死刑執行の問題三 個々人の裁量

考察1 法務大臣に依存し過ぎ
 一つの内閣が倒れ、新たな内閣が組閣される才に当然法務大臣が新たに就任する。
 そして新法務大臣は就任に際して必ずと言って良い程、死刑執行に対してどう考えているのかを記者会見にて問われる。
 辛辣な云い方をさせてもらう。

 まあ、いい加減だな

 さすがにそこまで云っては失礼過ぎるとも思うので、別の云い方をすれば、

 当たり障りのない回答に終始しやがって、

 と云いたい。

 とかく法務大臣の多くは「死刑執行をしない。」とは云わない(云う者もいるが)。一方で「死刑執行をバンバン命じます。」とも云わない(苦笑)。「職責を果たす。」、「現時点での死刑廃止は適当ではないと考える。」程度に留める。

 勿論気持ちは分かる。
 余程嗜虐的な人間でない限り死刑執行の命令書に好き好んで判をつく訳ではないだろう。数の多くの凶悪死刑確定囚が一日も早く死刑執行されることを望んでいる俺だって死刑執行が楽しい訳でも嬉しい訳でもない。新任法務大臣にしてみれば、「します。」とも答えなくないだろうし、職務上「しません。」とも答えたくない事だろう。

 だが、結局のところ、こんな傾向が生まれるのも死刑執行が法務大臣の胸先三寸に掛かっているからだろう。
 死刑囚にしてみれば死刑反対派の人物が法務大臣になればその退任迄心安らかに過ごせる。一方で過去に死刑執行命令を何度も発令した人物が法相に再任されれば「近々執行されるかも………。」と思って生きた心地がしなくなるだろう(←「ざまあ見ろ。」である)。
 また死刑賛成派・推進派からすれば前回の死刑執行から月日が空けば、「まだ死刑執行しないのか?」、「早くあの凶悪犯の死刑を執行しろ!」との声を挙げたくなる。私見を持ち出せば、松永太O・T造田博堀慶末加藤智大小川和弘北村孝紘真美実雄一家・八木茂等の死刑執行が一向に為されない理由がさっぱり分からない……………。

 ともあれ、死刑囚の命運は法務大臣に握られていると云っても過言ではない。法務大臣が執行命令書に判を押すのを拒み続ければ死刑は決して執行されない。それゆえ死刑存置派・死刑廃止派の双方が法務大臣をせっつくことになる。
 同時に、法務大臣は死刑執行命令に署名したことに対する苦しみを生涯引き摺ることになる。勿論、凶悪犯罪者が死刑執行を経て刑死に至るまでには法務大臣以外にも死刑判決を下す裁判官、死刑を実際に執行する刑務官(殊に死刑囚が激しく抵抗すれば取り押さえたり、強引に首に縄を掛けたり、と云ったより心苦しい行為に従事しなくてはならない)、法務省内にて死刑執行命令書を作成する法務官僚、と他にも死刑囚の生死にかかわる人は多い。
 だがやはり「最終決定権」となると法務大臣に依存するゆえに、死刑執行への賛否を巡って法務大臣が最も矢面に立たされることになる。

 かつて法務大臣を務めた故鳩山邦夫氏が「ベルトコンベヤー形式」を提唱したのもよく分かる。死刑囚が法務大臣の怠慢や躊躇や独善からいつまでもずるずるだらだら生かされることへの疑問もあったと思われるし、自身13人もの死刑囚の執行命令に判を押し、某新聞社に「死に神」とまで書かれて苦しい想いをしたこともその理由としてあったと思われる(←法規通りに動く法務大臣が「死に神」なら、身勝手な殺人を犯した死刑囚はなんやねん!?!)。
 勿論死刑反対派は「無責任な死刑推進」と反発したが、それもこれも死刑執行が最終局面で一人に依存し、それゆえに浴びせられるバッシングは不当且つ尋常ではないからだろう。人の命に関わる故、責任の重さは重大だが、それを制度的にも、心情的にも、世論的にも、法務大臣一人に課し過ぎているのは不当ではないかと思われる。



考察2 個人に振り回されていいのか?
 結局、死刑執行が余りに法務大臣一人に依存しているから、時として就任する法務大臣次第ではとんでもない展開が起きかねないという事である。

この際実名を出すが、俺がこの問題に関して特に注視するのが第76代法務大臣・杉浦正健だ。
 元弁護士で、死刑に強く反対する真宗大谷派の門徒でもある杉浦は第3次小泉純一郎内閣で平成17(2005)年10月31日〜平成18(2006)年9月26日までの間、法務大臣を務めたのだが、就任時の記者会見で「死刑執行のサインをしない。」と発言した。

