第陸頁 日露戦争………人道の終わりと思い上がりの始まり

事件名日露戦争
発生年月日明治三七(1904)年二月八日〜明治三八(1905)年九月五日
事件現場大韓帝国仁川、清国旅順、遼陽、奉天、その他各地
下手人大日本帝国・ロシア帝国
被害者日露清韓の一般ピープル
被害内容戦没者:日本人・八万八四二九名、ロシア人・七万一四五三名
事件概略 日露戦争を事細かく論述すればそれだけ一つの大きなサイトになりかねない(←この表現、何度目だろう?)。それゆえ本当に概略に留めたいが、謂わば満州と朝鮮半島での覇権を巡って日露両国が衝突した戦争である。

 一応、日本人として日本側の大義名分について触れると、義和団事件に託けて清に出兵したロシア(←まあ、それは日本も同じだが)が事件後も満州に居座り、朝鮮半島にその勢力を伸ばさんとの動きを見せており、その動きは日本にとって重大な脅威だった。
 一応、当初こそ外交努力で戦争を避けようとしたが、ロシアが退く様子はなく、日露開戦に向けての動きは着々と進み、局外中立を宣言していた大韓帝国に対しては日韓議定書を初めとする諸条約を締結し、韓国における軍事行動を可能とし、同国の財政、外交に顧問を置き、条約締結に日本政府との協議を義務付けた(←下関条約で成立させた朝鮮の独立と完全に逆行している)。
 勿論、二年前に締結された日英同盟も開戦を睨んだもので、日本国内では主戦論が優勢となり、明治三七(1904)年二月六日、外務大臣・小村寿太郎は駐日ロシア公使ローゼンに国交断絶を言い渡し、ロシアでも同日、駐露公使・栗野慎一郎がラムスドルフ外相に国交断絶を通知した。

 そして二月八日に旅順口攻撃により戦端が開かれた。

 日本軍はまず海軍が第一・第二艦隊をもって旅順にいるロシア太平洋艦隊を殲滅・封鎖せんとし、第三艦隊をもって対馬海峡を抑え制海権を確保した。
 その後、陸軍は朝鮮半島、旅順、遼陽、沿海州各地のロシア軍を攻め立てた。

 海戦や、正面切っての陸戦ではロシア軍を押しまくった日本軍だったが、旅順要塞ではロシア側の堅固な防備と機関銃掃射の前に多大な犠牲を出し、第三軍の旅順攻め総大将・乃木希典も共に従軍していた二人の息子を失った。

 乃木は攻撃目標を変更し、一二月四日に旅順港内を一望出来る二〇三高地を占領したが、その後も要塞は落ちなかった。
 翌明治三八(1905)年一月一日にようやく東北方面の防衛線を突破して望台を占領したのを受けてロシア軍旅順要塞司令官ステッセル中将は降伏を決意し、同日夕方に降伏が申し入れられた。
 そして二月二一日から三月一〇日に日露戦争最大の陸戦となった奉天会戦にて両軍は大激突し、日本軍が勝利したが日露両軍ともに多大な犠牲を出した。

 局地戦等にて辛うじて勝利を重ねていた日本だったが、勿論大国ロシア相手の戦争は一歩間違えば亡国に繋がりかねない危険な橋渡りで、開戦前から戦争の終わらせ方については熟慮を重ねられていた(←それを怠った日中戦争太平洋戦争が大日本帝国を滅ぼしたのは周知の通りである)。
 大増税や対外債務を受けて尚、軍需物資的にも戦争継続が困難になっていた日本(←当時の額で一八億円も費やしたらしい)はアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトに和平仲介を依頼しており、ルーズベルトも承諾してロシアに和平交渉を打診したが、ロシア側はバルト海を発して間もなく日本近海に到着するであろうバルチック艦隊による大逆転を期待してこれを拒否した。

