死刑執行の問題四、死刑囚の心情

考察1 基本、知ったこっちゃない。
 凶悪犯罪に手を染め、多くは何の罪もない人間を複数殺め、反省も情状酌量の余地も悔悛も不充分(或いはそれらを考慮しても釣り合わない)として死刑囚は死刑を宣告・確定されている。
 そんな凶悪極まりない死刑囚の処遇に時としてあり得ない程優遇されていることに理不尽を感じる。

 まず死刑囚は働かない。
 死刑囚は死刑執行を受けることが償いとされるので、懲役囚の様な役務に復すことが無い。また死刑執行の主旨からも、死刑囚には罪と罰への認識を充分に持たせなければならない故、心身の安定に最大限の便宜が図られる。
 それゆえ死刑囚は働かず、髪型も服装も自由で、娑婆に残した財産や支援者からの金銭を得ることで書籍を買い、ビデオを観ることすら出来る(さすがに内容によっては認められないこともあるが)。
 掛かる死刑囚の日常を見て、死刑が執行されない間、死刑囚が悠々自適の生活を送り続けることに憤懣やる方ない気持ちを抱いたことのある方々は多いことだろう。再審請求であれ、法務大臣の信条であれ、国際非難への考慮であれ、結果的に死刑が執行されなければ死刑囚は下手な生活困窮者よりも遥かに恵まれた生活が出来るのである…………まあ、酒と女が断たれると思えば俺は絶対死刑囚にも囚人にもなりたくないが(苦笑)。

 ともあれ、死刑執行の意義を認識させる為にも、死刑囚には心身の安定が求められ、原則死刑囚が精神を病んでいると見做されれば死刑執行は延期される。オウム事件の首謀者・麻原彰晃は裁判の途中から不規則発言を繰り返し、死刑確定後は食事も排便も自力で行えず、あろうことか接見に来た実の娘の前でマスターベーションを行い、絶頂に達したという。
 これが真実なのか、死刑執行逃れを狙った詐病なのかは今となっては確認の術はない(この件に限らず、多くのケースで弁護側の雇った鑑定者は「異常!」、検察側の雇った鑑定者は「異常なし!」と云うのだから、外野には丸で確信が持てない!)。
 ともあれ、麻原の死刑に反対する者達は麻原の痴態をもって、「拘禁反応!」、「精神分裂!」と叫び、その治療と裁判のやり直しを理由に死刑に反対し続けた(まあ、それが無くても難癖付けて死刑に反対したに決まっているが)。

 だが、俺に云わせると全く不要な思考である。
 精神の安定なんて、ある意味、「云ったもん勝ち」だ。実際に死刑囚の中に事後に罪の意識に苛まれて精神を病む者がいてもおかしくないし、(自分のやったことは棚に上げて)  死への恐怖から精神が不安定になることは充分考えられる。
 まあ、こんなことを書けば「そもそも死刑制度があるからだ!」とがなり立てる死刑廃止派が出て来そうだが、死刑が絡まなくても精神が不安定になる事なんてまともな社会の中に在っても幾らでもある。
 対人関係・経済苦境・生業での重圧・健康問題・etc………精神を不安定にする要因なんて世の中にごろごろしているし、まもともでない刑罰を科され、一般社会から隔絶された環境に入れば精神を病まない方がどうかしている。
 そもそも凶悪犯罪自体、まともな精神であれば出来ることではない。有罪となれば死刑が免れ得ないと思われる凶悪犯罪の弁護人は十中八九被告の精神異常を訴えるが、俺に云わせると「正常な精神状態の者がそんな犯罪するものか!」である。

 それゆえ、暴論を承知の上で主張するが、「死刑囚の精神安定など考える必要はない。精神不安定が問題なら、それこそさっさと死刑執行して後顧の憂いを断ってしまえ!」となる。



考察2 相対する刑務官の事を考えろ
 死刑確定から死刑執行まで、死刑囚と相対するのが刑務官である。そして最後に執行に携わるのも…………。正直、死刑を控え、その恐怖の中で日々を送る死刑囚の動向に注意し、コミュニケーションを取り、死刑囚が起こすトラブルと相対しなければならない刑務官のストレスは相当なものと思われる。
 寝屋川中学生誘拐殺人事件の犯人・山田浩二はボールペンの貸与を巡る刑務官とのトラブルで自棄を起こして控訴を取り下げたかと思えば、弁護士と接見するや取り消しを求め、控訴取り下げの有効無効がまだ決まり切ってもいない内にまたしてもしょーもない理由で控訴を取り下げ、僅か1時間後に「(取り下げ)なかったことに出来ないか?」と云い出し、散々ぱら裁判を引っ掻き回した。
 一回目の取り下げに対しては「無効」と断じた大阪高裁もさすがに二度目の取り下げ(及び直後の無効申し立て)には呆れ果てたものか、「有効」と断じ、山田の死刑は二度目の確定を見た。
 こんな奴の面倒を見なければならない刑務官には心底同情する。それこそ刑務官の精神安定を気遣うべきだ。

