死刑執行の問題二 情報開示

考察1 執行命令発令に関する情報開示
 死刑が執行され、その事実を伝える為に法務大臣が記者会見を開くと新聞記者からは様々な質問が投げ掛けられる。

 「何故このタイミングの執行なのか?」
 「何故今回この死刑囚が選ばれたのか?」

 だが、それらの質問の大半に返されるのは

 「個々の事案に関することへの回答は差し控えたいと思います。」

 である。言葉遣いは丁寧でも、云っていることは「嫌や、教えたらへん。」である(苦笑)。

 オウム事件の大量死刑執行後の記者会見をリアルタイムで見て、約1時間の間に上川陽子法務大臣(当時)がこの回答を延々と繰り返したのには苛立った。ただ、法務大臣が暗に回答を拒否する気持ちも分からないではない。
 下手に情報公開すれば後々の死刑執行への推測(どの死刑囚が執行されるか?何時頃執行されるか?等)を容易なものとし、執行前に賛成派から督促され、反対派から妨害の声を挙げられることになり、仕事がやりにくくなるばかりで何も良い事が無い。
それでなくてもオウム事件の死刑囚への死刑執行は事前にある程度予測されており、死刑囚の中には執行の三ヶ月前に「初めての再審請求」に踏み切って死刑を回避しようとした者もいた。
実例を挙げると、死刑囚の一人、井上嘉浩(執行済み)は「死刑を避けたいのではなく、真実を明らかにしたいから。」と宣っていたが、井上の死刑確定は平成22(2010)年1月で、平成30(2018)年1月に高橋克也(←無期懲役囚として服役中。恐らく生涯塀の外に出ることはないと思われる)の最高裁判決が下り、オウム裁判が完全に終結し、その2か月後に大阪拘置所に移送された翌日に再審請求が行われた。
つまり井上の死刑確定から8年も経ってから為されたもので、訴えたいことがあるならあるで8年の間にいくらでも出来た筈である。それゆえ俺には大阪拘置所の移送直後に「死刑執行が間近」と見て、執行先延ばしの為に再審請求(それも一回目)に踏み切ったとしか思えない。

 実際、オウム死刑囚への死刑執行に挙がった抗議の声の中には、再審請求中の者が大半であったことを詰るものがあった。ただ個人的にムカついたのは、「一回目の再審請求」を持ち出した連中だ。
 ただでさえ再審請求は執行引き延ばしの為に悪用されているケースが多い様に思われてならない(勿論個々の死刑囚関係者は否定するだろうけれど)。まして、「共犯者の同時執行」の原則に立てば、一三人のオウム死刑囚が入れ代わり立ち代わり再審請求を繰り返すことで永久に執行出来なくするという悪用も可能だ。
 それゆえ昨今では「再審請求中」が通用しにくくなっているのだが、それでも死刑を防がんとする側にとっては重要な方法なのだろう。彼奴等は「何度も再審請求してやっと再審が開始された。」と云う例を持ち出して、「まだ一回目の再審請求中」の者を処刑したことに口を極めて罵ったのである。恐らく連中にとって、「再審請求が一回や二回却下されるのは当たり前」との想いが有るのだろう。
 まあ、仮に10回以上の再審請求が却下され、請求が為されていないタイミングで執行されてもこいつらは抗議するだろうし、俺に云わせれば、罵り易い状況を執行直前に作って執行を防がんとした姑息な戦略としか思えんのだがな。

 まあ、オウム事件に関しては、あれでもまだ法に則って死刑執行を急いだ方だとは思っている。
 最大の凶悪犯罪である地下鉄サリン事件に始まる逮捕から23年、首謀者である麻原彰晃(執行済み)の死刑確定から12年、関係全死刑囚の死刑確定から5年の時間が流れていたが、最後まで逃げ続けた高橋克也の無期懲役が確定し、すべての死刑囚が証人として出廷する可能性がなくなってから6ヶ月で執行されたのだから頑張った方だと思われる。

 逆に死刑を阻止せんとする者達にも最短時間での死刑執行が懸念されたのか、高橋の無期懲役刑確定から2ヶ月後に死刑囚達が日本各地の拘置所に分散された段階で一回目の再審請求を始めた者が出た(前述の井上嘉浩である)。確定から8年も経ってから「死刑が嫌なのではなく、真実を明らかにするため。」とか云い出しても「何をか云わんや。」としか云い様がない。

