第伍頁 小山田信茂と織田信忠……それぞれの主想いが裏目に

反故にされた人物小山田信茂
反故にした人物織田信忠
反故にされた瞬間天正一〇(1582)年三月二四日
反故にした背景信長の命による甲州勢徹底駆逐
卑劣度
騙し度
止む無し度
反故のツケ武田家残党不服従
不幸な対決 天正一〇(1582)年三月一一日、甲斐天目山の麓にて武田勝頼・信勝父子が自刃した。
 このとき、勝頼室の佐代姫(北条氏政妹)並びに跡部勝資(あとべかつすけ)、長坂釣閑斎光堅(ながさかちょうかんさいみつがた)、秋山紀伊守等が殉死した。
 更にこれに戦後して滝川一益隊との最終決戦で土屋昌恒、小宮山友晴、安倍勝宝(あべかつとみ)等が激戦の果て討死。殊に土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残す大奮闘の果てに散った。
 かくして清和源氏源新羅三郎義光以来の甲斐源氏の名門・武田家は滅亡した(傍流や他家に逃れていた者が信玄の血を現在に残してはいる)。

 実の所、薩摩守はこの戦いを「天目山の戦い」と呼ぶのを好まない。それはこの戦いが、戦いと呼べるような双方が視力を尽くしたぶつかり合いに程遠く、一方的な殲滅戦だったからである。
 つまりは残党狩りに近かったからに他ならず(実際に残党狩りも多かった)、蔑称である「武田崩れ」の方が余程しっくり来るが、それはそれで武田勝頼がチト可哀想な気もする。

 個人的な感傷はさて置き、武田末期において最期の最期まで奮戦し、絶望的な状況下で誇りを失わずに散った数十名の近臣(多くは女中)がいた一方で、身内や股肱でありながら早期に勝頼(←対象が武田家ではないことに注意)を見限った者や、土壇場で滅亡の供行きを逃れんとした者も多く、薩摩守が天目山の戦いを戦いと見るのに否定的なのもその点にある。
 武田家滅亡の序章には御親類衆筆頭・穴山梅雪(信君:母は信玄の姉で、正室は信玄次女)の離反に端を発し、滅亡時の常とも、歴史の悲劇とも取れる裏切り・離反が続発した。
 所謂、「櫛の葉現象」が武田家にも数多く見られたのだった。
 そしてこの頁で、「歴史の重大な反故」として最後の最後に武田勝頼を裏切った小山田左兵衛尉信茂(おやまださひょうえのぶしげ)織田信忠に注目した。


 詳細は『菜根版名誉挽回してみませんか』の「武田勝頼」の項目に譲るが、勝頼は数奇な出自と、父・信玄の負の遺産を背負い、偉大過ぎる敵・織田信長・徳川家康の手練手管に敵し得ず、父以上の戦上手でありながら、御親類衆・国人衆の離反を招き、長篠の戦いに父以来の重臣を失い、滅亡の道を歩んだ(と薩摩守は見ている)。

   いずれにせよ前述した様に信玄の甥で駿河江尻城主でもある穴山梅雪の裏切りを皮切りに、同じく信玄の婿(つまり勝頼にとって義弟にあたる)木曾義昌も離反し、勝頼はこれを討たんとしたがそこに織田信忠を大将とする武田討伐軍(先鋒:森長可・木曽義昌他、本隊:川尻秀隆他、軍監:滝川一益)が東美濃より木曽路を経て信濃に攻め入った。

 多くの身内・家臣が離反する中、勝頼の弟・仁科五郎盛信だけが徹底抗戦した。
 寄せての大将・信忠は盛信の同母妹・松姫(信玄五女。後の信松尼)がかつての婚約者であったことから彼を死なせたくない、と考え、僧侶を降伏勧告の軍使として派したた。
 が、盛信は僧侶の耳と鼻を削ぎ落として拒絶の意を示し(←お坊様に何てことを……)、最後の最後まで戦って切腹して果てた。
 松姫との縁から当初信忠は武田家と事を構える事を良しとしていなかった。だが織田家と武田家の戦いが避けられないと悟るや、「他の者には討たせたくない!」と考えたのか、盛信自刃後は殲滅の鬼と化した。


 天正一〇(1582)二月二七日夜、勝頼の元に織田信忠の密書を持参した小山田信茂が参上した。
 信忠の密書は降伏勧告で、武田家にもう先がないことを説き、織田家は勝頼に遺恨を持つも、武田家家臣に遺恨はない故に降伏すれば所領を安堵し、織田家家臣とする、としたためられていた。
 芸の細かいことに、書状には「勝頼は滅ぼすが、名誉ある武田家は滅ぼさない」(つまり武田家の血を引く別の当主を立てる)旨が記され、書状の内容に相違がない旨を記した穴山梅雪の添え状まで付けられていた。
 信茂は密書が来たことを勝頼に知らせることで異心無きを示したが、信茂同様に密書を持参したのは真田昌幸だけだった。
 武田家の情勢や梅雪の暗躍からして信茂や昌幸以外にも信忠からの密書が来ていた者が数多くいたであろうことは想像に難くなかったが、両名以外からの注進がないことに勝頼は家臣団瓦解の深刻さを悟った。

