第拾漆頁 モスクワオリンピックボイコット………米ソ対立の嫌過ぎる余韻

事件名モスクワオリンピックボイコット
発生年月日昭和五五(1980)年五月二四日〜
事件現場世界各地
下手人アメリカ合衆国?
被害者四年に一度のオリンピックに賭けていたボイコット国の選手達
被害内容四年に一度の貴重な出場機会の喪失
事件概要 第22回オリンピック競技大会であったモスクワオリンピックは名前の通り、ソビエト連邦の首都であるモスクワにて開催された夏季オリンピックで、昭和五五(1980)年七月一九日〜八月三日の一六日間にかけて行われた。
 参加国・地域数八〇、参加人数は男子四〇九三名、女子一一二四名の計五二一七人で、二一競技二〇三種目にて競われた。

 だが、副題にある様に、日米を含む約五〇ヶ国が参加をボイコットし、ソビエト連邦の面目並びに政治・文化・人種・宗教・信条の相違を乗り越えた平和の祭典であるオリンピックの意義が大きく傷つけられた

 昭和三九(1964)に開催された東京オリンピックはアジアで初めての開催であったが、このモスクワオリンピックは共産圏、社会主義国では初の開催であった。
 昭和四九(1974)年一〇月二三日、オーストリアのウィーンで開かれた第75回国際オリンピック委員会(以下、「IOC」)総会にて、スポーツ大国のソ連が運営を全面的に担うというモスクワ開催は支持を集め、昭和五五(1980)年の開催が決定されていた。

 ところが、当時世界は米ソを筆頭とした東西冷戦の真っただ中にあり、米ソは互いに相手の揚げ足を取ることに奔走していた。
 アメリカ合衆国は前年である昭和五四(1979)年一二月に起きたソ連のアフガニスタン侵攻を口実に、これへの抗議から、五輪からソ連を締め出すことを決断し、アメリカオリンピック委員会もこれを了承。
 そして大統領カーターが昭和五五(1980)年一月にボイコットを主唱し、ソ連と対立していた多くの国々がこれに追随して同大会をボイコットした。

主なボイコット国(五十音順)と理由
国家 ボイコット同調理由
アメリカ合衆国 提唱国
イラン  ソ連との対立
エジプト  イスラム教国としてアフガニスタンでムジャヒディン(イスラム聖戦士)を支援していた
サウジアラビア  イスラム教国としてアフガニスタンでムジャヒディン(イスラム聖戦士)を支援していた
中華人民共和国  ソ連との対立
大韓民国  分断国家(の親米側)としてソ連への反発から
ドイツ連邦共和国(西ドイツ)  分断国家(の親米側)としてソ連への反発から
日本  対米追従から(泣)
パキスタン  イスラム教国としてアフガニスタンでムジャヒディン(イスラム聖戦士)を支援していた
その他  イスラム教諸国及び反共的立場の強い諸国がボイコットに同調。

 反ソ的な立場はそれぞれで、アメリカの提唱はあくまできっかけだったかも知れない。実際、東西冷戦において西側諸国に属する西欧諸国はボイコットしなかった(大会にて、大会に積極的でない態度は示したが(詳細後述))。
 いずれにせよアメリカの態度は強硬で、丸でモスクワオリンピックにあてをつけるかのようにモスクワオリンピックに対抗した競技大会まで準備し、コートジボワール、イタリア、日本、西ドイツ、中国といったボイコットした国々招いて、リバティ・ベル・クラシックいう名前で昭和五五(1980)年七月にフィラデルフィアで開催した。

 一方、米ソ対立が深刻だったこともあってか、参加した国々も西側諸国に属する国々の参加姿勢も決して好ましいものでは無かった。

参加国(五十音順)の消極的姿勢
参加国 消極姿勢
イギリス  政府がボイコットを指示し、後援を止めたが、オリンピック委員会が独力で選手を派遣。旗手一人だけの入場行進
イタリア  開会式の入場行進には参加せず
オランダ  開会式の入場行進には参加せず
フランス  開会式の入場行進には参加せず
ポルトガル  旗手一人だけの入場行進
備考  参加した西側諸国の多くは国旗を用いず(例外:ギリシャ)、優勝時や開会式などのセレモニーでは五輪旗と五輪賛歌が使用された。

 最後に注目するのはわが日本(政府)の動向である。
 時系列的に下記の流れでモスクワオリンピックボイコットに至った(年はいずれも昭和五五(1980)年)。

二月 前月にアメリカからの西側諸国へのボイコット要請を受け、日本国政府は大会ボイコットの方針を固めた

四月 日本オリンピック委員会 (JOC) は大会参加への道を模索していたが、日本国政府の最終方針としてボイコットがJOCに伝えられた。

五月二四 JOC総会の投票(二九対一三)でボイコットが最終的に決定。ちなみにこの採決は挙手で行われ、各競技団体の代表者には、参加に投票した場合には予算を分配しないなどの圧力がかけられていた

