第捌頁 尼港事件………住人ほぼ全滅の大虐殺!

事件名尼港事件(にこうじけん)
発生年月日大正九(1920)年三月〜五月
事件現場アムール川河口・港町ニコラエフスク(日本名・尼港)
下手人ヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリャピーツィン率いるパルチザン
被害者日本人(日本軍・在留邦人)約七〇〇名、資産階級ロシア人数千名
被害内容略奪・虐殺
事件概要 ロシア革命によりロマノフ朝ロシア帝国が倒れ、社会主義国家が形成を巡ってソビエト連邦が樹立途上にある中、シベリア出兵(前頁参照)に派生した起きた陰惨な事件。
 共産主義政権の成立に伴い、自国に共産主義の影響が波及することを懸念した周辺国はボリシェヴィキ政権に武力介入したため、ロシア各地はところによって無政府状態でもあった。

 そんな状況下の大正九(1920)年三〜五月、アムール川河口の港町ニコラエフスク(和名・尼港)で、駐留していた日本軍在留邦人約七〇〇人、資産家階級のロシア人数千人がバルチザンに虐殺されたという大事件・尼港事件が起こった。



 港が冬期に氷結して交通・通信が遮断されたニコラエフスクを、パルチザン部隊四三〇〇名(ロシア人三〇〇〇名、朝鮮人一〇〇〇名、中国人三〇〇名)が占領し、住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。
 総合的な犠牲者数は総人口の約半分、六〇〇〇名を超えるとも云われ、日本人居留民日本領事一家駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。
 内、日本人犠牲者の総数は判明しているだけで七三一名に上り、ほぼ皆殺しにされ、建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となった。この無法行為は、結果的に日本の反発を招いてシベリア出兵を長引かせた(以下、事件の概要は『ニコラエフスクの破壊』の著者であるロシア人ジャーナリスト・グートマンの見解を参考の主体としています)。

 背景は「建前・チェコ軍救出、本音・共産党政権の打倒」であったシベリア出兵にあった。
 既に大正七(1918)年末には、ドイツ軍と連合国軍との間に休戦協定が成立し、チェコスロバキアも独立を果たしたことで、シベリア出兵の前提は崩れていた。
 それゆえ日米英仏の戦闘目的は、反ボリシェヴィキから反革命派によるロシア統一の後押しにシフト。列国は反革命派にして、旧ロシア帝国海軍提督アレクサンドル・コルチャークによる暫定政権を支援した。

 件のニコラエフスクでは、サハリン州(←当時、ニコラエフスクはサハリン州に所属)全体でも三〇〇人程に過ぎなかった赤軍が日本軍の上陸によって追われ、程なくコルチャークによる臨時ロシア政府に代わっていた。
 それゆえ、事件直前の治安維持は白衛軍系の守備隊と日本軍が協力して当たっていた。

 事件経過だが、大正八(1919)年一一月、ハバロフスク地方アナスタシエフカ村で、沿アムール地方パルチザン部隊指揮官協議会が催された。
 この会において、ソビエト権力復活の為に、アムール川下流地帯へのパルチザン部隊派遣が検討され、指揮官にはヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリャピーツィンが任命された。
 トリャピーツィンは、二ヶ月余り諸村を巡って人員を募り、一月半ばにアムール河口のニコラエフスクを包囲したときには、四〇〇〇人以上の部隊に膨れ上がっていた。

 そんな状況下で、大正八(1919)年末一〇月頃から、パルチザンが行動を開始し出した。
 同年一〇月にハバロフスク・ニコラエフスク間のロシアの電線を遮断された。このため、街と外部との連絡は、日本海軍の無線電信に頼るのみになっていた。

 一一月にコルチャーク政権が崩壊。白軍は求心力・勢力を低下し、ニコラエフスクにおいても、近郊の村々が次々に占領されていたが、白軍の反撃はことごとく失敗に終わった。
 白軍司令部は、日本軍の支援なくしてパルチザンに抗し得ないことを悟ったが、大正九(1920)年一月には極東の指令本部があったウラジオストクでも政変が起こり、同地にて日本軍が白軍を支持しなかったため、日本軍との関係も微妙なものになっていた。市内においても、港湾労働者などを中心に、パルチザンの到来を待つ人々も増えてきていた。