 勿論、俺個人の意見を持ち出すなら、「死刑に反対するなら法務大臣になるな!」である。だが、俺は例え自分の意見と正反対の奴でも信念を持って発言するものであれば、その意見には反対だとしても信念の強さは尊重するつもりである。
 死刑反対の信念で敢えて法務大臣に就任するなら「死刑執行を防ぐ為に法務大臣になった。」とか、「俺が法務大臣である以上、死刑執行はさせない!」との声を挙げて欲しいとすら思う。
 だが、杉浦僅か一時間後にこの意見を撤回した。そして撤回したにもかかわらず、(一年足らずの短い就任期間ではあったが)法務省から出された死刑執行命令書への署名を拒み続け、死刑執行は為されなかった。はっきり云って、世間体を気にして取り敢えず撤回したとしか思えんし、結局執行命令を拒み続けるなら撤回しない信念の強さを見せて欲しかった。死刑賛成派のバッシングを恐れて形だけの撤回をして実際には自分の思った通りにしかしなかったのだから姑息極まりない

 死刑廃止派の方々が俺の杉浦への意見に反発するのは勿論自由だが、少し身を置き換えて考えて欲しい。
 もし、法相就任時に「現在収監中の死刑確定囚全員の死刑執行します。」と宣言する法相が現れれば、死刑廃止は勿論、死刑存置派の中からも反発する者が現れるだろう。そしてその法相が世の反発を受けて発言を撤回しながら全死刑囚の執行を命じたとしたら……………ベクトルが正反対とは云え、俺が杉浦の言動を批判するのはそういう事なのである。



考察3 個人を批判する事のおかしさ。
凶悪犯罪者が死刑に相当する罪を犯し、逮捕され、起訴され、裁判にて死刑判決が下され、死刑が確定し、法務大臣が執行命令を出し、拘置所の刑務官が死刑執行することで凶悪犯は処刑される。
そう、最終決断が法相に委ねられているとはいえ、一人の犯罪者が処刑されるまでには実に多くの人々が「死刑」に関わっている。ざっと列記するだけでも、警察官、検察官、裁判員、裁判官、判事、法務官僚、法務大臣、刑務官………と任務も責務も立場も様々である。

 だが、その過程で決断することの重みもあってか、或いは単純思考に基づいてか、死刑に対してはとかく個人が責められる。その筆頭が法務大臣であるのは云うまでもない。
 実際、平成30(2018)年7月6日と同年同月26日にオウム事件の死刑囚達に対する死刑執行が為された際、その執行命令書に署名した上川陽子法務大臣(当時)への報復テロが懸念された。
 勿論オウム残党は報復への意志を否定するだろうけれど、毒ガステロの首謀者を今も尊崇する輩が否定しても完全な安心などあり得ない(そもそも連中は教団への強制捜査をかく乱する為に地下鉄サリン事件を起こし、新宿駅に青酸ガスを撒こうとした輩なのである)。
 勿論警察でもオウム残党が報復を起こしかねない連中なのは百も承知で法相及びその家族には万全な警護が為されたことと思われる。

 また令和3(2021)年8月24日、福岡地方裁判所にて市民襲撃などの4つの事件で殺人を示唆したとして死刑判決を下された特定危険指定暴力団工藤会の組長である野村悟被告は裁判長に「生涯、この事後悔するよ。」と云い放ち、傘下の組員達が報復に走ることが懸念された。
 勿論被告側は報復の意図を否定し、状況証拠だけで死刑判決を下したことで司法の歴史に泥を塗ったことを批判する為、としているが、組長が具体的なことを云わずとも組員が忖度して殺人に及んだ疑いのある事件を裁いていただけに、多くの者が野村被告のこの言を「報復命令では?」と取り沙汰し、裁判長には警備が付けられた。

 前述した様に事件発生から死刑執行まで多くの人々の手を経ることを考えれば、個人の動きを封じただけで死刑が回避されると考えるのも、死刑判決・死刑執行に対して個人を責めるのも極めて短絡的と云わざるを得ないが、人間どうしても「一番の責任者」を特定してそこを責めたがる傾向が多かれ少なかれ万人に存在する。
 個人にとって好まざることが起きて、それを責める際に多くを精査するより、責任者を責める方が手っ取り早く感じる気持ちは分からないでもない。二言目には「責任者出せ!」と喚くクレーマーなどその典型と云えよう。

