第拾捌頁 大韓航空機撃墜事件………乗客乗員全滅の悲劇と情報隠蔽

事件名大韓航空機撃墜事件
発生年月日昭和五八(1983)九月一日
事件現場ソビエト連邦カムチャッカ半島上空
下手人ソビエト連邦政府及びソビエト連邦空軍
被害者大韓航空機乗員乗客二六九名
被害内容乗客乗員全員死亡
事件概要 う〜ん…………気が重い…………。
 この事件は今(令和三年)から三八年前に起きた事件で、事件における犠牲者の遺族も数多く存命していることと思われるので、この頁の記述が多くの方々の悲しみを揺り動かすかもしれない………。
 また、道場主自身、この事件の約二年後に日航機墜落事故で物凄く可愛がってくれた叔父(母方の叔母の旦那)を失っており、飛行機事故自体にトラウマもある。
 ただ、当時の日ソ関係を初め、共産主義諸国の強硬姿勢・隠蔽体質を考察する意味でも外せない事件なので、慎重にキーを叩きたい………。

 事件は昭和五八(1983)九月一日にアメリカ合衆国から大韓民国に向かっていた大韓航空の航空機が航路を外れて飛行したためにソビエト連邦空軍にスパイ機と認識され、サハリン(樺太)上空にて撃墜されたものである。
 日本人二八名を含む乗員乗客二六九名全員が死亡。世界航空事故史上稀に見る大惨事となった。勿論事件は大韓民国とソビエト連邦の間で起きたもので、直接の当事国は韓ソ両国である。ただ、当時両国間には国交がなく、事件現場が日本と隣接するサハリン上空だったことや、乗客に多数の自国民が居て犠牲となった日米両国も無関係ではいられなかった。

 まずは事件の経過を時系列で追いたい。

昭和五八(1983)年八月三一日
午後一時五分
 大韓航空機〇〇七便、ジョン・F・ケネディ国際空港(ニューヨーク州)を出発(この際に慣性航法装置 (INS) 三基の内一期に不具合が報告)。

午後八時三〇分
 〇〇七便、燃料補給の為にアンカレッジ国際空港(アラスカ州)に到着。燃料補給・乗務員交替が為される。

午後九時二〇分
 〇〇七便、アンカレッジ国際空港を出発予定時刻だったが、追い風のため出発を見合わせ。

午後九時五〇分
 〇〇七便、アンカレッジ国際空港を離陸。

午後一〇時二七分
 〇〇七便、カイルン山電波局付近を通過、レーダー圏外へ入る (この時点で既に予定航路を北へ一一q逸脱していた)。

午後一〇時二七分
 〇〇七便、アンカレッジの管制官にベセル(アラスカ州西端部の都市)通過を報告(実際の位置は北に二二km外れていた)。

九月一日
午前〇時五一分
 ソビエト連邦軍の防空レーダーが、カムチャッカ半島北東を飛行する〇〇七便の航跡を捕捉。ソ連側はアメリカ軍機と判断。

午前一時三〇分
 〇〇七便ソ連の領空を侵犯。ソ連軍機は迎撃を試みるも接触出来ずに帰投。

午前二時二八分
 〇〇七便、カムチャッカ半島を通過。ソ連のレーダーから消える。

午前二時三六分
 〇〇七便、サハリン(樺太)に接近し、ソ連軍は警戒態勢に入る。

午前三時五分
 〇〇七便、後続便と通信し、お互いの風向風速が全く異なっていることに気付くが、操縦士等はフライトプランを見て誤差の範囲内だと判断。

午前三時八分
 ソ連軍機〇〇七便を視認。夜間の機種の判別は出来なかったが、航法灯と衝突防止灯が点灯していることを報告。

午前三時二一分
 ソ連軍機が警告射撃。しかし、曳光弾は搭載されておらず、徹甲弾(光跡を伴わず、弾丸の航跡が見えない)のみの発射で、〇〇七便はこれに気付かず。

午前三時二三分
 〇〇七便、高度上昇し三万五〇〇〇フィートに到達。これに伴う速度低下で、ソ連軍機〇〇七便の真横まで追いつくが〇〇七便気付かず(当時の技術では旅客機が軍用機の接近を感知するのは困難だった)。