 かくして日本を含む多くのボイコット国の選手達が四年に一度の機会を失くし、滂沱に暮れた。四年後のロサンゼルスオリンピック以降にメダルを獲得出来た選手もいたが、モスクワオリンピック出場の機を逃したことで次のオリンピックまでに現役を退いた選手も少なくなかった。
 スポーツの世界において、選手生命的な寿命を鑑みると四年という時間は余りにも重い時間と云えた。

 同時にオリンピックの歴史にも暗い影を落とした。
 このモスクワオリンピックボイコット問題は、IOCの責任能力ならびに統率力の限界を露呈。IOC会長マイケル・モリス(当時)は、

「この問題に対してIOCはコメントする立場にない。よって、IOCは一切関わらず、責任は負わない」。

 として関与を拒絶した(建前上は各国の意志の尊重を掲げていたのに、である)。
 当然、IOC及びモリスに批判が集中したが、IOCは令和三(2021)年現在に至るまで、このボイコット問題に関して一切声明を発していない。
 ともあれ、閉会後、モリスがIOC会長を退任し、フアン・アントニオ・サマランチが新会長となったが、これ以上の大量ボイコットを避ける為の政治的独立と、その裏付けになる経済的自立を志向したことで、テレビ放映権や大型スポンサー契約に依存する商業主義への傾斜が強まった。



事件の日ソ関係への影響 ソビエト連邦によるアフガン侵攻を非としたとしても、本来、「それは逸れ、これはこれ。」の筈だった。
 政治とスポーツは本来無関係である筈なのに約五〇ヶ国のボイコットを受け、面子を丸潰れにされたそれビエト連邦が根に持たない筈が無かった。

 幸い、大会そのものは事件もなく平穏に終わったが、西側諸国の集団ボイコットによりその権威が失墜したことは疑いようがなかった。
 閉会式のミーシャ(モスクワオリンピックのマスコット・キャラクター)の涙に象徴されるように、ソ連の失望と怒りは深く、次のロサンゼルスオリンピックでは東側諸国を巻き込んだ報復ボイコットに繋がった。
 それを暗示するように、閉会式での電光掲示板では恒例だった筈の、「ロサンゼルスで会いましょう」という文字が一切出なかった

 ソ連は四年後にボイコットを提唱したアメリカにて開催されたロサンゼルスオリンピックに対し、アメリカ軍のグレナダ侵攻を理由に東側諸国にボイコットを呼びかけ、報復とした。
 各国の思惑はそれぞれだったが、結果、イランはモスクワオリンピックロサンゼルスオリンピックの両方をボイコットし、一方で共産主義諸国でもルーマニアは参加して世界の称賛を集めた。

 結局、政治・外交問題によるボイコット問題が(一応)終息したのは昭和六三(1988)年開催のソウルオリンピックでのことだった(同大会では朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がボイコットしたが、これは主権問題と云えよう)。

 勿論日本国内でも多くの影響が出た。
 昭和五二(1977)年にテレビ朝日系列はモスクワオリンピックの独占放映権を獲得していたが、日本のボイコットが決まったため、中継体制は大幅に縮小され、深夜の録画放送のみとなった。
 視聴率も開会式が11.2%と過去最低を記録。競技期間中も低迷した。

 何よりも影響を受けたのは選手達である。
 少し前述しているが、肉体の若さに大きく左右される選手生命の問題もあって、多くの選手達にとって「四年に一度の機会」が失われたことも泣いても泣き切れない痛恨事だった。
 勿論、参加したからと云って必ずメダルが獲得出来た訳じゃないが、「選手に選ばれながら、直前でその機会を奪われた」という急転直下型悲劇は想像を絶する。
 当時のスポーツ界を詳しく知っている訳じゃないが、メダル獲得が確実視されていた選手もいただろうし、連覇がかかっていた選手、或いは次のロサンゼルスオリンピックでメダルを獲得出来たことから、モスクワオリンピックに参加していれば連覇を達成出来ていたかも知れなかった選手もいよう。
 まあ、この手の仮定は云い出せばキリが無いが、各競技にあって、以下のような影響があった。

競技における主な影響
競技 選手 影響
男子体操 団体総合  昭和三五(1960)年ローマオリンピック〜昭和五一(1976)年のモントリオールオリンピックまで続いた五連覇が自動的に途絶えた(金メダル奪回は平成一六(2004)年のアテネオリンピック)。
ボクシング 赤井英和  補欠として代表の可能性を残していたが完全消滅。その後大学生の身分のままプロ転向。
クレー射撃 石原敬司  昭和四三(1968)のメキシコシティーオリンピックを協会の不祥事で出場を閉ざされて以来機会に恵まれず、念願の代表選出だったのが幻に終わった(平成二八(2016)年のリオデジャネイロオリンピックにて次女・奈央子がオリンピック出場を果たした)。
柔道 香月清人  前年の世界柔道選手権71kg級で優勝し、代表に内定していたがボイコットを契機に一度は現役引退。
藤猪省太  世界柔道選手権四階優勝の実績で代表が内定していたのが出場叶わず、現役引退(その後指導者となり、平成二〇(2008)年の北京オリンピックでは審判員を務めた)。
ライフル射撃 蒲池猛夫  現役引退(後に復帰し、ロサンゼルスオリンピックにて日本最年長記録で金メダル獲得)。
自転車競技 坂本典男兄弟  自転車初の兄弟五輪代表選手となる筈だったが。幻に終わった(その後、典男ロサンゼルスオリンピックで日本自転車初メダルとなる銅メダルを獲得)。
長義和   昭和五二(1977)年に日本競輪学校合格を蹴ってまで当大会にかけたものの出場叶わず。当時存在した競輪学校の年齢制限(24歳未満)から競輪選手への道も閉ざされ、そのまま現役引退を余儀なくされた。
レスリング 高田裕司  現役引退(後に復帰し、ロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得)。
水泳 長崎宏子  当時一一歳。夏季五輪では初めての小学生五輪代表選手となった筈が幻に終わった。

