第参頁 ロシア軍艦対馬占領事件………見直すべき要衝の島

事件名ロシア軍艦対馬占領事件
発生年月日文久元(1861)年二月三日〜文久元(1861)年八月一五日
事件現場肥前国対馬府中藩芋
下手人ニコライ・ビリリョフ
被害者対馬府中藩士・領民
被害内容居直りによる日常に不安に曝され、一部には略奪・殺傷もあり。
非の割合日本:ロシア=0:10
事件概要 ロシア帝国の軍艦が対馬芋崎(いもざき)を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留した事件。別称・ポサドニック号事件
 文久元(1861)年二月三日、ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフが軍艦ポサドニック号で対馬に来航し、尾崎浦に投錨し測量、その後浅茅湾内に進航した。
 一連の行動の目的は、不凍港の確保にあった。
 ロシア艦隊中国海域艦隊司令官イワン・リハチョーフ大佐は、不凍港を確保するため対馬海峡に根拠地を築くことを提案していたが、日本との関係が悪化することを懸念したロシア政府はリハチョーフの提案を拒絶した。
 しかし、海事大臣コンスタンチン・ニコラエヴィチが、対馬への艦隊派遣を許可させたため、リハチョーフはポサドニック号派遣を命じていた。

 勿論、相手国の許可も無しに他国の領海に投錨したり、海岸を測量したりするのは、よくてもスパイ行為、下手すりゃ侵略行為とみなされる暴挙で、対馬府中藩主・宗義和は重臣を急派し、開かれていない港での投錨の非を責め、速やかに退帆するよう抗議した。
 これに対してしかしビリリョフは、「船が難破して航行に耐えられないので、修理の為に来航した。」と回答した。
 まあ、それが嘘だとしても、「難破による止むを得ない停泊。」が理屈して分からなくはないのだが、ビリリョフは修理工場の設営資材や食料のみならず遊女まで要求した (←水兵の性犯罪予防の為、とでも言ったのだろうか?)。

参考地図:対馬

 の位置に注目。こんな入り組んだところまでやって来ておいてから、「故障」だの、「物資不足」だの、よく言ったものだ………。)


 そして三月四日、ビリリョフ一行は芋崎に(勿論無断で)上陸すると、兵舎の建設を初め、「船体修理」を名目に工場・練兵場まで建設し始め、芋附ン住を既成事実化しようとした。
 事態を重く見た対馬府中藩内では対応を巡って、二派に別れた。攘夷派と穏健派で、触れるまでもないと思うが、前者は武力での排撃を主張し、後者はこれに反対した。
 藩主義和は事を荒立てず穏便に解決しようと図ったが、一方で問状使をポサドニック号に派遣し、その不法を何度となく詰問した。
 しかしロシア側は回答を返さず、暗に優勢な武力をもって日本側を脅すように居直った。
 そもそもが領土化を図っていたロシアサイドの厚かましさはエスカレートし、住民を懐柔したり、物資(木材・牛馬・食糧・薪炭)を強奪したり、買収したりして、長期滞留に備えていった。
 更にロシア水兵は沿岸を測量し、島内で狩猟を行い、中には婦女子に乱暴を働く者まで現れ、激昂した島民達との間に紛争まで起きた。

 その間、ビリリョフ対馬府中藩に対し、「藩主への面会」・「芋崎の租借」を求めて来た。
 事ここに至って、自体は一藩では対処し切れないと踏んだ対馬府中藩は、ビリリョフに対しては面会要求を拒否しつつ、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰ぐこととした。

 そして四月一二日、短艇に乗ったロシア兵が大船越の水門を通過しようとした。
 これに対して対馬府中藩兵が制止すると、ロシア兵は発砲し、藩兵・松村安五郎が命を落とした。ロシア兵は更に郷士二名を捕虜として拉致し、軍艦に連行。この間、郷士・吉野数之助は捕虜とされることを良しとせず、舌を噛み切って自害した。
 ロシア軍の暴挙は更に続き、番所を襲撃して武器を強奪し、数人の住民を拉致し、七頭の牛を奪う始末で、翌一三日には水兵一〇〇余でもって大船越村で略奪を行った。もはや完全な暴徒としか言いようがなかった