 明けて大正九(1920)年一月九日、アメリカがシベリア出兵からの単独撤兵を通告。その後一ヶ月間に革命派の勢力はニコリスク、ウラジオストク、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスクの反革命勢力を倒し、それぞれに地方政権を掌握した。
 白軍の弱体化により、ニコラエフスク市内の治安維持は、名目上は白軍司令官メドベーデフ大佐だったが、実質的には日本軍が担うことになり、翌一〇日には、夜間外出禁止令などが布告され、戒厳に近い状態となった。
 これらの動きを受けて日本軍は一月一七日付の陸軍大臣指示により中立姿勢を取ることになったが、不穏な情勢の中、それまで反革命側に肩入れしてきた現地日本軍は困惑した。

 同月二三日、三〇〇人程のパルチザン部隊が、氷結したアムール川の対岸から、ニコラエフスク襲撃を開始。日本軍はこれに応戦し、手強いと見たトリャピーツィンは翌二四日にオルロフを使者として日本軍守備隊を訪れさせ、ニコラエフスクの明け渡しを申し入れた。
 だが守備隊は、「このパルチザンは強盗団である」という認識から、白軍の求めに応じて、白軍探偵局へオルロフを引き渡した。白軍は、引き取ったオルロフを殺してしまった(オルロフ殺害の状況は諸説あって今も不明)。

 二八日にパルチザンによる攻撃が再開。町の入り口で守備の要衝でもあったチヌイラフ要塞が攻められた。既に白軍に要塞に回す兵力はなく、日本軍が守備していたが、翌二九日に要塞と町の間の電線がパルチザンによって切断され、二月五日に要塞は陥落した。
 要塞を占領したパルチザンは七日に海軍無線電信所を砲撃し、電信室が破壊され、ニコラエフスクと外界との連絡網はすべて断たれた。
 最後の無線連絡で、事態を知った陸軍当局は、ニコラエフスクへの増援を検討したが、各地で不穏な情勢が続き、ウラジオストク、ハバロフスクともに兵員の余力が無く、本土から増援部隊を送ることとした。しかし艦隊による増援は堅氷に閉ざされて上陸は不可能。結局、陸軍の増援は延期された。

 同月二一日、トリャピーツィンは再び使者を日本軍守備隊に寄越し、開城を迫った。同時にハバロフスクの日本軍無線電信所にもニコラエフスク守備隊への降伏を促すよう迫った。
 しかし陸軍当局は、戦闘はパルチザン側から手を出したもので、守備隊は正当防衛をしているに過ぎず、非はパルチザンにある、として、ウラジオストクの守備隊に、パルチザンに攻撃中止、日本守備隊の無線電信復旧に努めるよう要請させた。

 ニコラエフスクのロシア人指導者及び地方首長達は、トリャピーツィンの手紙を検討し、市民の命の安全と町の繁栄保持を条件に、赤軍との交渉を始めることを決めた。
 ロマロフスキイ市議会議長、カルペンコ市長、ネムチノフ大尉が使者となり、トリャピーツィンが本営を構えていたチヌイラフ要塞に向かった。トリャピーツィンは彼等を使者と認め、以下のような条件を提示した。

一、白軍は武器と装備を日本軍に引き渡す。
二、軍隊と市民の指導者は、赤軍入城までその場に留まる。
三、ニコラエフスクの住民にテロは行わない。資産と個人の安全は保障される。
四、赤軍入城までの市の防衛責任は、日本軍にある。赤軍入城後も日本軍は、居留民保護の任務を受け持つ。

 市の指導者達は、これを受け入れる方向で動いたが、白軍は「赤軍は必ず裏切って、合意は破られる。」と主張して、開城を受け入れず、最終的な判断は、日本軍に委ねられた。
 同月二三日、パルチザンの無線を通して、白水師団長から守備隊長の石川少佐宛に、日本人居留民の安全が脅かされない限り、平和的解決に努めるよう指令し、石川は海軍と相談し、二四日から停戦に入り、パルチザン部隊と講和開城の合意が成立した。

 同月二七日、市民代表団赤軍の間で、開城合意文書が調印された。同日夕刻の報告会にて、市議会議長コマロフスキイが、開城に当たっての条件に関して市民に報告した。
 代表団のメンバーは、メンシェビキ及び社会革命党だったが、このとき、政治的に相容れないはずのボリシェヴィキ革命の勝利を、心から歓迎していた。一方、白軍のメドベーデフ大佐は、合意文書調印の夜、日本軍の本部を訪れてこれまでの謝辞を述べ、自宅に帰って自決した。参謀長スレズキン諜報機関将校二人も、メドベーデフ大佐同様自らの命を絶った。