 真田昌幸は「甲斐国にて結束なき抗戦は不利」と見て、勝頼に自領である上野吾妻城に退き、上杉景勝と手を組んだ抗戦を勧めた。
 だが、小笠原信嶺・木曾義昌といった信濃衆に裏切者が多かったことから、同じ信濃出身である昌幸を勝頼側近達は昌幸を信用せず、「吾妻城までは雪の深い遠路を歩まねばならず、御館様に甲斐を捨てさせる訳にはいかない。」と云って反対した。
 他国人を疑った勝頼側近も先々々代・武田信縄の娘(つまり信玄の叔母)を母に持ち、信玄と従兄弟にあたる信茂は信用した。
 信茂の所領である甲斐国都留郡郡内(現在:山梨県大月市賑岡町)の岩殿城に勝頼と供に向かうことを決し、昌幸は岩殿城に万が一があった時に備えて吾妻城に向かった。


 三月三日、勝頼が未完成の新府城に火を放って古府中を後にするや、それを追って三月七日に織田信忠軍が甲斐に雪崩れ込んだ。
 この襲撃で一条信龍(信玄弟)も捕らえられ、勝頼主従は寺に泊まり、山にさまよい、郡内岩殿城を目指した。
 道中、勝頼に同行する信茂の元に、信茂の身内にして、城代である小山田八左衛門尉行村からの使者が来た。
 八左衛門は事態の急変に動転して勝頼主従を向かえる準備がままならないので城主である信茂に戻ってきて欲しがっているとの旨が使者から伝えられた。

 信茂は城代の不甲斐なさに嘆息して勝頼に出迎え準備の為に岩殿城に戻る許可を求めた。既に信茂の母を初めとする十数名が人質として同行していたので、勝頼は信茂一人が一足先に岩殿城に戻ることを怪しまなかった。
 ところが、城へ戻ると信茂は城代である小山田八左衛門に軟禁状態にされた。既に岩殿城へは梅雪の調略の手が延びており、八左衛門以下城兵達は信茂の意に反して勝頼を見限っていた。

 三月九日、笹子峠駒飼にて信茂からの援軍を待つ勝頼の元に八左衛門がやってきて勝頼に謁し、明朝、信茂自身が迎えに来ると述べた。
 だが、この報告は偽りで、彼等は夜陰に乗じて人質だった信茂の母を連れて行方を暗ました。

 三月一〇日、信茂謀反が明らかとなり、勝頼一行は行場を失い、それに前後して家臣も次々と離反。土屋昌恒の進言で天目山棲雲寺を目指し、最期の戦いに挑んだ。
 もはや勝頼に生き延びる希望はなく、勝頼は武田一族所縁の地・天目山を目指し、せめて一六歳の嫡男・太郎信勝を信濃の真田昌幸のもとに落ち延びさせんとしたが、信勝は甲斐国人すら武田家に背を向けた状態で他国に逃れるを潔しとせず、勝頼と供に討死することを願った。
 武田家の滅亡はこの翌日のことであった。信茂信茂なりに勝頼を想い、八左衛門は八左衛門なりに信茂を想った、各々の主想いが裏目に出たのは歴史の大いなる皮肉としか云い様が無かった(←これが云いたかった)


 一方、古府中を制圧した織田信忠は一条信龍・武田信廉等を捕らえ、三月一四日には勝頼父子の首を得た。
 信忠は各地に潜む武田家一族・国人衆に廻状を発した。
 曰く、

 「降伏すれば身の安全を保障し、恩賞を与えん。」

 というものだった。
 勿論これが大嘘だったから、本作に織田信忠の名前が出て来るのだが(苦笑)。


理不尽な反故 大嘘の廻状を信じて古府中に出頭した武田家御類衆は全員首を打たれた。
 前述した様に本来、信忠は武田信玄の五女・松姫を許婚としてた縁から、人質兼信玄養子だった弟・勝長(信長五男)とともに武田家に対しては好意的だった。
 実際、信州高遠城では五郎盛信とは戦うのを嫌がって降伏勧告を事前に行っているし、武田家滅亡後に、盛信の娘達を連れて武蔵八王子に潜んでいた松姫に、改めて妻として迎えたい旨の書状を送っているので、顔を合わせたことが無かったとはいえ、松姫に対する愛情は終生持ち続けていたと見られる。
 武田家中にそんな信忠に対する甘えがあったかどうかははっきりしないが、既に勝頼の従兄である穴山梅雪や義弟・木曾義昌が織田軍に降って命を存えていることに望みを託したであろうことは想像に難くなかった。

