第漆頁 シベリア出兵………社会主義を迷走させた外圧

事件名シベリア出兵
発生年月日大正七(1918)年八月〜大正一一(1922)年一〇月
事件現場シベリア
下手人日本(withアメリカ、イギリス、フランス、イタリア)
被害者日ソ両国の兵士、シベリア住民
被害内容 戦死、戦傷、略奪、暴行、派生事件多し
事件概略 ロシア革命で誕生した共産主義政権を潰さんとして日米英仏伊等の国々が武力介入したもの。
 勿論内政干渉でさえ本来は不当介入である。それも武器を持って他国の軍隊が云い分を通そうとするのだから、ソビエト連邦(武力介入開始時点ではまだ正式に発足していないが)にとっては戦争を吹っ掛けられたに等しく、勿論武力で抵抗した。
 出兵国も殆ど戦争であり、本来は不当な武力介入であることは百も承知だったので、「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する。」と云う大義名分を掲げたが、これが大義名分になっていなかったのは、この事件に関してチェコが出兵国に感謝した形跡をついぞ見たこともないことからも明らかだろう(時代も状況も異なるが、湾岸戦争時における日本が世界の国々から「金だけ出して人は出さない。」と批判されたケースでもクウェートは後々日本に感謝し、東日本大震災の時には真っ先に石油の供与を申し出て来た)。

 共産主義の壊滅以外にも、帝国時代の外債と、露亜銀行などのさまざまな外資を保全する狙いもあり、はっきり云って闇金の取り立ても真っ青である。

 殊に日本にとっては、極東から旧ロシア勢力を駆逐出来れば云うことなしで、出兵参加国中最大の七万三〇〇〇人の兵士、四億三八五九万〜九億円とも云われる戦費を投入した。
 戦死者は三三三三人〜五〇〇〇人に達し、はっきり云って、これは戦争だった

参考:他の出兵国兵力
アメリカ七九五〇人
イギリス一五〇〇人
カナダ四一九二人
イタリア一四〇〇人

 日本以外の国が出した総兵数の何倍もの兵を送ったのだから、武力介入の域を超えているのは明らかである。
 勿論、ソビエト・ロシア側の兵力・死者・損害も甚大で、詳細は不明だが、八万人以上の死者、六億ルーブルの損害が出たと推測されている。

 直接のきっかけとなったのは、革命により、旧ロシア帝国に成り代わったウラジミール・レーニン率いるボリシェヴィキ(ロシア語で「多数派」の意)政権は単独でドイツ帝国と講和条約を結び(ブレスト=リトフスク条約)、第一次世界大戦から離脱した。
 これによりドイツは東の憂いがなくなり、東部戦線の兵力を西部戦線に集中したため、英仏の連合国軍は苦戦を強いられた。
 そこで連合国はドイツの目を再び東部に向けさせ、同時にロシアの革命政権を打倒することも意図した干渉戦争を画策し、ロシア極東のウラジボストークに「チェコ軍捕囚の救出」を大義名分に出兵せんとした。

 勿論、既に西部戦線で苦戦中の英仏に大部隊をシベリアへ派遣する余力はなかった。その故、ウラジボストーク・シベリアと地理的に近く、第一次世界大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに出兵の主力を担ってくれるよう打診した。
 日本政府内には、「米英の思惑に関係なく日本が主体的且つ大規模に出兵を断行すべし。」とする積極論(主な論者は参謀本部本野一郎 (外相)、後藤新平 (内相)等)と、「対米協定による出兵を行うべし。」とする消極論(主な論者は元老・山県有朋、憲政会総裁加藤高明、立憲政友会総裁原敬等)の二論があったが、結局は対米協定に基づく妥協案が形成され、出兵に踏み切った。

 いずれにしても出兵自体は、政府閣僚は大いに乗り気だった。
 ロシア帝国に取って代わる新政権を潰すなり、弱体化せしめるなり出来れば領土拡大の絶好の好機となるし、社会主義を敵視する当時の大日本帝国政府としては、ロシア帝国が社会主義国になれば、日本の勢力の及ぶ満州や日本領となっていた朝鮮半島・南樺太が社会主義国と国境を接することになり、その影響が日本国内に浸透してくるとの懸念もあった。