 そして五月二七日、日露両艦隊と激突した(日本海海戦)。
 三日に渡る激戦を経て、日本海軍は東郷平八郎元帥の読みが当たって、対馬沖に現れたバルチック艦隊を全力で迎撃し、東郷ターンが功を奏してバルチック艦隊を壊滅に追いやることに成功。七カ月に及ぶ航海の果てに目的地であるウラジオストクに辿り着けた艦艇はたった三隻だった。
 日本連合艦隊側の損失は水雷艇三隻のみで、近代海戦史上においても、文句の付け様がない大圧勝だった。
 さしものロシアもこの大敗、加えて国内における革命騒動もあって、和平に向けて動き出さざる得なかった。

 ルーズベルトは日本海海戦の後に外相小村寿太郎から要請を受け、六月六日に日本・ロシア両国に対し講和勧告を行い、ロシア側も一二日に公式に勧告を受諾した。
 この間、ルーズベルトは日本に有利な交渉の為にも樺太を占領しておくことを勧め、日本もそれに応じて七月に樺太全島を占領したのだから、ルーズベルトの仲介が決して中立な物ではなかったことが分かる。

 八月一〇日、メリカ・ニューハンプシャー州・ポーツマスの、イーストリバーほとりのホテルにて日本側全権小村寿太郎とロシア側全権セルゲイ・ヴィッテを中心に交渉が進められ、難航の果てに九月五日、ポーツマス講和条約が調印され、日露交流史上最大の犠牲者をもたらした日露戦争は終結した。



事件の日露交流への影響 満州へのアメリカ進出を警戒した日露両国は次第に接近した。明治四〇(1907)年、日露両国は第一次日露協約を締結し、相互の権益を保全するという合意を締結した。以降、日露関係はほとんど同盟状態に近いものとなった。
 しかしロシア革命の勃発によってこの関係は崩壊することになる。

 また日本がロシア皇帝ニコライ?世に対し宣戦布告をしないまま旅順港のロシア旅順艦隊を襲撃したことから、明治四〇(1907)年の万国平和会議では開戦に関する条約創設の討議が行われた。またハーグ陸戦条約の改訂が行われた。日本は双方に署名し、明治四四(1911)年年の第二次桂内閣期にて批准した。

 前述した様に、アメリカに対抗する為の日露接近だが、日露戦争前、ロシアの満州進出を懸念する米英は日本に好意的だったが、ルーズベルトが講和仲介の労まで取ってくれたのも、ちゃっかりアメリカの更なる国益を睨んでのことだった(←それ自体は悪い事ではない)。
 つまり、ロシアの勢力を満州から追い出した後、日本と合弁で満州鉄道の経営権を握らんとのもので、戦後日本はこの提案を拒絶し、北満州に勢力を残していたロシアと手を握ることとなった。謂わば、伊藤博文が重んじた満漢交換論が少し形を変えて実現したと取れなくもない。
 となると、日露両国の兵士はそれこそ何の為に死んだのやら…………。

 そして日露交流とは少し外れるが、日露戦争は世界各地に多大な影響を与えた。
 日本の(一応の)勝利に対し、欧米列強はそれまで以上に日本に一目を置くと同時に、それ以上に日本を警戒し、それまで見下していた黄色人種がこれ以上白色人種を脅かすことを良しとしない連中は「黄禍論」を唱えた。
 一方、欧米列強に虐げられていたアジア、アフリカ諸国には大きな希望を与えた。何せ、有色人種が白色人種に一撃を与えた初めての例となり、白色人種に虐げられていた人々にとって大変な快挙だった。
 異民族・清から漢民族の独立を勝ち取らんとした中華民国、オスマン帝国における青年トルコ革命、カージャール朝イランにおける立憲革命や、仏領インドシナ(ベトナム)におけるファン・ボイ・チャウの東遊運動、英領インドにおけるインド国民会議カルカッタ大会、オランダ領東インドにおけるブディ・ウトモ等にも影響を与えていた。

 それはそれで日本人としては誇らしいことで、保守的な書籍や教科書はこのことを大きく取り上げているが、日露戦争後の日本政府はアジア・アフリカ諸国の希望に反する動きに走ったことを見逃してはならない
 東遊運動に対して、日本はフランス政府の要請に応じて留学生を国外追放にした(フランスからの留学生引き渡し要求は拒絶したが)。
 また、辛亥革命を主導し、「中国独立の父」と言われた孫文も来日して日本に学んだが、その著書にて日露戦争に勝利した日本に対し、その勝利を讃え、日本がアジア独立の名手になることを期待する旨と、調子づいた日本が欧米列強同様の侵略者になることを懸念する旨とを併記したが、その後の日本が前者になったか、後者になったかは、わざわざ触れるまでもないだろう。