 結局、ある程度死刑執行のタイミングが読まれている以上、どの道バッシングは避けられないのだから、少しは情報開示してみてはどうだろうか?法務大臣に法務省の皆々様よ。
 勿論情報開示による弊害は大きいだろうけれど、開示してそれを遵守すれば大義は立ち、味方する者も数多く現れると思うのだが。



考察2 執行実態に関する情報開示
 とかく秘密主義が批難される日本の死刑執行。正直、俺も「死刑の実態をもう少しオープンにしてはどうか?」と思っている。例えそれが為に死刑廃止論者が増えたとしても。

 確かに日本の死刑執行は過去よりは少しはオープンになっている(あくまで比較の上でしかないが)。
 以前は死刑執行自体を公表していなかったが、執行は明らかに関係者から死刑廃止を訴える団体に漏れており、法務大臣並びに法務省が死刑執行を公表する様になる以前から執行の度に抗議の声は挙がっていた。
 これは俺の推測だが、「どの道批判に曝されるなら、被執行者の氏名・罪状を明らかにし、「極悪人は然るべき罰を受けた。」と云う事を世にアピールして賛同の声を集めた方がマシ。」と考え、公表されるようになったのだろう。
 また死刑をなかなか執行しなかった民主党政権時代(政権意向と云うよりは東日本大震災で多くの死者が出た年故、執行命令が出し辛かったのが要因と思うが)の末期に死刑反対派であった千葉景子法務大臣(当時)は2名の死刑執行を命じた際に、死刑に携わる者の責任として執行に立ち会い、死刑が執行される東京拘置所の一部を公開した。
 俺は千葉元法相の死刑に対する考えには反対だが、その千葉元法相が「国民的議論を投げ掛けるため」にとして死刑の実態を一部公表し、自らも立ち会った姿勢には敬意を表する。

 だが、執行そのものに対して、今後の政治家達にはもう少し公表して欲しい。誤解を恐れず述べれば、「死刑囚がどんな死に様を晒したのか公表して欲しい。」という事もある。勿論これは残虐嗜好で云っているのではない。

・死刑囚はいざ自分が殺される側に立ってどんな反応を示したのか?
・最後の最後に罪を認めていたのか?刑に服することを受け入れていたのか?
・自らが殺めた被害者や遺族への謝意や贖罪の念はあったのか?
・自らが凶悪犯罪者となったことで世間に顔向け出来なくなった自分の身内に対してどう思っていたのか?
・死刑囚のやらかした罪に見合う程の苦しみを感じていたのか?

 勿論これは時として情報に触れた人を大いに苦しめる。
 もし凶悪犯罪者が死刑執行に際して腰を抜かしたり、脅え泣き叫んだり、失禁したりすれば死刑廃止論者は「残酷!」と叫び、その死刑囚を冤罪と叫ぶ人々は「無実の人間」をそんな恐怖に陥れたことに口を極めて罵るだろう。
 もし凶悪犯罪者が自らの非を全く認めず、犠牲者やその遺族に対する一片の謝罪や悔悛の情も見せないまま処刑されれば、被害者遺族にはかなりの虚しさが残るだろう(宅間守宮崎勤はまさにそうだった!)。
 もし凶悪犯罪者が「無実だ!」、「冤罪だ!」と叫び続けたまま処刑されれば、死刑廃止論者や当該死刑囚の支援者が紛糾すると同時に、被害者は「この期に及んでまだ嘘をつき通すのか………。」と思ってげんなりし、有罪とも冤罪とも確信出来ない第三者には「本当に処刑してよかったのだろうか?」という一抹の不安が残るだろう。
 また、死刑囚が直前に見せる痴態や恐怖に対して純粋に不快の念を催すことも考えられる。

 だが、それでも情報開示は大切だと思うし、「死刑」と云うその執行のみならず、事件の時点から何人もの人間の命と云う想い命題が伴う以上、重大な問題であることを万人が自覚し、事件の悲惨さにも、死刑の悲惨さにも向き合うべきと俺は考える。
 死刑廃止論者は「死刑は残酷!」と叫ぶが、俺に云わせれば、「「残酷」なことをしたのだから、「残酷」な目に遭わせねば意味がない。」ということになる。
 つまり死刑を通して、死刑囚の為した事件も「残酷」なら、それによって死刑囚が服する刑もまた「残酷」であることを直視し、世の人々が、「あんな残酷なことをしてはいけない。」、「あんな残酷な目に遭う刑に処されるようなこと=凶悪犯罪をしてはいけない。」と考える契機とすることを重要と捉えているのだ。