午前三時二三分
 ソ連軍にて攻撃命令が発令される。

午前三時二五分
 ソ連空軍中佐ゲンナジー・オシポーヴィチ操縦する空軍機Su-15TMがミサイルを発射。

午前三時二六分二秒
 〇〇七便の尾翼の後方五〇mで赤外線誘導式ミサイルが爆発。結果、方向舵制御ケーブル周辺、四つの油圧系統のうち第一〜第三系統を損傷、機体に約一.七五平方フィートの穴が開いて急減圧が発生。

午前三時二六分四六秒
 〇〇七便の自動操縦が解除され、エンジン出力を下げ、ギアダウン(車輪降ろし)し、降下し始め、操縦は困難となる。それとともに、機内に大きな衝撃と轟音が鳴り響いた。
 この間、機長は東京コントロールの管制官に「急減圧の発生」と「高度一万フィートへ降下する。」と交信したが、雑音により途中で交信が途絶。これ以降、セルコールによる呼び出しを含めてコールするが応答は無かった。

午前三時二七分四六秒
 ブラックボックスの記録が途絶える。その後〇〇七便は操縦不能に陥り、左へ旋回し、上昇・下降しながら落下し続ける。

午前三時三八分
ソ連及び航空自衛隊稚内分屯地のレーダーサイトから〇〇七便の機影が消える。

 撃墜・墜落の場所が場所だったので、レーダーから消えた後の〇〇七便及び乗員乗客が迎えた不幸の状況は今も詳らかではない。
 ソ連のレーダー記録、公開された機体の残骸や遺体の状況などから、〇〇七便は機首を下げたまま激突もしくは空中分解し、墜落したと推測されている(乗員乗客は全員即死したと推定される)。
 近くで操業していた日本のイカ釣り漁船・第五十八千鳥丸の乗組員は、海馬島の北一八.五海里沖で飛行機の爆音と海上での爆発を目撃し、航空機燃料・ケロシンの匂いがしたと証言した。後に千鳥丸を含む操業中の日本漁船によって機体の残骸や遺体の一部が回収され、中には北海道稚内市の海岸に漂着したものもあったが、辛うじて人体組織と分かる程度で、とても身元の判明に繋がる状態ではなかった…………。

 いずれにせよこの撃墜で乗員乗客二六九名全員の命が失われ、被害者遺族は遺体を抱くことも叶わず、事件直後より肉親の死に対する悲しみに加え、閉ざされた国際関係の前に分からないことが多過ぎる事態にも憂悶することとなった。
 乗客の中で一番多かったのは勿論韓国人だったが、出発地であったアメリカの人も多く、留学や出稼ぎ労働からの帰国の為に航空運賃の安さから大韓航空機を利用した日本人二八名を含むアジア人も多かった(東西冷戦の真っただ中だったため、アジア・欧州共に西側諸国に属する人々ばかりだった)。

国籍別被害者数(数の多い順に列記)
国籍 犠牲者数 備考
韓国 105(乗客76・乗務員29) 発着国
アメリカ合衆国 62 発着国
台湾(中華民国) 23 ソウルで乗り継ぎ自国へ向かう乗客多し
日本 28 ソウルで乗り継ぎ自国へ向かう乗客多し
フィリピン 16 ソウルで乗り継ぎ自国へ向かう乗客多し
香港(当時イギリス領) 12 ソウルで乗り継ぎ自国へ向かう乗客多し
カナダ 8
タイ 5
イギリス 2
オーストラリア 2
インド
イラン
スウェーデン
ドミニカ共和国
ベトナム
マレーシア 1
合計 269


 撃墜直後、「所属不明機の機影が突然消失した。」と捉えた航空自衛隊稚内分屯地は行方不明機がいないかを九月一日午前に日本、韓国(大邱)、アメリカ(エルメンドルフ)、ソ連(ウラジオストク)の各航空当局に照会。
 日・韓・米からは「該当機がない」との返答を受けたが、ソ連からは返答がなかった。