 同月二八日正午、パルチザンがニコラエフスク入城。直後、パルチザン部隊は、資産家の自宅や公共施設、アパートなどを接収・分宿し。トリャピーツィンは、赤軍司令部によって、自身がニコラエフスク管区赤軍司令官に任命されたと宣言した。
 続いて全公共機関に監視員が派遣され、印刷所が接収され、町の新聞はすべて発行禁止となった。同時にすべての職場で労働組合を組織することが命令され、これに拒否的な反応を示した者は、「人民の敵として抹殺される。」と発表された。更に公共機関、ビジネス界で重要な地位にある市民達の資産没収、逮捕が発令された
 最初の逮捕者は、四〇〇人を超え、白軍の将校、兵士や出入り商人、企業家、資産家、立憲民主党員、公務員、知識人、聖職者、個人的にパルチザンの恨みを買っていた者など、女性も年少の者も区別無く投獄され、拷問に遭い、処刑された者も多数に上った
 各種産業も国有化が開始され、その名の元に投獄・資産没収が行われ、新たに組織された徴発委員会が個人宅に押し入って金銭、貴金属類などを収奪し、それに便乗した私的な略奪も横行。ニコラエフスクの住人は、恐怖に陥った。

 これらの開城条件を完全に反故にした横暴な占領政策に対して、三月一二日未明、日本軍が決起した。
 日本軍は、決起の趣意を「日本軍パルチザンとの間に協定を結び、白軍を虐殺しないこと、としていたが、パルチザンは約束を破って惨殺した。またパルチザン部隊は、ニコラエフスク市内で朝鮮人、中国人を集めて部隊を編成し、革命記念日に日本軍を抹殺するとの風評が流れた。三月一一日午後になって、日本軍は武装解除を求められ、しかも期限を翌一二日正午と通告されたので、自衛上、決起した。」と述べている。

 だが、二日間の戦闘を経て、日本軍は敗れ、四〇〇名近い日本軍守備隊は全滅した。
 日本軍決起鎮圧直後、トリャピーツィンは参謀長ニーナ・レペデワ・キャシコと連名で、各地に声明文を打電。トリャピーツィンは、日本軍との友好関係を、
日本軍将校達は、頻繁に我々の本部を訪れて、仕事をする以外に、友人であるかのように議論に加わったり、ソビエト政府に対する賛同を表明したり、自分達をボリシェヴィキと呼んでみたり、赤いリボンを服に着けたりしていた。彼らは、武器の供給であるとか、その他可能なあらゆる方法で、赤軍を援助すると約束した。しかし、後に明らかになるように、それは、計画していた裏切り行為を隠蔽するために、彼らが被った仮面に過ぎなかった。」
 と宣伝し、あくまで日本側が開城に伴う講和を裏切ったとした。

 戦闘とその経過は凄惨なもので、石川少佐が倒れ、同日夕刻に三等主計の指揮のもと、兵営に帰り着いた生存者一三名に過ぎなかった。
 パルチザンは負傷兵三名が身を寄せたスヤマ歯科医に迫ると、大家のアヴシャロモフ一家を追い出して家に火を付け、爆弾を投げ込んだ。外に飛び出した日本兵は殺害され、歯科医は爆弾で首を吹き飛ばされ、夫人は焼死した
 リューリ商会とスターエフの事務所に宿営していた中国人、朝鮮人からなるパルチザン部隊の攻撃を受けた後藤隊は、狙撃や手榴弾投下を受け、辛うじて生き延びた三〇余名がアムール河畔の憲兵隊に合流する有様だった。

 翌一三日、中国軍砲艦による砲撃で日本軍兵営が徹底的に破壊された。
 水上隊は包囲を突破して兵営に帰ることに決めて突出し、水上大尉は戦死したが、二〇名程は河本中尉の指揮で無事帰り着いた。海軍部隊も攻撃に出た者は殆どが倒れ、僅かな人数が領事館に帰った。

 翌一四日早朝、パルチザン部隊は、日本領事館を包囲すると火を放ち、中国軍から日本軍を砲撃するためとして貸与された艦載砲とガトリング砲で攻撃した。
 グートマンによると、石田領事は、領事館前の階段に現れて、「領事館とここにいる人は、国際法によって保護されている。そして、領事館は、不可侵である。」と説得を始めたが、それを黙殺するように一斉射撃が浴びせられ、石田は血塗れで倒れた(グートマンは、生き延びた領事館の使用人が、「領事妻と子供を射殺し、火を放って自殺した。」と語ったとも記している)。程なく、領事館は災に包まれた(石田が火を放ったとも、パルチザン部隊が投げた手榴弾によるものだとも、云われている)。