 首相・寺内正毅はウラジボストークに親日的な傀儡政権を樹立するよう、参謀本部第二部長中島正武(少将)に命じた。
 そして米軍と歩調を合わせる為、最初の兵力は八〇〇〇人に留め、大正七(1918)年夏に出兵するや日本軍はウラジボストークへ上陸し、続いて他国軍も到着した。ただ出兵の云い出しっぺである英仏は前述通り欧州での西部戦線に兵力を割かれていたのでそれ程兵力は多くなく、これを見た日本は米国との協定を破って三万七〇〇〇の兵を送り込んだ。

 しかし、同年一一月、ドイツの降伏で第一次世界大戦が終結すると、連合国はシベリア出兵の目的(=大義名分)を失い、大正九(1920)年には相次いで撤兵したが、日本軍は単独で駐留を続行した。
 日本陸軍は当初の「ウラジボストークより先に進軍しない。」という規約を無視し、ボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者・農民から組織された非正規軍のパルチザンと戦闘を繰り返し、北樺太、沿海州や満州を鉄道沿いに侵攻した(←利権目的丸出しである)。
 やがてシベリア奥地のバイカル湖東部までを占領し、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大し、傀儡政権の樹立まで画策したが、さすがにここまでの侵攻強行にはロシアのみならず、他の出兵国からも領土的野心を疑われた(というか、それしか考えられなかった)。

 勿論、ボリシェヴィキ政権も黙ってやられていた訳ではない。如何なる背景であれ、武器を持って国境を越えて不当に乗り込んでくる者を迎撃するのは立派な権利である(日本国憲法施行下の現代日本国とて例外ではないと思っている)。
 前述した様に、赤軍やパルチザンが日本軍を迎撃した。兵力で劣る彼等は遊撃戦を展開し、ゲリラ攻撃とシベリアの厳寒の前に日本軍は次第に苦戦し、交通の要所を確保するのが精一杯の状態に陥った。
 これに対し、日本軍はパルチザンが潜む可能性が有る村落への懲罰攻撃を行った。勿論、「可能性」は日本軍の独断と偏見で見込まれるのだから、攻撃を受ける村落にしてみれば云い掛かりで攻撃を受けるに等しい
 実際、日本軍の懲罰攻撃とは村落への焼き討ちで、疑惑で街を焼かれた地元民の被害は洒落になっていなかった。

 時代も舞台も異なるが、日中戦争における、所謂南京大虐殺を否定する人々の中には、虐殺行為を「便衣兵(ゲリラ)の掃討で、問題なし!」と主張する人々がいるが、仮にゲリラ掃討を認めたとしても、実際にゲリラと何のかかわりもないのに疑惑と思い込みで焼き討ちされたり、略奪されたり、殺害されたりする地元民は堪ったものじゃなく、とんでもない戦争犯罪であることに変わりはないと思う。
 いずれにせよ、このシベリア出兵以後の日本軍の蛮行は、戦時下にも仁義を持っていた日露戦争以前の日本軍と比べて恥ずかしい限りである。
 戦場となった各地の、一つ一つの例には触れないが、これは文章的に長くなって書き切れないと云うのもあるが、残酷過ぎて書くのが辛くなると云うのもある。

 一応、社会主義勢力と敵対するに際し、あくまで建前上は侵略を否定して大義名分を振りかざす意味でも、出兵軍は反革命派のアレクサンドル・コルチャーク政権を後押ししていたのだが、大正八(一九一九)年には対赤軍戦の敗北が決定的となり、翌大正九(1920)年にはコルチャーク政権は崩壊した。

 これを受けて日本政府内にも撤退機運が強まった。
 殊に一般兵士にあっては大義名分も曖昧で、戦意の上がらぬこと甚だしく、軍紀も乱れまくっていた。
 親日政権・傀儡政府樹立の為に、現地人に対して侵略を否定し、ロシアの為に働いていることを訴える宣撫工作も為されたが全く信頼されず(←当たり前か……(苦笑))、厳寒とゲリラ攻撃の中で尼港事件(詳細は次頁)の様な痛ましい事件も相次いだ。
 加えて、出兵軍内の軍紀の乱れ(←というか、チンピラ化と云って良い)は軍上層部でも問題となり、軍紀引き締めを図るも効果は上がらず、治安当局は帰還兵士の言動にも厳重な監視の目を光らさなければならない有様だった。