 日本政府は大韓航空機がサハリン沖で行方不明になったことを公式発表し、午前七時前後にはテレビやラジオでニュース速報が大韓航空機行方不明を報じ、各国の通信社が東京発の情報として大韓航空機の行方不明を報じた。
 情報が錯綜(撃墜説・ハイジャック説等が流れた)する中、午前一一時に韓国外務省が、

 「旅客機はサハリンのネべリスク付近の空港に強制着陸させられ、乗員乗客は全員無事。」

 と発表し、民放各局は昼のニュースにてトップ項目として報じた。だがすぐに誤報と分かった。また、ソ連の戦闘機が発進し、ミサイルを発射した形跡が確認されたが、これに対してソ連側は墜落のみを認め、撃墜については触れなかった。

 日・韓・米等の西側諸国の報道が為される中、各国政府・マスコミからの問い合わせに対してソ連は「該当する航空機は国内にいない」、「領空侵犯機は日本海へ飛び去った」と述べて、事件への関与を否定。
 だが、六二名もの自国民が犠牲となったアメリカ政府は、その日の内に「ソ連軍機〇〇七便を撃墜した。」と発表。日本当局が提供したソ連軍機の傍受テープも一部放送した(前後の事情は詳細後述)。
 当然、このアメリカによる正式発表を受けて、日本、韓国、アメリカ、フィリピンなどの西側関係諸国ではソ連に対する非難が起こり、ソ連政府に対して事実の公表を求めた。

 またこの日、北海道オホーツク海沖で操業していた日本の漁船が、旅客機機体の破片や遺品を発見。これと前後して、海上保安庁やアメリカ海軍の船艇が、機体が墜落したと思われる付近に向けて、捜索に向かった。

九月二日
 ソ連の参謀総長ニコライ・オガルコフが「領空侵犯機は航法灯を点灯していなかった。」、「正式な手順の警告に応答しなかった。」「日本海方面へ飛び去った。」(←勿論大嘘)と、モスクワでテレビカメラを入れた記者会見で発表した。
 これに対しアメリカ大統領ロナルド・レーガン大統領はソ連政府を「うそつき」と非難し、韓国大統領全斗煥もソ連を激しく非難。日本・西ドイツ・フィリピン・台湾(中華民国)等多くの西側諸国の政府もソ連の対応を非難した。

九月六日
 国連安全保障理事会において、陸上幕僚監部調査部第二課別室が傍受したソ連軍機の傍受テープに、英語とロシア語のテロップをつけたビデオが、アメリカによって各国の国連大使に向けて上映され、ソ連軍機による撃墜の事実を改めて世界に問い掛けた。
 ビデオの上映中、ソ連国連大使は一貫して画面から目を逸らし続けていたが、事ここに至ってソ連外務大臣兼第一副首相アンドレイ・グロムイコが大韓航空機の撃墜を認める声明を正式に発表した(余談だが、国際社会にて「ミスター・ニェート(ロシア語で「No」)」と呼ばれたグロムイコが事件を認めたのは稀有且つ、事件が隠しようの無いものであることを意味した)。

九月九日
 オガルコフが「大韓航空機は民間機を装ったスパイ機であった。」との声明を発表。

九月一三日
 国連の緊急安保理事会でソ連への非難決議が上程されるが、否決(ソ連が常任理事国特権である拒否権を発動)。
 同日、大韓航空機と最後の交信を行った日本の運輸省航空局が交信記録を公表し、撃墜直前まで全く異常がなかったことが確認された(冒頭でも述べたが、事件当事者である韓国は当時ソ連との国交がなく、国際連合に加盟していなかったためソ連への抗議や交渉、国連での活動は、国連加盟国でソ連と国交があり、且つ事件の当事者である日本とアメリカが主に行った)。