 領事館を守護していた海軍無線電信隊は、全員戦死。石田の妻子領事館にいた在留邦人も、すべて死亡した。
 領事館が焼け落ちた後、生き残った日本兵は、守衛の為に兵営に残っていた者、帰り着いた者を合わせて、およそ八〇人余りだった。女性を含む民間人も一三人程が兵営に逃れてきていて、共に立て籠もっていた。また、アムール河畔の第二陸軍病院分院には分院長内田一等軍医以下八人、患者一八人がいた。
 結局、決起に伴う戦闘で、日本人居留民のほぼ全員が惨殺された。一方、パルチザン側は日本軍による攻撃で、参謀長ナウモフが死に、トリャピーツィンも足に負傷を追ったが、ニーナ・レベデワに助けられて逃げた。

 一七日夕刻、パルチザン側から、ハバロフスクの山田旅団長、杉野領事の名入りの電報を提示された。山田と杉野は革命軍司令官ブルガルコフと外交部長ゲイツマンから戦闘中止への尽力を持ち掛けられ、評議の結果、四人の連名で、日本軍トリャピーツィン双方に、戦闘中止を勧告する電報が送られていたのだった
 それに対して、犠牲の大きさから降伏を潔しとしなかった河本中尉も渋々戦闘中止に同意。ニコラエフスクでの日本軍最高責任者になっていた内田一等軍医が、武装解除を決め、民間人をも含めて兵営に立て籠っていた全員、そして軍医以下の衛生部員も皆、監獄に収容され、衣服も奪われ、過酷な労役を課された。

 虐殺が一応治まったが、三月一六日に第一回サハリン州ソビエト大会が開催。改めてトリャピーツィンの独裁的な革命体制が確立され、徴発、恣意的な逮捕、投獄は続いた。
 そんな中で、かつてパルチザン鉱山連隊の司令官を務めていたブードリンがトリャピーツィンを批判し、ブードリンは逮捕された。しかしブードリンには、解散させられた鉱山連隊を中心に支持者が多く、死刑にはならなかったが、後に大虐殺の最中に殺された。

 四月四日に、ニコラエフスクの惨事を知った日本軍は、赤軍との妥協的な態度を捨て、ウラジオストクにおいて、軍の歩哨が射撃を受けたことをきっかけに軍事行動を起こし、赤軍に武装解除を求め、ウラジオストクの赤軍はこれを受け入れた。
 同月六日、ハバロフスクでの戦闘に日本軍が勝利を収め、赤軍は武装解除された。

 同月二〇日、ニコラエフスクにも、ハバロフスクにおける戦闘、赤軍武装解除の噂が届き、解氷後に日本軍がやってくるであろうことを悟ったトリャピーツィンは驚き、直ちに、全権が執行委員会から革命委員会に移され、非常態勢が取られた。トリャピーツィンはアムール川の日本船の航行を妨害するため、障害物を置き、その重労働に女子供まで駆り出した。

 同月二九日に至って、日本はウラジオストク臨時政府と講和。これを受けて革命委員会とチェーカーの特別会議において、トリャピーツィンニーナ・レベデワは、パルチザンとその家族をアムグン川上流のケルビ村に避難させ、残ったニコラエフスクの住民を絶滅し、町を焼き尽くす。」という提案をし、了承された
 そのことは秘密にされていたが、噂として漏れ、五月二〇日、中国領事と砲艦、そして中国人居留民が皆、全財産を持って、アムール川の少し上流にあるマゴへ移動した。
 しかし日本人には伝わらず、翌二一日夜から、逮捕と処刑が始まった。日本軍決起のときに殺された人々の家族、以前に収監されたことのある人々が老若男女問わず投獄され、次々に処刑された(内訳は、収監されていた日本兵陸軍軍人軍属一〇八名、海軍軍人二名、居留民一二名の合計一二二名と、病院に収容されていた傷病日本兵が一七名)。
 犠牲者は日本人以外にも、ユダヤ人ポーランド人イギリス人も含まれ、同月二四日までの三日間に、三〇〇〇人が無差別に殺されたと云われている。

 その後も殺戮は続き、魔の手は街から逃げ出して、近郊の村やタイガへ隠れた住人にも及んだ。赤軍は武装探索隊を出して殺害して廻った。殺戮は一〇日間続き、町を離れる通行証を貰えなかった人々も殺される運命にあった。そして同月二八日、川向こうの漁場に始まって四日間で町中が炎に包まれた。
 尚、ニコラエフスクを破壊した理由について、パルチザンは焦土戦術とした。