 「見せしめ」と云う言葉は決して好きではない。
 それは人を恐怖で縛ることを含み、道場主の馬鹿自身、自らの臆病と弱さに苦しんで来た人間だから恐怖を手段として人を操ることを是としない人間だ。だが一方で、人間は実例を目の当たりにして初めてその恐ろしさを実感する生き物だとも思っている。
 死刑と云う刑罰が多くの人々を納得させるほどの犯罪抑止力を発揮していないのには、死刑の実態が隠蔽されている(と云うよりは積極的に公表されていない)ことにも遠因が有る様に思われる。
 実際、死刑判決を下された凶悪犯に対して、「犯行に手を染める際に死刑を意識したか?」と問われれば、殆どの者が「No」と答えているらしい。死刑廃止論者達はその例をもって「死刑に抑止力無し!」としているが、死刑を意識して犯行を思い止まった者が「死刑囚」になることはない(苦笑)。
 一方、凶悪犯罪に手を染めてしまった者に対して何故に抑止力が働かなかったかを観察してみると、「俺は捕まらないと思った。」、「かっ!となって考え無しにやってしまった。」、「目先の事だけで後のことなど考えていなかった。」等々、一見、「死刑」が抑止力として働き様がない様に見える。
 だが、こ奴等に事前に死刑の恐ろしさ、死刑になる可能性、死刑に前後する苦しみを誰かが教導していれば内何件かの凶悪事件は抑止されていたのではなかろうか?

 確かに知らなければ抑止力は働かない。云い換えれば、知らされていれば抑止力が働いていた者もいたかも知れない。そして「知っている」を増やす為に死刑執行実態の情報公開には直視する困難と、それ以上の大きな意義があると考える。



考察3 様々な遺族の為の情報公開
 「公開」と銘打っているが、個人的な連絡でもいい。遺族にはもっと死刑の実態を知らせてあげるべきだと考えている。それは被害者遺族に対しも、加害者遺族に対してもである。

 日本の死刑執行における秘密主義は被害者遺族も苦しめている。
 凶悪犯罪における裁判は多くの場合、最高裁までもつれ込む。弁護士が徹底的に死刑を避けんとして最後の最後まで粘ったり、加害者である被告が「死にたくない!」の一心でごねたり、無期懲役以下の判決に検察側が納得しなかったり、で凶悪犯罪ほど長期化する。
 そしてそこまでして確定した死刑がなかなか執行されない。それゆえ被害者遺族は「自分の大切な家族を無惨に殺したあやつがまだ生きているのか!」と云う念に苦しむ。言葉は悪いが、遺族は仇の死刑執行を一日千秋の思いで待ち続けるのである。そして本当にいつ執行されるか全く読めないからその憤りは想像を絶する

 そんな遺族が憎き仇の死刑執行を知るのは執行後である。それもマスコミの報道を観て初めてなので、俺がニュースで知るのと何ら変わらない。
 遺族の中には「死刑執行に立ち会わせて!」と懇願する人々も多いが、その願いは受け付けられない。遺族にしてみれば、「執行ボタンを私に押させて!」と云う人も多かろう。勿論遺族だからと云って何を要求しても良いとは思わないし、遺族とはいえ一般ピープルに「人を殺める」と云う重荷を背負わせない為にもやはり死刑執行は公務員が行うべきだろう。
 ただ、遺族が一般ピープルと同じ事しか知らされないと云うのは解せない。

 ある日突然に凶悪犯の魔手によって大切な身内の命を奪われた遺族は犯人への厳罰を求めると同等かそれ以上に「何故(自分の大切な家族が)殺されなければならなかったのか?」を求める。
 そして厳罰を求めるのに並行して、「自分のやったことにちゃんと向き合っているのか?」、「自分が殺めた相手に謝罪・贖罪の念を持っているのか?」、「反省・公開・悔悛の情は有るのか?」、等々……………。
 まあ残念ながら自分のやったことに一片の罪悪感も抱かず、遺族の怒り・悲しみに対してもどこ吹く風と云う輩も死刑囚の中には存在するだろうから、「「どうせ死刑は廃止される。働きもせず悠々自適の生活が出来て最高だぜ!」と思いながら生きてます。」と云われれば却って遺族を傷付けるかも知れない。
 それゆえ、「もうあ奴のこと等何も知りたくない!早く殺してくれ!」と願う遺族にまで何もかもを伝える必要は無いだろうけれど、「すべてを覚悟して真実を知りたい。」と云う遺族には死刑執行のみならず、収監中の実情も報せるべきだろう。