 事件後すぐに、日米ソの船舶や航空機が墜落されたと想定されたサハリンの西の海馬島周囲の海域を船舶や航空機によって捜索したが、ソ連は領海内への日米の艦艇の立ち入りは認めず、公海上での捜索に対しても日米の艦艇に対して進路妨害などを行った。
 その後、ソ連は回収した機体の一部や遺品などの一部の回収物件を日本側へ引き渡したが、一方で「これ以外に遺体は見つかっていない。」、「ブラックボックスは回収していない。」と主張。だが、機体の破片や遺体の一部が北海道の沿岸に事件直後から次々と流れ着いており、付近で操業していた日本の漁船などによって回収もされていたため、ソ連による発表内容は当時から疑問視されていた(実際にソ連〇〇七便のブラックボックスを回収したことを隠蔽していた)。
 日本海側に漂着した遺留品は、身元確認が出来ないまま平成一五(2003)年の忠霊祭において遺族会の了承の元で焼却処分にされた。

 各国が必死になって捜索していたブラックボックスを事件後間もなく回収していたソ連当局はコックピットボイスレコーダーとフライトデータレコーダーの分析を即座に済ませ、一一月二八日には極秘報告書においてスパイ行為説を否定していた。
 勿論この事実は、「スパイ機を見做して撃墜した。」というソ連側の撃墜正当化が大きく損なわれることを意味し、国外には伏せられ、日米両国はこの事実を知らないまま、ブラックボックスを半年以上も捜索し続けた。
 ブラックボックス回収指示書が、ソ連当局からサハリンの地元住民に極秘に渡されていたこと、地元住民がその指示書と同じものを実際に海中から引き揚げたこと、そして、住民が密かに自宅などに持ち帰っていた部品が撃墜された大韓航空機のものであったことが判明したのはソビエト連邦崩壊直後のことだった…………。



事件の日ソ関係への影響 良くなる筈が無かった。それどころかこの大韓航空機撃墜事件は緊張緩和に向かっていた東西冷戦を終結から大きく後退せしめた。

 ここで少し私情を交えることを御了承願いたいが、冒頭に書いたように、道場主はこの大韓航空機撃墜事件から二年後の昭和六〇(1985)年八月一二日に起きた日航機墜落事件で身内を失った。乗客乗員五二四名中五二〇人が犠牲となった日本航空史上最悪の大惨事で、二〇組程の家庭が一家全滅の憂き目を見、奇跡的に生存された四名の女性の内三名が同乗していた家族を失った。
 奇跡の生存者が機内最後方に搭乗していたのに対し、道場主の叔父はエンジン横の丸で助かる見込みのない場所に座していた。犠牲者は身体的特徴で身元が確認出来れば良い方で、指紋や歯形で辛うじて身元が判明した方々も少なくなかった(最後まで墜落防止に努めた機長は前歯五本で身元が確認された)。道場主の叔父は着衣・腕時計・指紋でもって叔母が遺体を叔父のものであることを確認。そんな状況故、叔母と叔母に同行した道場主の母以外は遺体との対面が叶わなかった。
 叔父は会社経営者だった故に社葬にて盛大な告別式が営まれたが、遺体との対面もなく、当時三歳だった従弟は叔父の死以上に叔父に会えない意味が分からず泣き叫んでいたのを昨日の事の様に覚えているし、道場主(当時中学生)自身数年間叔父の死が受け入れられなかった。

 日航機墜落事故は事故機が過去に「しりもち事故」と呼ばれる事故を起こしていたことや、離陸後早々に垂直尾翼を失っていたことから日本航空に非難が殺到した。事故の原因については既に時効が成立し法的には誰も責められることはない。
 道場主にしても、日本航空も機長を初め多くの乗員を同事故で失っており、機長達が事故を回避するのに最後の最後まで最善を尽くしていたことも知っているし、毎年事故の日前後には慰霊登山を行う遺族の為に日航関係者が数々の便宜を図ってくれているのも直に接して知っているので、誰かを責めようと云う気はない(墓守をしている人々は五二〇名の墓標位置を完全に把握しており、事故の一四年後に同地を訪ねた道場主が叔父の名前を告げただけで即座に墓標の場所を教えてくれた)。
 ただ、事故でさえ事故調査・裁判・賠償を巡って紛糾し、搭乗者名簿に叔父の名前を見つけて悲鳴を上げたり、叔父が奇跡的に返って来ることを願い続けたりした記憶から、飛行機事故が如何に絶望感をもたらし、遺体とまともに会えないことが如何に遣り切れなさを伴うかを、多少は人より知っているつもりである(それでも叔母や従弟妹達のそれには遠く及ばないだろうなあ………)。


