんて事例が有る。
 ともあれ、函館に駐屯する北部方面隊第一一師団隷下の第二八普通科連隊は迎撃作戦準備に出た。

 具体的には、函館駐屯地で開催予定だった駐屯地祭りの展示用として用意されていた六一式戦車、三五mm二連装高射機関砲 L-90を函館駐屯地内に搬入し、ソ連軍来襲時には戦車を先頭に完全武装の陸上自衛隊員二〇〇人が函館空港に突入して、防衛戦闘を行う準備が為された。

 その際、高射砲部隊が西から来た三機の国籍不明機に曳光弾を発射して迎撃準備を行わんとする一幕もあった。結局この不明機が友軍機(空自のC-1輸送機)であるとの連絡が入って、曳光弾は発射されなかったが、発射命令が文民指導部から許可を受けないで行われ―シビリアン・コントロール(文民統制)を無視した形で行われた―ため、教訓をまとめた文書は全部廃棄された。

 海上自衛隊でも大湊地方隊を主力に三隻を日本海側、二隻を太平洋側に配置して警戒に当たり、函館基地隊の掃海艇は函館港一帯の警戒、余市防備隊の魚雷艇は函館空港付近の警備に当たった。
 同時に大湊基地のヘリコプターは常時津軽海峡上空で警戒飛行に当たり、上空にはF-4EJが二四時間哨戒飛行を実施した。

 前述した様にソビエト連邦外務省からは機体の即時返還要求があり、親ソ的だった日本社会党もこれに同調したが、アメリカ軍によって空自の協力の元、九月二四日に外交慣例上認められている機体検査のためにMIG25は分解され、米空軍の大型輸送機にて百里基地(茨城県)に移送された。
 空自では移送に際して、ソ連軍による撃墜も可能性を考慮され、F-4EJ戦闘機にて函館から百里まで護衛に当たらせた。
 結局、検査の後に機体がソ連に返還されたのは一一月一五日だった。

 日本政府とソ連政府としてはこれでベレンコ中尉亡命事件は終結となったが、自衛隊内に問題が残った。
 まずは自衛隊が持つレーダー網の脆弱性である。
 ベレンコの目的が亡命で、強行着陸を行って、スクランブル発進を招いたものの、彼自身は日本に悪意はなく、事件そのものは騒動の域を出なかった。だが、万一ベレンコの強行着陸に侵略・攻撃・諜報等の目的があった場合、空自の防空網はいとも簡単に突破され、害意を持った戦闘機が侵入すれば重篤な被害が生まれるとの懸念が露呈した。
 勿論、この脆弱性から日本の防空能力は必要最低限にすら達していないと批判され、空自ではそれまでは予算が認められなかった早期警戒機E-2Cの購入がなされた。
 そして一連の脆弱さを恥じたものか、或いはソ連に睨まれることを恐れたものか、事件終結後に政府は対処に当たった陸自に対して、同事件に関する記録を全て破棄するよう指示したが、陸上幕僚長三好秀男は自らの辞意をもって抗議した。


 一方のソビエト連邦でも問題が残った。
 同様の亡命者が出るのを防ぐ為にも、ソ連空軍ではレーダーサイトが敵機、味方機を識別する為の暗号の変更を余儀なくされた。勿論、軍事機密に関する事なので、すべてが明らかになる筈ないが、ソ連が多くの情報漏洩に頭を痛め、数々の変更・返還に苦慮したのは想像に難くない。

 いぜれにせよ、事件が日ソ関係を良くするはずが無かった。
 影響の度合いは不詳だが、事件の九日前である八月二九日に色丹島沖合でソ連に拿捕された漁船三隻の船員三人は約一ヶ月間抑留された。
 そして事件直後の一〇月一日にはビザの写しが入国管理当局に届いていないという理由で、日本航空の乗員六人の入国が拒否された。
 これらの措置とベレンコ中尉亡命事件の関連度合いは不明だが、少なくとも日ソ双方にとって気分の悪い事件だったのは明らかである(喜べたのはベレンコ本人と米軍ぐらいであろう)。


不幸中の幸い 日本にとっては良い事は特になかったが、MIG25の情報がアメリカ側に渡ったことで、米ソにて妙な福音があった。

 ベレンコ亡命後、彼の所属していたチュグエフカ空軍基地には事件の調査委員会が訪れたのだが、委員会は基地の生活条件の劣悪さに驚愕し、直ちに五階建ての官舎、学校、幼稚園などを建設することが決定された。
 皮肉にもベレンコが逃げたことで極東地域を始めとする国境部の空軍基地に駐屯しているパイロットの待遇改善の契機となった。

 一方、ベレンコの強行着陸が低高度侵入の有効性と、ルックダウン能力の低い戦闘機の問題点が浮き彫りにしたため、MIG25自体を時代遅れの存在であることを証明してしまった。
 と云うのも、本来MIG25は高高度・高速侵入する敵機の迎撃が主目的で、低高度侵入する敵機への対処能力は空自のF-4EJより劣るもので、このことはソ連軍に後継機の開発を急がせることとなった一方で、米軍の認識も大幅に改めることとなった。

 少し前述したが、事件が起きるまでアメリカはMIG戦闘機を超高速戦闘機として恐れていた。だが、事件により実際にはMIG-25はそれほどの脅威と呼ぶに値しないことが判明した。
 事件が起きるまで耐熱用のチタニウム合金製と目されていた主翼や胴体には実際にはステンレス鋼板が、電子機器も真空管などが多用されていたことが判明した。
 これは昭和中期の基準で見ても著しく時代遅れで、米軍の対ソ連軍事戦略にも大きな影響を及ぼした。

 飛躍した物の見方かも知れないが、米軍がソ連空軍を強敵視しなくなったことは、東西冷戦における緊張緩和につながり、米政府に追従する日本にとっても緊張緩和に繋がったと云えたかも知れない。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
日露の間へ戻る

令和三(2021)年一〇月二八日 最終更新