 結局、事件全体の日本人犠牲者は、軍属を含む陸軍関係者が三三六名、海軍関係者四四名、領事である石田一家四名、判明している民間人三四七名の合計七三一名だが、これははっきりしている数で、総数は数千と目されている(領事館焼失で、正確な数は掴めない)。
 事件を受け、ハバロフスクの革命委員会は、日本軍と共同で戦闘中止要請をした手前もあり、トリャピーツィンに状況の説明を求めた。それに応じてトリャピーツィンは、電報を打った。更に後日、参謀長ニーナ・レベデワと連名で、モスクワをはじめ、イルクーツク、チタ、ウラジオストク、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスク、アレクサンドロフスク、ペトロパブロフスクなど各地へ、長文の声明文を打電したが、その内容は日本側が裏切り、武装蜂起したことに対抗したとするものだった。

 数々の情報(=凶報)を受け、日本国内では早急な救援隊の派遣が決定された。
 まずは、既に第七師団より編成されていた増援隊を、アレクサンドロフスクへ派遣して、解氷を待つこととした。多門二郎大佐率いる部隊が四月一六日に小樽を出発し、軍艦三笠と見島の援護のもと、二二日にアレクサンドロフスクへ上陸した。
 多門隊は、五月一三日にデカストリに上陸し、増援の津野隊も五月下旬に小樽を発した。津野隊とともに、海軍第三艦隊の主力と第三水雷戦が、直接、ニコラエフスクへ向かった。
 一方、ハバロフスクの第一四師団は、出来る限りの兵力を集め、海軍臨時派遣隊の砲艦三隻の護衛を受け、翌一四日にハバロフスクを出て、アムール川を下った。
 途中、ラプタの指揮する約二〇〇の赤軍部隊を破り、二五日、多門隊と合流して、ニコラエフスクを目指した。

 六月三日、多門隊が到着したニコラエフスクは、遺体が散乱する焦土となっていた………。怒りに燃える日本軍はトリャピーツィン一行を捕らえんとしたが、既にニコラエフスクを脱した後だった。
 御丁寧にも、アムール川からアムグン川にかけて、日本軍が跡を追えないように障害物が沈め、航路が塞がれ、配下のパルチザンもタイガに逃げ散っていた。
 救援の日本軍が到着したことで、ニコラエフスクからの避難民が、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスク、ウラジオストク、日本に現れ、事件の全容が外部に知られ始めた。
 こうなるとソビエト政権系のジャーナリズムは、当初の様にトリャピーツィンの云い分をそのままに赤軍の正義と日本軍の裏切りを云い立て続けられなかった。実態と真逆の大嘘が罷り通り続ける筈もなく、ボリシェヴィキも困惑し、危機感を持ったハバロフスクのソビエト代表団は、六月末にアムグン地域に出向き、反トリャピーツィングループと接触した。

 反トリャピーツィングループを指導していた砲手アンドレーエフはソビエト代表団と接触したことによって、行動を起こし、七月三日の夜、ケルビのパルチザン本部で眠るトリャピーツィンニーナ・レベデワが逮捕され、続いて指導部全員が捕らえられた。
 同月九日、人民裁判が行われ、トリャピーツィンニーナ・レベデワ以下七名が銃殺となった。しかし、判決文におけるトリャピーツィンの罪状は「五月二二日から六月二日までのニコラエフスク大殺戮を許容したこと。」、「七月四日まで、サハリン州諸村でも虐殺命令を発していたこと。」、「ブードリンなど数名の仲間の共産主義者を射殺したこと。」に対してであって、日本人虐殺については、全く触れられていなかった

 事件解決を難航させていたのは、ロシア帝国崩壊後のソビエト連邦=ボリシェヴィキ政権が国内を統一し切れておらず、諸外国としてもボリシェヴィキが必ずしもロシアを統べ続けるとは云い切れない状態にあったことだった。
 その状況下で日本政府が六月二八日に決定したのは、北樺太の保障占領だった。つまり、事件解決まで北樺太を占領し、一種の質札とするものだった。日本政府は七月三日付の官報で、「今年の三月一二日から五月末まで、ニコラエフスクにおいて、日本軍領事館員及び在留民およそ七〇〇名、老幼男女の別なく虐殺されたが、しかし現在、シベリアには交渉すべき政府がない。将来、正当な政府が樹立され、事件の満足な解決が得られるまで、サハリン州内の必要と認められる地点を占領するつもりである。」と告示した。