義和はポサドニック号に対して、速やかな退去を要求しつつ、米・塩・薪炭を贈るという硬軟両面の対応を行い、藩士領民には軽挙妄動を戒め、一方で密かに沿岸に砲台を築造し事態に備えた。
 そして対馬府中藩からの報せを受けた長崎奉行・岡部長常は、対馬府中藩に対し紛争を回避するように慎重な対応を指示する一方で、不法行為を詰問する書をビリリョフに送り、佐賀、筑前、長州を初め周辺諸藩に実情調査を命じ、善後策を議論したが、明確な結論は出なかった。

 そして報告は幕府に届き、驚いた幕閣は箱館奉行・村垣範正に命じて、箱館の駐日ロシア総領事ヨシフ・ゴシケーヴィチにポサドニック号退去を要求させた。
 同時に外国奉行・小栗上野介忠順を咸臨丸で対馬に急派して事態の収拾に当たらせた。

 五月七日、小栗上野介は目附・溝口八十五郎等を率いて対馬に到着し、三日後にビリリョフと会見した。
 この会見にてビリリョフ対馬府中藩贈品に対する返礼と称して藩主への謁見を強く求め、小栗はこれを許可した。更に四日後の五月一四日、二度目の会談が持たれたが、そこで小栗はロシア兵の無断上陸を日露修好通商条約違反であるとして抗議した。
 更に四日後(五月一八日)、藩主との謁見実現を求めて来たビリリョフに対し小栗は、前言を撤回し、藩主との謁見は出来ないと告げた。そもそも、小栗は老中・安藤信正から「謁見は対馬居留を認めることになるので許可出来ない。」と言われたおり、謁見要求に応じるつもりはなかった。
 勿論(ことの経緯がどうあれ)、ロシア側にとってこれは一度認められたものが覆された訳だから、ビリリョフは「話が違う!」と猛抗議を行ったが、小栗は「私を射殺して構わない!」とまで言って交渉を押し切った。

そして翌々日(五月二〇日)、小栗は対馬を離れ、江戸に戻ると安藤に「対馬を直轄領とすること」、「今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと」、「国際世論に訴えること」等を提言した。
 だが、安藤はこの意見を受け入れず、為に小栗は翌々月に外国奉行を辞任した。

 結局、幕閣の一枚岩ならざる中途半端対応が祟り、義和は藩主謁見に応じざるを得なくなった。
 五月二六日、ビリリョフは軍艦を府中に回航し、部下を従えて藩主・宗義和に謁見した。謁見の場において、ビリリョフは「長期滞留の恩を感謝する。」として短銃、望遠鏡、火薬及び家畜等を献上し、一方で大砲五〇門の進呈や警備協力を見返りに芋崎の永久租借を要求してきた。
 義和は内容の重さから、幕府でないと交渉不能として要求をかわした。

 一方、小栗上野介を失った幕閣では、七月九日、イギリス公使ラザフォード・オールコックとイギリス海軍中将ジェームズ・ホープからイギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案され、安藤信正らと協議した。
 同月二三日、イギリス東洋艦隊の軍艦二隻が対馬に回航し、威を示しつつ、ホープはロシア側に対して厳重抗議した。だがその裏には、イギリスによる対馬租借という目論みがオールコックの腹の内にあった(本作に直接関係ないので割愛するが、この事件の直後、日英間には薩英戦争生麦事件といった深刻な事件が続発した)。

 そして安藤信正は再度、箱館奉行・村垣範正をして再度ロシア領事御シケーヴィチに抗議させしめ、ビリリョフの暴挙を黙認していたゴシケーヴィチも、イギリスが干渉して来ては形勢不利と見て、軍艦ヲフルチニックを対馬に急派し、ビリリョフを説得した。