 闇サイト殺人事件で一人娘を殺された女性は、犯人の内の一人である神田司(執行済み)が死刑執行されたことで、「神田の事を考えなくなった。」との解放感を得て、後に別件で死刑が確定した堀慶末死刑執行を心待ちにされている。
 少なくとも、かつてのように「執行した」と云う事実さえ伏せていていた法務省の過去は到底信じられないし、受け入れられない。

 一応、令和2(2020)年10月21日に、法務省は死刑執行後、被害者遺族等にすぐに執行の事実を伝える仕組みを制度化した。まあ、制度化してもその後全く死刑が行われていないんだがな…………(令和3(2021)年11月1日現在)。

 最後に加害者家族についても触れておきたい。
 まあ、この問題は複雑だ。基本加害者家族よりは被害者家族の方がケアを優先されるべきで、女子高生コンクリート詰め殺人事件光市母子殺害事件の加害者の親は、「お前がこんなモンスターを育てたせいや!」と怒鳴りつけたくなる様な度腐野郎だ(←特に光市母子殺害事件の犯人の父親は唾棄すべき奴だった!)。
 一方で、連続幼女殺人事件の犯人である宮崎勤(執行済み)の一族は決して悪人とは思わないし、一族に生まれたたった一人のモンスターの為に一族全員が被害者やその一族に次いで悲惨な思いをしたと思っている。
 確かに宮崎勤を甘やかしたことが自分の欲望に歯止めも掛からず罪の意識も抱かないモンスターを生んだ一面はあるにしてもそれでも(犯行当時)26歳にもなればあれほどの凶悪犯罪は個人の資質に居する問題で、宮崎の逮捕後、近い身内はほぼ全員が職を辞し、婚約中だった妹は破談となり(←妹の方から解消を申し出たらしい)、宮崎の父はすべての財産を処分して被害者への賠償に宛てた後に入水自殺した(←こんな話を聞いても、は何の反応も示さなかった!!!)。

 かように心無い加害者家族がいる一方で、心ある加害者の身内は物凄いバッシングに曝され、自責の念に苦悩する。それこそ死刑執行を抗議される法務省関係者や死刑執行される加害者本人の非ではなく、「死んだ方がマシ」と思いかねない程のものである(実際に宮崎の父親以外にも命を絶った人もいることだろう)。
 それゆえ、加害者の身内には自分達を塗炭の苦しみに追いやった加害者を怨む者もいれば、心からの反省・悔悛を求める者もいれば、そんな凶悪犯でも「身内」の一言で庇い続ける者もいるだろう。
 線引きの難しいところだが、何の罪もない加害者家族、中でも加害者に成り代わって贖罪や謝罪の念の強い身内には死刑囚の実態や死に様について幾許かの情報公開があってもいいのではなかろうか?

 余談だが、かつて日本では死刑囚に対し、死刑執行を前日に伝えていた。有名な話だが、宣告を受けて自殺する者が出たので今では執行日の朝に宣告される。そしてこれは本当かどうか知らないが、前もって伝えられることで死刑囚は家族に面会して別れを云うことが出来たらしい。
 同じ情報公開でもこれは要らんな。
 死刑囚に殺された被害者は余程特殊なケースを除けばその日が命日になるなんて夢にも思わず、愛しい身内、大切な友、世話になった人々に別れの挨拶をする術もなく人生を終わらされたのである。加害者の方は例え刑死するにしても、逮捕から死刑執行までに何ぼでも別れの挨拶が交わせる。「何ぼでも」と云うと語弊があるかも知れないが、死刑確定から執行までの間に身内と例え1回面会が出来るだけでも被害者に比べれば遥かに恵まれている!!

 死刑執行を巡る情報公開の問題は決して簡単ではないが、余りに公開されないことが多過ぎて多くの人々を苦しめていることを法曹関係者には真剣に向き合って欲しい。
 これは法律を変えなくても何とかなる問題も多い筈である。


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令和三(2021)年一一月三日 最終更新