 そんな状況悪化の中、大正一〇(1921)年のワシントン会議の場にて、全権を務めていた海軍大臣・加藤友三郎は条件が整い次第、日本も撤兵することを参加国に対して約束した。
 既にシベリアに留まっていたのは日本軍だけで、領土的野心も、戦場での頽廃振りも世界から白眼視されており、直後に内閣総理大臣となった加藤は大正一一(1922)年六月二三日の閣議で、同年一〇月末日までの沿海州からの撤兵方針を決定し、翌日、日本政府声明として発表した。
 その後、撤兵は予定通り進められ、益なきシベリア出兵は終結した。



事件の日ソ交流への影響 様々な意味で最悪の一言に尽きる
 ただでさえ日米英仏伊のやった武力介入は悪質な内政干渉で、如何なる大義名分があろうとシベリア住民を初めとするロシア民族にとっては武器を持ってやってきた乱暴者でしかなかった。
 仮に日米英仏伊軍がボリシェヴィキ政権を壊滅させ、ロシア帝国が復活したり、別の民主的な共和政が成立したりしていたとしても(←出兵国の利害を考えたらとてもそうなるとは思えんが)、出兵国は政権樹立した新政府に何某かの見返りを求めただろう。
 そんな下心丸出しの武力介入が感謝されるわけないし、その過程で戦災・略奪・放火・暴行の被害に遭ったシベリア住民が出兵国に好感情を抱く筈がない(←現代人も決してこのことを笑えない。欧米人・日本人の一部は割譲・租借という名の侵略によって得た地を(己の利益の為に)開発したことに対して、「発展させてやった!」と云う上から目線居直りを繰り返して、現地人の怒りを買っている)。

 実際、日本軍はシベリアからは撤退したが、日ソ基本条約が締結されて正当な国交が結ばれるまで北樺太に居座り続け、同条約で北樺太における鉱業資源の権益を得てやっと撤退に応じた。これをどう云い訳すれば「侵略していない。」と云えるのか?
 ともあれ、同条約締結によって、一応はポーツマス講和条約締結時点の日露関係に立ち返った日ソ関係が同意されたが、この間における日本から受けた被害をソ連人が何とも思わなかったとしたら、ロシア人は世界一の御人好しである(←勿論、「そんな訳あるかい!」という意味で云っている)。

 ともあれ、こんな黒歴史が後々の両国関係に悪しき影響を残さなかったとは考えられない。
 少し拡大解釈になるが、日ソ基本条約日ソ中立条約が締結され、第二次世界大戦中も際まで(表面上とはいえ)友好を保った日ソ両国が中立条約を踏み躙った戦いを展開し、戦後も(日本がアメリカ陣営に属したとはいえ)領土問題・漁船拿捕・数々のスクランブル・冷戦対立の悪影響を引きずり続けたのも、このシベリア出兵が建国したばかりのソ連の人民に対日悪感情を植え付けたことが遠因になっている様に思われてならない。

 同時に、拡大解釈ついでに、ソビエト連邦という国家並びに共産主義諸国が資本主義・自由主義諸国と東西冷戦対立を長く続けたのも、このシベリア出兵がきっかけとなっている様にロングヘアー・フルシチョフには思われる。
 少し話は逸れるが、少年の頃、道場主はフランス革命で市民が絶対王政を倒した筈のフランスが王政以上の専制君主制である帝政に陥ったことや、労働者や農民の為の革命を成し遂げた筈のソビエト連邦を初めとする共産主義諸国で基本的人権が抑圧され、農民・工員の勤労意欲が乏しくなったことを不思議に思っていた。
 長じて、その要因と考えたのが「外圧」である。
 フランス革命でシトワイエン(市民)によってブルボン王朝が倒れることに危機感を抱いた周辺の絶対王政体制諸国はフランスに武力介入した。それゆえ、外圧を退ける為に共和制なったばかりのフランスは強力な軍事力を必要とし、その軍事力は外圧を跳ね返した後に力を国内に向け、結果、ナポレオン・ボナパルトによる第一帝政が成立し、帝政を別にしても政敵同士が相手をギロチンに掛け合う恐怖政治下の地獄のような時代となった。