 トリャピーツィンの処刑や、北樺太の保障占領等が進む中、日本国内では事件の詳細が伝わるに連れ、議会では野党が与党立憲政友会を槍玉に挙げた。
 立憲政友会は五月の選挙で圧勝していたが、野党は「与党は尼港事件を隠して解散、総選挙に踏み切った。」と野次った。
「惨劇が起こったのは不可抗力。」という首相・原敬の発言に対しても、「責任逃れではないのか?」と追及し、「治安維持に充分な兵力を置いていないにもかかわらず、居留民の引揚げを考慮しなかったのは不注意だ。」、「チェコ軍団の救援目的は達したにもかかわらず、何の為に兵を残したのか?過激派の勢力を削ぐことも日本人居留民の生命財産を守ることも出来なかったではないか?」と、シベリア出兵そのものへの批判も浴びせた。

 責任追及の声は陸軍大臣・田中義一にも及び、田中は「陸軍大臣として陸軍について全責任があるが尼港事件については陸軍に過失はない。」と答えたため激しく糾弾され、結局陸軍大臣辞任に追いやられた。そして、占領宣言をした北樺太を除けば、シベリア出兵は撤退へと向かった(北樺太は大正一四(1925)年の日ソ国交回復を以て返還された)。

 ニコラエフスクの顔役で、島田商会の社長だった島田元太郎は事件発生時に日本国内にいたために難を逃れた。事件後、島田は被害を受けた人々への補償を政府に求め続けた。それに対して日本政府は日ソ国交樹立の過程で尼港事件を政治的に棚上げし、北樺太のオハ油田を中心とする石油長期利権と引き換えに、賠償は求めないことになった
 島田は大正一四(1925)年一二月にも救恤金の再給付を求める請願書を政府に提出し、日本政府は、「本来はソビエトの責任で日本政府が賠償を肩代わりする理由はない。」としつつも、救恤金という形で、遺族の支援に動き出した。

 尚、事件の犠牲者を悼む施設としては、下記の物がある。
施設名場所概略
尼港殉難者記念碑茨城県水戸市堀原 大正一一(1922)年三月建立。事件にて全員が犠牲となった第一四師団尼港守備隊員達は茨城県水戸市の出身で堀原には練兵場があった。
 事件が大々的に報道された六月以降から遺族や婦人団体、在郷軍人団体、宗教家等が現地を訪れて、慰霊に努め、戦前は、毎年欠かさず慰霊祭が行われていた。
尼港殉難者追悼碑北海道小樽市手宮 事件以前から樺太、シベリア方面への物資積み出し港であり、ニコラエフスクとも縁が深かった小樽では大正一三(1924)年に、市民が軍部に請願し、遭難者の遺灰払い下げの運動を起こした。
 これによりニコラエフスクで焼却され、アレクサンドロフスクの慰霊碑に保管されていた犠牲者の遺骨が小樽で永久保存しようということになった。
 軍の許可を得て「帰国」した遺骨は、市内浄応寺で保管。昭和一二(1937)年になって、市の素封家・藤山要吉が私財を投じて、市民に呼びかけて、手宮の丘に慰霊碑や納骨堂を建てた。
 戦前、毎年、尼港記念日の五月二四日に法要が行われ、第二次世界大戦後、小樽に来た進駐軍が破壊を命じた際も、小樽市民はこれを拒んで、守り通した。
尼港事変殉難者碑熊本県天草市五和町手野 民間人犠牲者の三分の一は熊本県天草の出身者で、家族ぐるみの移住者も多かった。小樽と同じく昭和一二(1937)年に遺族達の手によって建立された。
 毎年三月一二日に慰霊祭が行われ、昭和四五(1970)年には五〇年祭が盛大に催された。
尼港殉難碑北海道札幌市 札幌護国神社内にある。以前は救援隊の兵士達が昭和二(1927)年に建立したものを戦後に移設した。



事件の日ソ関係への影響 本来なら、ロシア帝国崩壊から、当時の市場に例を見なかった共産主義国家の誕生への過渡期にあって、日ソ友好を頭から叩き潰しかねない大事件であった。
 だが、結論から云えば、この凄惨な事件、事件の割には日ソ間の交流には然程影響しなかった。

 少し話が逸れるが、前頁の制作から本頁の制作には約半年の間が開いた。
 これは事件の余りの凄惨さに辟易し、何度も制作が中断されたからに他ならない(実際、犠牲者の惨殺状況などはかなり割愛している)。
 実の所、歴史通のつもりでいながら、この尼港事件については社会人になるまでその存在を知らず、詳細を知ってからまだそんなに長い時間は経っていない。同時に南京大虐殺通州事件平頂山事件に匹敵する残虐な事件でありながら然程知名度が高くないことが現在も疑問である。

 これはロングヘアー・フルシチョフの推測だが、建国後間がなく、新たな国際交流を始めるに当たって、尼港事件が甚大な悪影響を当たることを懸念した日ソ双方の政治家が一赤軍一パルチザンによる暴走=一徒党による犯罪として処理したからではないだろうか?