 だが、そもそも死刑判決が下ること自体、(冤罪を別にするなら)被告の自業自得だ。単純に殺人事件を軒数で見て、死刑判決が下るのは約1%と云われている。殺人事件が起きても、弁護側は「計画性が無かった!」、「犠牲者1人では死刑を回避すべき!」、「従犯に過ぎない!」、「犯行時は心身衰耗状態だった!」、「初犯で犯罪傾向は顕著と云えない!」等と難癖付けて死刑回避に尽力する(←感情的に面白くない書き方をしているが、弁護士業務としては非難する気はない)。
 そして検察側も判例的に死刑判決が勝ち取れないと思えば求刑段階で無期懲役以下に留めたり、死刑判決が回避された際には控訴・上告を諦めたりする(例え被害者遺族が控訴・上告を哀訴しても無視する)。更には判事もまた判例主義に偏重して多くの殺人事件で死刑判決を回避する。

 死刑基準への賛否はどうあれ、現状日本で死刑判決が下されるという事は、上記に挙げた死刑回避要因が全くないか、回避要因を考慮に入れて尚悪質と判断された稀有なケースで、俺個人の感情や価値観で云わせれば無期懲役囚すらほとんどが万死に値する凶悪犯だ。
 かように厳しい基準を経て死刑が確定した死刑囚に(くどいが冤罪を別にしてではあるが)同情の余地は無く、死刑執行に際して判事や法務大臣に反発するのは逆恨みも甚だしいと断言する。
 それゆえ、弁護士や死刑反対派が重大決定権を保持している裁判官や法務大臣が死刑判決・死刑執行に踏み切る動きを封じたい気持ちは制度のターニングポイントを押さえる意味で分からなくはないが、これを責めるのは甚だしく筋違いである。
 判事も法務大臣も決して独裁者ではなく、彼等は過程における重大決定権を握ってはいても、全責任者では決してないのである。

 同時にこのことは俺を含む死刑存置派も注意しなくてはならないことだ。
 俺自身、新しい法務大臣が就任する度に死刑執行が進むことを期待し、死刑執行が長く滞ると「法務大臣は何をやってんだ!?」と云う気分になるし、そんな声を挙げることも度々だ。
 だが、法務大臣とて法務官僚が執行命令書を作成しないと署名・捺印は出来ないし、法務官僚の法相への迫り方もその時々でかなり強弱が異なる(らしい)。第一、凶悪犯罪が起きなかったり、判事が死刑判決を下さなかったりすれば、「死刑執行命令を出さずに済むのに………。」との想いを抱くこともあるだろう。
 また前任の歴代法務大臣が死刑執行命令を然るべきタイミングで出していれば、「私が命じずに済むのに‥……。」と思いながら執行を命じた法務大臣もいたことだろう。

 まあ、俺自身、死刑執行が為されない時間が続くと法務大臣を責め、高裁・最高裁で死刑判決が覆る度に判事を責めたりするから、この「考察3」は俺自身の反省も含まれる。
 個人の裁量が死刑執行のタイミングを大きく左右する故、死刑存置派も廃止派も法務大臣や判事を責めがちだが、本来死刑そのものが死刑囚の自業自得で、数多い殺人事件にあっても特段悪質なものに限られていることを忘れてはならないだろう。

 まあ、難しい問題だとは思う。
 安倍晋三内閣で法務大臣を務め、オウム事件死刑囚13人の執行を命じた上川陽子氏は菅義偉内閣で法務大臣に再任された際、死刑存置派の多くが死刑執行再開を期待した。これは上川氏にとって決して本意ではなかったことだろう。
 様々な報道を見るに、上川氏とて何も喜んで大量死刑執行を命じたとは思えないし、実際に執行を命じた精神的負担は大きかったことと思われる。まして死刑執行だけが法務大臣の仕事ではない。
 にもかかわらず、大人数の死刑執行を命じた「実績」が過度に注目され、死刑賛成派からは更なる死刑執行を過剰に期待され、菅内閣にて死刑が執行されなかったことを批判された(俺も批判しているが、これは上川氏個人の問題ではなく、東京五輪中やコロナ禍に加えて、森友問題などで法務省自体がガタガタだったことが大きかった故であろう)。

 勿論、上川氏は死刑反対派からは「また多数の死刑執行を命じるんじゃないか?」という視点で白眼視されたことに苦しまれたと思う。
 繰り返すが、根本的には死刑執行は死刑囚の自業自得で、裁判で死刑が確定した以上執行されるのが法の定めで、これが個人の裁量で左右されることも好ましくなければ、個人を責めることも本来は筋違いである。

 この頁で俺は杉浦元法相をぼろくそ貶したが、それでも杉浦氏に個人として人の死を忌避する気持ちは持ち続けて欲しいと思う。責めたのは法相としての責無・在り方に反することと、撤回しながら結局は執行を拒み続けたダブルスタンダードであることを御理解頂きたい……………ま、元大臣様ともあろう方がこんな弱小サイトを見ることもないか(苦笑)。


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令和三(2021)年一一月三日 最終更新