 白村江の戦い以来、対外戦争において敗北を知らなかった日本(薩英戦争下関戦争の様に、地方自治体が勝手にやった戦争は含みません)には、不敗神話の様な物があったが、大国ロシアに勝利したことがその威明を高めると同等か、それ以上の思い上がりを生んだ。
 勿論勝利と言っても、局地戦勝利と有利な講和による極めて辛うじての、痛み分けに近いものだった(おそらく、ロシアの歴史教育では日露戦争を敗北とは教えていないことだろう)が、多くの日本人は詳細な事情・内情を知らず、それが為に対露勝利に熱狂するとともに、戦勝国の筈なのに賠償金が一円も得られなかった講和条約に激昂し、日比谷焼き討ち事件まで起こし、政府は戒厳令を出した程だった。
 その「日本が負ける筈がない。」の想いは、やがてその後の戦争において軍人はおろか戦場となった地に住む日本人一般ピープルにすら降伏を認めない風潮を生み、「降伏」の概念がないゆえに相手国の降伏に対しても情を払わない悪しき風潮と、大量かつ無用の犠牲を生んでしまったのは歴史の皮肉としか言いようがなかった。

 そして講和会議において、日露両国は「永遠の有効」を誓ったのだが、和平交渉前にヴィッテが懸念していた様に、武力による外交問題の解決は日露・日ソ両国間にしこりを残し、その悪しき影響は今も両国を呪縛している。



不幸中の幸い 一つの国と国が敵対し、殺し合ったのだから、国際交流においてこれ以上の不幸はない。
 日露戦争は両国が領土的野心の果てにぶつかり合い、双方が退かなかったために武力に訴えた、両国にとって悪しき愚行だった。不凍港欲しさに南下政策という「侵略」としか言いようのない外交政策を推進していたロシア帝国は勿論、大日本帝国にも大義の無い戦争だった。
 古来、大日本帝国が日露戦争を戦ったことに対し、「ロシアの脅威から清・韓国を守る為で、東洋の平和のためにはやむを得なかった。」と唱える意見もあるが、ロングヘアー・フルシチョフはこれを認めない。
 満韓国交換論ポーツマス講和条約の第一条にも明らかなように、当時の日本は大韓帝国を支配下に置くことをすでに決意しており、「日本の安全」の為に朝鮮半島を自国勢力下に取り込んだ日本は、その次にはその朝鮮半島を守る為に「満州国」を立て、更にはその満州国を守る為に「冀東防共自治政府」を樹立し、そして冀東を守る為にシベリア・蒙古・東南アジアに攻め入らんとした。
 つまり、占領地を得れば、それを守る為にさらに外側に占領地を広げなければならないという、特撮房シルバータイタンに言わせると、「血を吐きながら続ける悲しいマラソン(by『ウルトラセブン』)に大日本帝国は足を踏み入れていた。恐らく、太平洋戦争で降伏に追いやられていなかったら、別の大敗を喫するか、地球全体を征服するまで、大日本帝国は戦争を辞めなかったことだろう。

 ただ、戦勝により思い上がりや暴走が生まれたのは後々の話で、この日露戦争における日露両国の将兵はまだ紳士的だった。
 旅順陥落に際し、旅順要塞の総司令だったステッセル将軍は要塞がまだまだ堅固なのに、周囲の要地を日本軍に占領されたと見るや、犠牲の小さな内に降伏を受け入れて無用の犠牲を避けた。  そんなステッセル将軍に感心した乃木希典は、(息子の戦死にロシアを激しく憎んでもおかしくなかったが)捕虜を丁重に遇し、ステッセル将軍には帯剣も許した。