 実際、ネット上で歴史的事件を検索していて、この尼港事件を大きく書き立てる人達は日本軍が海外に対して行った犯罪に甘く、外国人が日本人に対して行った犯罪は文を極めて悪し様に罵る様な人達が多い様に思われる。
 個人的な過去に触れると、道場主が初めてソビエト連邦の名前を知ったのは小学校三年の時で、北方領土問題でその名を知り、レーガン米大統領(当時)がソ連を「悪の帝国」と表現した時期と重なっていたから、その当時における道場主のソビエト連邦に対するイメージは決して良いものではなかった。
 そう思うと、万一、この尼港事件がソビエト連邦に対する第一印象だとしたら、いきなり嫌ソ人間になったとしても不思議ではない。そしてそんな重篤な悪影響を避ける意味でも、「国家間の問題ではない。」とすることで、その存在感を薄らせしめ、知名度を下げている結果を生んでいると思われる。

 だが、冷静になって振り返ると、この事件を本当に国家間の問題と云い切るのは難しい。否、実際に国家間大事件なのだが、誰だってこんな大事件の責任は背負い込みたくはない(失笑)。それゆえ、両国の政治家達は事件関係者を極力自分達の言動とは無関係な位置に置こうとしたとしても不思議ではない。
 当時のニコラエフスクは決して盤石な政権による統治下にあった訳ではない。赤軍全体も決して一枚岩ではなかっただろうし、トリャピーツィンの横暴は万死に値するし、実際(日本人虐殺を責めた形ではないが)処刑された。
 赤軍にとって、自分達が世界で最初に実現しようとした社会主義革命に武力介入してくる列国は憎たらしい存在であったことだろう。だが各軍閥によってその度合いは大きく異なるし、トリャピーツィン日本人居留民のみならず、同胞であるロシア人当地に住んでいたの他の外国人達も惨殺している。
 それを鑑みれば、尼港事件は本当に「一個人組織の犯罪」と云えなくない。トリャピーツィンもそうだが、彼に合流した中国人・朝鮮人パルチザン達もまた「日本憎し」で、日本人相手なら盟約の反故も、非戦闘員の虐殺にも心を痛めなかった連中であった。

 ボリシェヴィキにしてみれば、大義名分ある政府を作るためにはトリャピーツィンの暴走を許す訳にはいかっただろうし、トリャピーツィン同様に武力介入した各国を嫌い、その犠牲に心を痛めていなかったとしても彼の行動を是とは出来なかった筈である。
 大日本帝国にして見ても、事件の発端となったシベリア出兵が国内において野党を初めとする多くの人々に叩かれており、尼港事件が国家犯罪となればその対応が困難を極めることは火を見るより明らかだった。

 それゆえ、日ソ両国は尼港事件を厄介払い的に個人犯罪として処理したと云える。
 ボリシェヴィキ=ソビエト連邦はトリャピーツィンを処刑することで自分達とは無関係とし、日本も日本で保障占領した北樺太の油田という権益を得ることで尼港事件に対する賠償を問わないことに同意した。

 つまり、事件を一徒党の犯罪等することで、ソ連は赤軍全体の管理がなっていないことの責任から逃げ、日本政府に至っては自国居留民の犠牲に対する対応を、利権を得たことで放棄したのである犠牲となった人々と遺族の気持ちを捨ておいて

 本来、尼港事件は国家間の交流を重んじる為にももっと知られていなければならない事件である。だが、当時の政治家達が黙殺したかった気持ちも全く分からないではない。本気で向き合えば日ソ国交樹立は不可能だっただろう(現在の日本と朝鮮観主主義人民共和国(北朝鮮)との国交が丸で樹立された無いのも日本人拉致事件が大きく影響しているのは明らかである)。
 決して好ましいことではないが、日ソ両国政府はこの事件を国家間の事件とせず、メディアの力が脆弱で、インターネットもなく、出版の自由も制限されていた当時の両国民は深くこの事件を知ることなく、日ソ国交は樹立された。