 ここで話を戻すが、「事故」でさえ、これ程痛ましい。ましてこれが他国から(一方的に)スパイと見做されてミサイルで殺された事件とあっては、その怒り・悲しみ・憤り・憤懣やる方なさは日航機墜落事故時の道場主の比ではないと思われる。

 また事件の悲惨さに加えて、ソビエト連邦政府の隠蔽体質と真相解明を妨害する国際関係が遺族の怒りを増幅させた。
 仮に撃墜が現場空軍兵による誤認でスパイ機と見做して撃墜したものだったとして、ソ連政府及びソ連軍が関係者を厳重に処罰し、遺体・遺品・ブラックボックスの回収・提供に努め、犠牲者や関係各国に謝罪と深い哀悼を示していれば、怒りの矛先は(故意ではないにせよ)航路を逸れる操縦をしてしまった操縦者(航路を外れたことにヒューマン・エラーがあったことは確実視されている。)と、取り返しのつかない誤認をした兵士に向いていたと思われる。

 事件そのものだけで悲惨極まりないのだが、当時の日ソ・日米・韓ソ関係も大きく影響した。
 多くの犠牲者を出した韓国にとって、撃墜をしでかしたソ連に抗議を初め何かを働きかけようにも、当時の韓国とソ連には国交がなく、国際連合に未加盟だったため、国連の場で訴えることも出来ず、韓国に次ぐ犠牲者を出したアメリカ・日本に頼らざるを得なかった。

 六二名の犠牲者が出たアメリカ合衆国だが、同時の同国大統領はソ連を「悪の帝国」と敵視していたロナルド・レーガンだった。レーガンは報復措置としてソ連のアエロフロート機のアメリカ乗り入れを無期限停止した上、合衆国連邦政府職員の同航空の利用を制限し、パンアメリカン航空機のソ連乗り入れも停止した。

 そして当時の日本の総理大臣は中曽根康弘だった。ただでさえ歴代日本の総理はアメリカのイエスマンが大半な中、中曽根は「ロナルド」と「康弘」の名から「ロン・ヤス外交」と呼ばれた良くも悪くも蜜月関係を築いていた。
 撃墜に前後する自衛隊による傍受テープをアメリカに提供して公表することに対して、反対意見を押し切って提供に応じたのは勿論中曽根だった。
 提供・公表に対して、防衛機密保持の上から、後藤田正晴(内閣官房長官)を初めとする防衛庁幹部は消極的であった。しかし中曽根は、
「交信記録を提供して日本の傍受能力が多少知られたとして、この場合には損はないと考えた。ソ連に対する日本の強い立場を鮮明にする好機であり、対米友好協力関係を強化する意味もあった。レーガンに知らせてやるのは、得になることはあっても、損になることはない。」
 とした。

 そして日本でも二週間の日本航空とアエロフロートによる定期便相互乗り入れを停止し、成田国際空港-モスクワ線や成田-ハバロフスク線などの運行が停止した。

 事件当時、ロン・ヤス外交の一翼であるレーガンがソビエト連邦に敵対的で、東西冷戦はまだまだ終わりが見えない状態で、日ソ共同宣言から二七年、沖縄返還から一一年を経て尚北方領土問題解決の兆しが丸で見えない状態(まあ、今も見えてないが)で、ソ連以外にも共産主義政権による一党独裁国の隠蔽体質が今以上に酷い状態だったこともあり、日本人のソビエト連邦に対する視線は温かいものとは云い難かった。
 道場主自身、当時(若き日の不勉強もあって)ソビエト連邦という国に良いイメージを抱いていなかった。
 この大韓航空機撃墜事件に前後して、日本はモスクワ五輪をボイコットし、ソ連もまた事件翌年のロサンゼルスオリンピックをボイコットし、米ソ及び東西両陣営の対立の深刻さが浮き彫りにされ続けていた。
 四年後のチェルノブイリ原発事故に際しても、ソ連の隠蔽体質は世界に大きな不信と不安をもたらした。正直、ソ連とアメリカの在り様によっては両国による戦争勃発の可能性も全くの〇ではなかったし、外野から見ていてソ連に対する見方が善化するにはゴルバチョフによるグラスノスチ(情報公開)を待たなければならなかった。