 ここで話が戻るが、同じ流れがロシア革命からシベリア出兵にもあったとロングヘアー・フルシチョフは見ているのだ。
 共産主義勢力(ボリシェヴィキ政権)による大帝国(ロシア帝国)の崩壊は、共産主義を敵視する周辺国家にとっても脅威だった。それゆえ、日米英仏伊は自国に共産主義が波及するのを防ぐべく、武力介入した。当然ボリシェヴィキ政権は黙って潰される訳にはいかず、武力抵抗(←全くもって当然の権利である)し、外圧を跳ねのけた後もそれまでの不安から武力の拡大に走り、軍国主義化し、労働者の権利よりも国家体制を優先する人権抑圧国家になってしまい、後々誕生した世界各地の共産主義国家もこれに倣ってしまった。

 歴史に禁物である「if」を語るが、仮に共産主義を敵視するにしても、他国への干渉を良しとせず、自国の内部を固め、経済体制が異なっても平和交流が出来る体制がロシア革命直後にソ連と世界の間に成立していれば、ソビエト連邦は軍拡よりも労働者の権利と幸福を追求する真の共産主義を実践し、周辺国も対ソ軍拡の必要が軽減し、第一次世界大戦後にようやく生まれた民族自決基本的人権を重んじる流れにも真面目に取り組まれたのではなかっただろうか?
 まあ、当のソビエト連邦にも、武力を用いてでも世界中に共産主義を広めようとする(極めて独善的な)思想勢力もあったので、シベリア出兵がなかっただけで世界に脅威を与えたソビエト連邦にならなかったという確証はないのだが。

 結論、外圧は決していい未来を生まない。ロングヘアー・フルシチョフ個人的に現代の世界にも国民の人権を蹂躙する好ましからざる国家が幾つも存在するが、それ等の国々が如何に悪しき体制を持っていても、その打破はその国々の国民の手によってなされれべきと考えている(それらの国々が国境を越えて危害を加えに来た場合は徹底的に叩けばいいと思っているが)。
 何処の国とは云わないが、民衆が痩せ細っているのに三代も続く最高権力者が肥え太り、糖尿病や痛風丸出しの状態が七〇年も続いているの状態を、いい加減彼の国の人々は甘受し続けずに立ち上がってはどうか?と思う日々である(←力の問題はあるだろうけれど、それでも七〇年はのさばらせ過ぎ)。



不幸中の幸い シベリア出兵以前の外務大臣を務め、撤兵後に日ソ基本条約が締結された大正末期から昭和初期の内閣総理大臣を務めた加藤高明をして、「何一つ国家に利益をも齎すことのなかった外交上稀にみる失政の歴史」と云わしめた失政中の失政で、兵士による蛮行も情ない限りだったシベリア出兵だったが、そんな中にも「一服の清涼剤」的な日本軍による善行が一つだけあった。

 それはポーランド孤児の救済であった。
 かつて、ロシア帝国はポーランド人政治犯等を多数シベリアへの流刑にしていたため、ロシア革命当時のシベリアには相当数のポーランド人がいた。  そして革命の混乱と、同年のポーランドの独立によって、多数のポーランド孤児がシベリアに取り残されたが、その保護の為に力を貸す国はなかった。
 その惨状を知った日本は日本赤十字社を中核としてシベリア出兵中にポーランド孤児を救出し、彼等を祖国に帰還させた。大正九(1920)年七月に第一次救済が、大正一一(1922)年八月に第二次救済が為され、これによって約八〇〇名のポーランド孤児が祖国への帰還を果たした
   愚かなで無益な侵略行為の最中に起きたこととはいえ、さすがにこのことはポーランド政府から感謝され、大正一四(1925)年、ポーランド政府は孤児救済に尽力した日本軍将校五一名に対し、ヴィルトゥティ・ミリターリ勲章を授与して、その功績を謝した。
 これがあったからと云ってシベリア出兵を肯定する気には全くなれないが、純粋にポーランド人達が祖国帰還することが叶い、日本にとって感謝される行為となり、ソビエトにとっても旧帝国の残した悪行を取り払えたことは良かったと云えよう。それで厳寒の地に無益に散った日本兵や、戦災に見舞われたシベリア住民の無念が軽減されるかどうかは分からんが。


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令和五(2023)年九月二一日 最終更新