 だが甲斐に入ってからの信忠は以後の助命約束を一切反故にした。

 武田征伐の総大将は織田信忠だったが、勿論数々の反故の背景には武田家殲滅を図る信長の指示があり、信長は信忠補佐を川尻秀隆滝川一益に命じてもいた。
 故に両名も信忠の手先となって武田残党の殲滅に尽力した。
 武田一族は降伏した一条信龍、武田信廉が降伏後に首を打たれ、盲目ゆえ仏門に入っていた竜芳(信玄次男)は自刃した(その息子の顕了信道は逃亡に成功し、信玄の血を今に伝えている)。
 典厩信豊(武田信玄の弟である信繁の嫡男)は家臣の下曽根覚雲斎に裏切られて殺された。
 そして最後の最後に勝頼を裏切ることになってしまった小山田信茂は人質として嫡男を連れて三月二四日に古府中の信忠の元に出頭したが、それに対して信忠信茂「古今未曾有の不忠者」と罵って甲斐善光寺にて切腹させた。
 武田勝頼に人質として差し出されていた所を八左衛門が計略を用いて助けた信茂の老母も、妻・嫡男(八歳)・長女(三歳)とともに処刑されたはのは歴史の皮肉だろうか?
 反故ついでに付け加えると、武田信豊を殺してその首を手土産に織田勢に降伏した下曾根も不忠を咎める形で殺された。当事者達にしてみれば、「(助かる為に)どないすりゃよかったんや?」と云いたかったことだろう。



忌まわしき余波 如何なる戦争も降伏のタイミングは難しい。
 御家滅亡時には櫛の歯が削れるが如く、鼠が沈みかけた船から逃げ出すが如く、次々と家臣が離反するのは歴史の常だが、それ以前に気脈を通じているものはまず助かる(後々に嫌疑をかけられて殺されることも多いが)。
 しかしながら敗色が濃厚になってから命惜しさに投降するものはまず信用されない。故にそのタイミングの分かれ目は決して刹那的ではないが、難しい。
 大雑把な例を挙げれば、江戸時代において関ヶ原の戦い前から徳川家康に従っていた大名家は譜代大名、戦後に従った大名家は外様大名とされたことを挙げれば分かり易いだろうか?

 それゆえ上記に見て来た様に、織田信忠の武田征伐は事前に降伏勧告が為されていたにも関わらず、織田勢に刃を向けることなく降った武田信廉を初めとする武田一族、小山田信茂を初めとする武田家中が数多く、投降後にその首を刎ねられた。
 勿論そのツケは回ってきた。それも僅か数ヶ月で。
 武田家滅亡から三ヶ月も経たない天正一〇(1582)年六月二日、京都本能寺にて本能寺の変が勃発し、信長は寺内で切腹して果て、これを助けんとして妙覚寺から二条城に駆け付けた信忠もまた力尽きて勝長とともに自刃した。
 武田征伐にて反故を働いた張本人は横死を遂げたが、それに追随した者達が反故のツケを払わされた。


 少し整理すると、武田征伐完了後、武田領は参戦した者達の間で以下の様に分配された。
地域統治者
甲斐本貫地穴山梅雪
本貫地を除く全土川尻秀隆
信濃小県郡滝川一益
佐久郡
諏訪郡川尻秀隆
木曾谷木曾義昌
筑摩郡
安曇郡
高井郡森長可
水内郡
更科郡
埴科郡
伊那郡毛利長秀
駿河全土徳川家康
上野全土滝川一益
備考 川尻秀隆の旧領・岩村城は団忠正に、森長可の旧領・美濃兼山城は実弟・森蘭丸与えられた。

 上記の人物の内、武田家に対する反故のツケを支払わされたのは信忠軍にて重きを為し、恩賞も大きかった川尻秀隆滝川一益だった。
 表の人物の中でも、徳川家康は依田信蕃を信長の処刑命令から救ったり、と武田家中を数多く保護していたので余り恨まれていなかった。
 森長可・毛利長秀は副将格より更に格下で、木曾義昌は本領安堵の色合いが濃く、穴山梅雪は本能寺の変の折に領国に逃げる途路で野党に襲われて斬り死にしていた。

 では甲斐を治めた川尻秀隆と、上野を治めた滝川一益には三ヶ月前の反故に対して如何なるツケが待っていたのであろうか。


 まず甲斐統治において信忠同様に、偽りの降伏勧告で呼び寄せた残党を次々に抹殺していた川尻秀隆には武田家重臣・山県三郎兵衛昌景の旧臣・三井弥一郎率いる残党が牙を剥き、天正一〇(1582)年六月一四日、秀隆は内外に敵の攻撃を受け、抵抗叶わず切腹して果てた。
 一方、滝川一益は上野の地侍の恨みを買っており、「信長死す」の報を受けて京都に駆け付けんとした際に地侍達の妨害に遭って多くの兵を損じた上に明智光秀討伐はおろか、光秀討死の二週間後に行われた清洲会議(信長・信忠亡き後の織田家の家督を決め、家中の領土分配を行った)にも間に合わず、一益は織田家における発言権を大きく衰退させた。

 ある程度の殲滅戦は戦国の習いだったかもしれないが、その後の統治を考えれば降伏勧告の反故がもたらすツケはかなり大きいと云えよう。


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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新