 ただでさえ、国家というものは国外に対しても、国内に対しても自らの非を認めることに極めて消極的である。個人においても自らの非を決して認めようとしない者、認めることが出来ない(残念な)者が少なからず存在してその者の存在するコミュニティに属する人々が手を焼かされる。
 個人の問題なら、最悪その人間をスポイルすれば問題の排除は可能だ。ただ、これが国家となると、後々の外交が不利になる事やその時点の担当者が歴史に汚名を残すことや様々な利害を巡って、「謝ったら負け」的な考えに支配されがちである。
 まして東側諸国の陣頭指揮を執り、国内外に弱みを見せられないソ連は現在の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)並みの逆ギレ(とまで云うと語弊があるが)に出た。

 ソ連はブラックボックスを先に回収したのをいいことに、自国に都合の悪い情報を伏せまくった。そして前述した様に虚偽の報告を国際社会に発したこともそうだったが、事件の責任を韓国やアメリカに押し付けるために以下の様な領空侵犯原因諸説を展開した。

●アメリカ軍部の指示説
 「アメリカ軍が同盟国である韓国政府および国営航空会社であった大韓航空に対し、ソ連極東に配備された戦闘機のスクランブル状況を知るため、もしくは、近隣で偵察飛行を行なうアメリカ空軍機に対するソ連軍機の哨戒活動をかく乱するために、民間機による故意の領空侵犯を指示し、事故機がこれに従った。」
 と主張。勿論現在では、ロシア政府さえこれを否定している(苦笑)。


●燃料節約説
「機長が燃料節約の為に意図的に航路を北にずらし、スクランブルを受ける危険を承知でソ連領空を侵犯した。」と主張。
 要するに燃料費をケチる為に領空侵犯したとするトンデモ説である。まともに取り合うのも馬鹿馬鹿しいが、自国の非を認めたくない故の無理のあるでっち上げ・こじつけとしか云い様がない。
 それでなくても大韓航空機撃墜事件の五年前にも大韓航空はソ連領空を侵犯して迎撃を受け、死傷者(日本人を含む二名が死亡、一九人が重軽傷)を出した上に乗員乗客が拘束を受ける事件を起こしており(大韓航空機銃撃事件)、それによって深刻な旅客離れを招いた経験からも、日本円で数万〜数十万円程度と思われる燃料を節約する為にかかるリスクを冒す必要があったとは到底思えない。

 これらの主張がまともに日米韓に通らなかった派当然だったし、当のソ連内にあってさえ、大韓航空機による意図的な領空侵犯は早々に否定されており、撃墜したのが民間機だったとの見方が固まっていた。

 そしてこの事件の七年前にベレンコ中尉亡命事件(前頁参照)でアメリカに亡命し、空軍顧問となっていたヴィクトル・ベレンコ(元ソ連防空軍中尉)はアメリカ国防総省の依頼で交信を解読し「領空を侵犯すれば、民間機であろうと撃墜するのがソ連のやり方だ。ソ連の迎撃機は、最初から目標を撃墜するつもりで発進している。地上の防空指令センターは、目標が民間機かどうか分からないまま、侵入機を迎撃出来なかった責任を問われるのを恐れ、パイロットにミサイルの発射を指示した。」と証言していた(平成九(1997)年八月の北海道新聞のインタビューにて)。

 願わくば、未来の世界各国の為政者にかかる隠蔽・逆ギレ・責任転嫁が決して通らないことをこの事件をして「他山の石」として国家間における問題発生時の愚行を戒めて欲しいものである。



不幸中の幸い さすがにこの大韓航空機撃墜事件に救いは一切ない。少なくとも犠牲者及びその遺族がこの事件で得をすることがあった等とは天地がひっくり返っても見出せない。
 この事件に限らず悲惨な事件に対して何か「不幸中の幸い」が有るとすれば、事件に学んだことが世界に善果をもたらした場合のみと云えよう。