 勿論、他のボイコット国の選手にもモスクワオリンピック参加を逃したことで様々な影響を受けた方々いたであろうことは想像に難くない。
 オリンピックの長い歴史の中には昭和四七(1972)年のミュンヘンオリンピック事件(パレスチナ武装組織により、イスラエル人選手一一名が殺害された)の様にモスクワオリンピックボイコットより悲惨な事件も起きているし、戦争でオリンピック自体が中止されたこともあり、モスクワオリンピック四年前のモントリオールオリンピックでも少なくない国々(アパルトヘイトに絡んでアフリカの国々が、台湾問題を巡って中国が)がボイコットしており、モスクワオリンピックが最初と云う訳ではない。

 ただ、ソビエト社会主義共和国連邦の存在が大き過ぎた故に、同大会におけるボイコット問題は多くの国が様々な国を色眼鏡で見るきっかけとなり、ソ連を危険視する傾向の強い日本国民も少なからぬ影響を受けた。
 個人的な記憶で語れば、モスクワオリンピック当時小学生だった道場主はこの直後に北方領土問題を知り、少し後に当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンがソ連を「悪の帝国」と呼んだことから、長くソ連という国に対して良いイメージを抱き得なかった。

 ただ、政治的な対立の前にオリンピック出場の好機を逸した選手達の無念を思うなら、極力国と国民を一緒くたに見ない姿勢を持ちたいものである。



不幸中の幸い こんな書き方をするとオリンピック選手達に甚だ失礼だとは思うのだが、モントリオール・モスクワ・ロサンゼルスの三大会でボイコット国が多く出たことで、メダルを獲得出来た選手もそれなりにいたと思われる。

 モスクワオリンピックにてソ連は最大数のメダル獲得を達成したが、その内のいくつかはボイコットした国々の選手参加が有ればなかったかもしれない。
 逆に次のロサンゼルスオリンピックにてソ連を初めとする東側諸国のボイコットのお陰(←こんな云い方が良くないのは分かっています)でメダルを獲得出来た選手もいたことだろう。

 特にソウルオリンピックロサンゼルスオリンピックにソ連が参加していれば日本人選手の獲得していた金メダルが幾つ消えていただろうか?と思わされた。
 勿論、強力なライバルの不参加の為、メダル獲得にすっきりしないものを感じた選手もいただろう。ボイコット問題以外でも、大会の度にドーピング問題で獲得メダルを剥奪された選手が出たことで繰り上げ的にメダルを獲得した選手だって複雑なものを感じたことだろう。

 如何に優勝候補の不出場により獲得出来たメダルとはいえ、勝負が行われていても獲得出来た可能性だってあるし、そもそもオリンピックに出場すること自体が並外れた力量の賜物なので、背景にいかなる事情が有ろうと、メダルを獲得したアスリートは素直に敬意を抱きたいし、メダルを獲得出来なかったからと云って貶すようなことはしたくない(道場主は常々、結果だけを見て格闘家を安直にぼろくそに非難する評論家に対して、「一辺、(その格闘家に)殴られて来い。」と思っている)。

 つい近々でも令和二(2020)年に開催される予定だった東京オリンピックが新型コロナウィルスの世界的流行の前に翌令和三(2021)年に延期され、多くの懸念・反対の声を押し切って開催された。
 一年の延期にも影響はあっただろうし、「国内感染者数0」を云い張っている北朝鮮は「選手の健康を守る」ことを理由にボイコットしたため、好機を逃した朝鮮人選手も存在した。正直、北朝鮮の「感染者数0」なんて全く信じていないが(苦笑)、実際に来日した後に感染した選手や関係者も存在した。
 コロナ禍が収まらない中での開催強硬には非難の声もあり、開催賛成派は反対派を「売国奴」と罵り、反対派は賛成派を「国民の生命・健康よりも利権や国家の面子を優先している。」と罵り、誠に醜い対立だったが、結果として開催された以上は、機会を失わずに済んだ選手達の健闘を称え、メダルを獲得した選手達には敬意を表したい。

 その背景にモスクワオリンピックボイコット初めとする数々のオリンピックにおけるボイコットで涙を飲んだ選手達への想いがあり、政治よりも平和の祭典を重んじたものであると信じたいところである。


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令和三(2021)年一〇月二八日 最終更新