 ちなみに山田には月刊『創』の編集者・篠田博之氏が接見を繰り返し、手紙のやり取りを続けている。この『創』及び篠田氏の詳細は書くと長くなるので割愛するが、山田は篠田氏に手紙を出す度に大阪拘置所の職員から「いじめ」を受けているとし、死刑囚への待遇改善を求め、死刑制度に反対する持論を展開し、それと戦う自分の苦しみと、戦う自分に酔っているかのような文章を綴っている。
 一方、自分が手に掛けた中学生2人への哀悼や謝罪や責任は全く無視している。かように山田は(云い分への正否はどうあれ)完全に自己のことしか顧みない自己中人間で、刑務官への逆恨み的な憎しみで凝り固まっている。
 簡単に「死刑囚の心身安定」を口にする人達は、こんな自己中・逆恨みモンスターと相対しなければならない刑務官の苦悩も少しは思いやって欲しい。中学生殺害の事実以外にも、取り調べや裁判における真摯ならざる態度、事件以前にも少年への性的暴行や服役を繰り返していた山田に心身の安定を図れる方がおかしいと云いたい。

 別の例を挙げると、麻原彰晃の面倒を見なければならなかった刑務官にも同情する。
 一切の意志を示さず、食事も排便も刑務官が面倒を見なければならなかった麻原の為にその周囲は並々ならぬ労苦と配慮を要した。例えば麻原が使用するスプーンは誤飲による窒息を防ぐ為に澱粉を固めて作った特製の物が食事の度に用意された。
 勿論排便もままならないから常時おむつを着用し、その下の世話も刑務官が為さねばならず、入浴させれば浴槽内で排便する始末だから、刑務官達は浴槽に入れる前に麻原を浴室で排便させ、大便は長靴で踏み砕いた後に排水溝に流し、排水溝にはその都度クレンザーを撒かねばならなかった。
 刑務官達はこんな作業を12年間も強いられたのだ。 麻原死刑執行によってこれらの労苦から解放されたことで刑務官達は心底ほっとしたことだろう。

 死刑囚に自らが受ける刑罰の意義を理解させる必要があるため、死刑囚の心身安定に最大限注意を払われ、その上での執行となることの意味が分からないではない。
 だが、決して自らの罪と向き合わない者や、大罪と刑罰への恐怖ゆえに自業自得で精神を病んだ者の安定迄図らなければならないとあっては、「過剰な死刑囚優遇」との批判は必然のものと云わざるを得ない。

 ざっくばらんに云えば、死刑囚の精神安定よりは、刑務官の精神安定の方が余程大切と思えるのだがね。


考察3 さっさと執行すれば済む問題
 これまた暴論だが、

 「死刑囚の心身安定など知ったこっちゃないし、いつ訪れるか分からない安定に周囲がやきもきするぐらいなら、さっさと執行して終わらせちまえ!」

 という事だ。
 確かに長期間の拘留による拘禁反応で死刑囚が精神を病むこともあるだろう。頭から病んでいる様な奴もいよう。詐病だって考えられる。
 だが、病んだのは誰のせいだ?という話だ。そして身勝手に病んだことで多くの関係者がその改善・治療・配慮の為に翻弄されるのである。万が一にも詐病であることがはっきりした際には、それを理由に即座の執行に踏み切って欲しいぐらいだ。

 「死人に口なし」という考え方や、「死んだら終わり」と云う考え方は決して好きじゃないが、自業自得で死を命じられた者の為に周囲が要らざる苦労を強いられるぐらいなら、さっさと終わらせてやった方が周囲の為であり、死刑囚の為でもあると俺は考えるのだが、どうだろう?

 裁判にも云えることだが、「精神を病んでいる。」という事は決して免罪符でもなければ、特権でもない。精神の病に苦しみつつも法を犯すことなく、一生懸命に生きている人間の方が遥かに多い。法の下の平等からも、精神の傷害を過剰に考慮することは精神を病みつつも法を守って生きている人への侮蔑や差別につながりかねないとも考える。

 それが詐病なら、尚更だろう。



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令和三(2021)年一一月三日 最終更新