かくして八月一五日、ポサドニック号は退去し、対馬はロシア水兵による脅威から解放された。



事件の日露交流への影響 このロシア軍艦対馬占領事件は本作で扱っている事件の中では余り有名ではない(ロングヘアー・フルシチョフ自身、拙間を新設する為に日露交流史を見直すまで知らなかった!)。
 それもこれもこの事件が直接結びついた出来事が後々に存在しないからだろう。

 結局、この事件は露英が互いを牽制し合う内に事が大きくなることを懸念したロシア側が退いたことで解決したが、日露両国ともに何も得るところはなく、かといって、(直接的な被害に遭った人々を除けばだが)外交上大きな影響を及ぼした訳でもなかった。
 強いて挙げれば、日本にとっては、ロシアを警戒し、イギリスに接近する遠因となったと云えようか?もっとも、その様な動きがはっきり現れたのは四〇年程後の話なのだが………。



不幸中の幸い 日本・九州と朝鮮半島・釜山の間に位置し、日本海と東シナ海の間に位置する対馬は日露以上に日韓・日朝交流において極めて重要な地である(実際に対馬の北端からは、稚内の北端からサハリンを望む以上に朝鮮半島が良く見える)。
 空路が発達していなかった時代、日本にとっても、朝鮮半島にとっても、航路上において対馬は無視出来ず、交易上も、対馬(及び領主の宗氏)は両国の玄関口を担った。だが、それは同時に日本が朝鮮半島とトラブルを起こした際には隣島である壱岐共々真っ先に板挟みとなり、巻き添えを食うことを意味した。

 一応、本作は日露交流が本題なので、朝鮮半島との関係は簡単に済ませるが、対馬は政治的にも、軍事的にも、治安的にも様々な襲撃を受けた(女真族による刀伊の入寇元寇の際の第一標的、倭寇退治を名目にした李氏朝鮮による襲撃(康応の外寇応永の外寇))。そして豊臣秀吉による朝鮮出兵時には無茶な降伏勧告を担わされた。
 第二次世界大戦後、現代にいたるまで対馬は直接的な襲撃を受けては無いが、日本が独立していないときに、大韓民国初代大統領・李承晩は「李承晩ライン」を宣言し、竹島のみならず、対馬まで韓国領とほざき(←勿論、そのことを打診したGHQには鼻で笑われ、相手にされなかった)。 この李承晩の暴論をたてに、李氏朝鮮が宗氏に「対馬王」の称号を贈った歴史をや、対馬に韓国人が多いことをたてに、偏狭な一部の韓国人(主に退役軍人らしい)は「対馬も韓国領。」と抜かしている(余談だが、「沖縄は中国領。」とほざいている中国人も主に軍人らしい)。

 後に日露戦争時に対馬はその沖合で日露領海軍が激突した(日本海海戦)ことからも、対馬の海上における要衝性は日露上においても大きいことが分かるが、逆にここまで振り返ると、これほどの要衝にあって、日露間のトラブルがこれ一件というのはまだ幸いだったと云える。
 ロシアにとって、日本・中国・朝鮮半島と海上交易を行うに当たって、不凍港・ウラジオストクは極めて重要な地である。首都圏からウラジオストクに向かう上で対馬に航路を塞がれたと仮定すると、ロシア艦は太平洋を大回りして宗谷海峡を通って向かわねばらず、時間的にも経費的にも物凄いロスとなる。

 かなり穿った物の見方だが、このロシア軍艦対馬占領事件を通じて、ロシアが対馬の重要性並びに租借・占領よりも友好の方が重いことを学んだと思いたいところである。

 そして、同時に、日本と海外との交流史―特に領土問題−を後世に活かす為にも、北方領土、沖縄、竹島、尖閣諸島の歴史もまだまだ一般には充分に浸透していないが、一度も他国領になったことがないとはいえ、対馬(や壱岐を初めとする島々)の歴史もまたもっともっとも学ばれるべきであると考える。

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平成三一(2019)年三月一一日 最終更新