 そして忘れてはならないのが、イルティッシュ号投降である。

 それは日本海海戦直後に島根県那賀郡都農村(現・島根県江津市和木)で起きた出来事だった。
 日本海海戦にてバルチック艦隊は壊滅に追いやられ、多くの艦艇が沈没したが、バルチック艦隊にて燃料搬送を担っていたイルティッシュ号もまた大打撃を受けていた。
 辛うじて戦線を離脱し、ウラジオストクを目指したイルティッシュ号だったが、ますますひどくなる浸水を前にもはや沈没は免れないと判断し、都農村の北上二海里(約3.7?)の地点で六隻のボートに分乗して艦外に脱出した。

 海岸を目指したボートは白旗を掲げて戦闘の意志がないことを示しながら近づいて来た。この時、都農村の村民達は村長の家しか新聞を取っておらず、当時の新聞も(戦時ということもあって)情報の伝達は現代より遥かに遅かったため、日露戦争の勃発は知っていても、日本海海戦の勝敗は疎か存在さえ知らず、海岸に集まった村民達は荒波に漂う敵国兵の姿に不安の色を隠せなかった。

 だが、白旗を掲げているのに気付き、日本海の荒波の前に沿岸付近で立ち往生する様子に気付いた現地の中学校教諭の一人が褌一丁になって海に飛び込むと、大音声で自分の元にボートを寄せるよう告げると、他の若者達も次々と海に飛び込んで救助に協力する姿勢を見せた(←日本人は良くも悪くも最初の一人が動き出すのが重要だ)。

 村民達が自分達を助けてくれると確信したロシア海兵達は、村民達の厚意に応えるべく、それまで携行していた銃器を次々と海中に投じて、武装を放棄した
 そしてボートが海岸近くまで来ると、村の男達はロシア水兵の上陸に肩を貸し、その間、村の女子供達も海水に濡れたロシア兵の体を温める為に焚火を焚き、薪を集めて回っていた(←体が濡れることをなめてはいけない。体がずぶ濡れ状態で一晩屋外にて眠れば真夏でも凍死する可能性は大で、対馬丸事件に遭遇した学童の中にも救命ボートの中で凍死した者が何人もいた)。

 かくして艦長以下二三五名のロシア兵の命が救われた。
  救助の翌日、イルティッシュ号は沈没。この間も村民達は薪や衣服や粥を与えてロシア兵の介抱に務め、重傷者一三名は二つの小学校に収容された。その後、同日の内に警察からの通報を受けた浜田第二一連隊が駆け付け、ロシア兵達は全員捕虜として連行された。
 ロシア兵達は村民の厚意に感謝し、携行していたウォッカや氷砂糖を渡してささやかながら村民達の厚意に応えた(←こんな時でも酒を手放さないロシア人、大好き(笑))。

 イルティッシュ号の海兵達は、海岸に向かう途中、ボートの先頭に白旗の他に、ロシア国旗と赤十字旗を掲げていた。その赤十字社の創設者であるアンリー・デュナンの名言に、 「武器を捨てれば敵も味方もない。人類は皆兄弟。」というものがある(←敵兵の介抱・看病に反対する者に言った台詞らしい)。
 この名言が当時の日本にどれだけ浸透していたかは分からないが、都農村民のこの善行は日本人として誇っても良いだろうし、兵達の安全に配慮し、脱出・白旗掲揚・武器放棄を指揮した艦長もまた立派だったと云えよう。
 この日露両国の戦時ながら、紳士的な心を失わなかった姿勢が僅か四〇年後には失われていたことは誠に残念でならない(戦争に至ったことを含め)。
 自国への愛国心で汲々とする日本人の中には、「日本人の名誉」を守る為に、南京大虐殺バターン死の行進平頂山事件といった日本軍人の悪行を否定したり、真珠湾奇襲従軍慰安婦問題に妙な弁護したりする者がいるが、それ等痛ましい事件や悪事を否定せずとも、このイルティッシュ号投降を初め、日本人が国境・国籍の壁を越えて傷ついた人々の為に尽力した数多くの善行に裏打ちされた「日本人の名誉」は些かも揺るがないし、悪行を否定しなければ守れないと考えてるとしたら、そんな奴等こそ「日本人の名誉」を汚しているとロングヘアー・フルシチョフは考えるのである。


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令和元(2019)年五月三一日 最終更新