 その観点で無理矢理考察すると、一応対外的な態度とは裏腹に事件関係者にある程度の罪悪感や哀悼の念が見え隠れしていることだろうか?(その多くはソ連崩壊によって世に出ることが可能となったものだったが)。そもそもソビエト連邦の性格からして、大韓航空機を完全にスパイ機と確信していれば、隠蔽や責任転嫁など行わず、「スパイ行為を行う方が悪!」と云い張っていたことだろう。

 まず撃墜時パイロットであったオシポーヴィチ(中佐)はソ連崩壊後に日本のテレビ番組『大追跡』のインタビューで、「軍令のためとはいえ結果的に民間機を撃墜したことは遺憾だとコメントした(同席した妻は「撃墜は義務」であったと夫を庇う旨をコメント。また別の番組では非を認めない発言をしたとの説もある)。

 また冷戦終結後、平成三(1991)年一一月にパリで行なわれた国際テロ対策会議においてオレグ・カルーギンソ連国家保安委員会 (KGB) 議長顧問が、「この事件の詳細を日本側に報告する。」と佐々淳行(元・初代内閣安全保障室長。事件発生当時の防衛庁官房長として対応に関与)に表明した。
 そしてソ連崩壊後になるが、実際にロシア政府は回収を秘匿していた〇〇七便のブラックボックスをICAO(国際民間航空機関)に提出し、合わせて残された遺品の遺族達への引渡しを行った。
 ICAOはこれを高い解析技術を持ち、且つ立場的に中立であったフランスの航空当局に提出、解析を依頼し、その結果をもとに調査の最終報告をまとめた。
 それによると、航路逸脱の原因は以下のいずれかとされた。

・慣性航法装置の入力ミス説
・慣性航法装置の起動ミス説
・慣性航法装置の切り替えミス説
 ロングヘアー・フルシチョフは航空に関しては全くの素人なので、これらのミステイクに対してのコメントは控えさせて頂くが、いずれもヒューマン・エラーと捉えている。

 つまり事件はあくまで事件で、誰しもがこの事件を喜んでおらず、端からかかる事件を起こしたい気持ちなど無かった(←当たり前だ!)。
 事件発生の背景には確かに責めたい要因は多々ある。国家間の相互不信があり、非情な命令が出されて取り返しのつかない犠牲が出た上に、その後の解決も散々妨害された訳だが、ブラックボックスを処分していなかったことからも、ソビエト連邦政府関係者にも国家的な面子から殊勝な態度には出れずとも非武装の民間機を撃墜してしまった事件を痛ましく思い、それに対する罪悪感及び、いつかはすべてを明らかにしなければならないという良心を持ってはいたと信じたい次第である。

 余談だが、この大韓航空機撃墜事件を契機に、軍事用途に開発された衛星測位システムであるGPSが、民間航空機の安全な航行のために開放された。つまりは世界の安全航行  レベルが上昇した訳だが、ロングヘアー・フルシチョフはこれを「不幸中の幸い」とはしたくない。
 確かに事件や事故の教訓から世の中に進歩が生まれることはある。悪名高いナチスや731部隊の人体実験が医学の発展に貢献したことを持って妙なまでに両組織を庇う人たちが存在するが、俺はこれに同調しない。
 痛ましい犠牲によるものでも、既に生まれた成果それ自体はそれで世の進歩に用いればいい。ただ、だからといって「犠牲が生まれて良かったね。」とは絶対にならない。自分の身内が戦争中に捕虜にされ、人体実験に供され、その実験結果から医学が発達したとしても、「医学の発展が無くてもいいから、身内が死なないで欲しかった。」と考えるだろう。
 それゆえ「戦争が医学・科学・文化を初めとする人類の進歩に貢献してきた。」という側面的事実は認めても、だからと云ってそれに伴った犠牲を「是」としたり、今後の世界に戦争必要論を認めたりすることは断じてない。
 何かの犠牲で生まれた技術・進歩それ自体を大切にしても、それを是としない、それを悼む気持ちは人として持ち続けたい次第である。


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令和三(2021)年一一月八日 最終更新