 要は、一市街居留民の犠牲は国家間問題としては黙殺されたことになる。
 確かに事件背景は単純ではない。ニコラエフスクは日本の植民地ではなく、満州に日本の権益が拡大したことを商機とした日本企業が進出した地で、軍による居留民保護義務も朝鮮半島・台湾・南樺太・満州鉄道に対するそれとは同列ではなかっただろう。
 また、トリャピーツィンの犯罪の責任をソビエト政府に全面的に帰すのは無理が有るのも分かる。
 だが、せめて現代の国際交流においては真の友好の為にも、かかる事件の加害・被害を顧みないようなやり方は厳に慎まれるべきであろう、とロングヘアー・フルシチョフは考える。



不幸中の幸い かかる大事件は何十年単位、内容や規模によっては何百年単位で後を引く遺恨となりかねない。
 それゆえ、被害者サイドの心傷が癒えないのも深刻だが、加害者サイドも責任を認めなかったり、事件そのものを否定したり、事件の原因となった被害者サイドの落ち度をクローズアップして逆ギレしたりすることも珍しくない。
 まして当時のソビエト連邦の最高権力者はあのスターリンだったのである。

 ただ、意外にも(と云ったらロシア人に甚だ失礼だが)事件後、ソビエト連邦政府は尼港事件の責任者の罪を糺して処刑した。
 勿論、いくらこの尼港事件が陰惨で非道な事件だったとはいえ、スターリンを初めとするボリシェヴィキ政権、及びその後の正式なソビエト連邦が命じたものとは思えない。
 事件の加害者を庇ったり、弁護したりする気は更々ないが、軍隊の一部が暴走したもので、ソビエト政府にしてみれば、フツーに犯罪者を裁いた感覚だろう。
 別の云い方をすれば個人や国家の非を決して認めないであろうスターリンをもってしても、逆ギレ・正当化が不可能と思わざるを得ない程、尼港事件は酷い事件だったということである

 まあ、悪く云えばありきたり、別の云い方をすれば妥当な判断だろう。
 時代も国も異なるが、第二次世界大戦後、ドイツは戦前・戦中のホロコーストを初めとする国家犯罪をすべてナチスの責任とし(←間違いではない)、ナチスを徹底的に否定することでその後の国際社会からの批判・非難を軽減させた。今でもドイツでは学校授業で挙手する際に掌を開いて真っ直ぐに挙げると、「ナチス式の敬礼」を行ったとして批判・非難・処罰の対象となる。
 それが良いか悪いかは別として、ある悪行が組織的なもの、国家的なものと見做されたら、組織も国も延々と非難に曝される。
 それゆえ組織(例:「や」の付く自営業(苦笑))でも「一部の組員の暴走」とするし、国家なら「現場軍人の暴走」として全体への避難回避に努める。

 ただその場合、上が下の一部を切り捨てるのは容易だが、下が上の責任者を放逐して、全責任を負わせるのは容易ではない。
 そして上であれ、下であれ、責任を背負わせる個人を特定出来たとしても、組織として何もしなくていい訳ではない。何せ国家犯罪・組織犯罪が為す悪行被害は個人の力で贖えるものではない。「当事者を殺して、「はい、終わり」」で済めば誰も苦労しないだろう。
 思うに、この尼港事件にしても、事件を起こした罪は個人に帰し、ソビエト連邦に対する非難の声をかわす為にスターリン達も事件の代償には頭を痛めた訳で、「日本に対して」は元より、「ソビエト連邦に対して」という意味のおいても、「要らん事しやがって………。」の想いは有ったことだろう。

 詰まる所、事件に絡んで起きた日本軍による北樺太の保障占領が日ソ基本条約の締結で終了・撤退した際にも、北樺太における日本の資源権益が確保されたのも、「尼港事件に対する一種の「賠償」だった訳だ。
 謂わば、権益と引き換えに政治的責任は放棄された訳で、尼港事件にて虐殺された日本人とその遺族の心は安らぐどころか、踏み躙られたとさえいえるが、悪魔の様なスターリンにも(表立って非を認めたものではないにせよ)大事件に対する代償を払う程度の責任感があったとは思いたいところである。

 前述した様に、この外交的取引でソビエトへの事件への責任追及を打ち切った日本政府は、島田源太郎が被害者遺族への補償を求めたのに対して、「本来はソビエトの責任で日本政府が賠償を肩代わりする理由はない。」とした。
 そんな風に抗弁するなら、「ソビエトへの賠償を求めない。」とした判断は間違っていることになるのだが、それでも「救恤金」という形で、遺族の支援に動き出したのだから、犠牲者やその遺族を悼む気持ち自体はあったと思いたいところである。


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令和五(2023)年九月二一日 最終更新