の「武田勝頼」の項目に譲るが、勝頼は数奇な出自と、父・信玄の負の遺産を背負い、偉大過ぎる敵・織田信長・徳川家康の手練手管に敵し得ず、父以上の戦上手でありながら、御親類衆・国人衆の離反を招き、長篠の戦いに父以来の重臣を失い、滅亡の道を歩んだ(と薩摩守は見ている)。不幸な対決 天正一〇(1582)年三月一一日、甲斐天目山の麓にて武田勝頼・信勝父子が自刃した。
反故にされた人物 小山田信茂 反故にした人物 織田信忠 反故にされた瞬間 天正一〇(1582)年三月二四日 反故にした背景 信長の命による甲州勢徹底駆逐 卑劣度 六 騙し度 八 止む無し度 三 反故のツケ 武田家残党不服従
このとき、勝頼室の佐代姫(北条氏政妹)並びに跡部勝資(あとべかつすけ)、長坂釣閑斎光堅(ながさかちょうかんさいみつがた)、秋山紀伊守等が殉死した。
更にこれに戦後して滝川一益隊との最終決戦で土屋昌恒、小宮山友晴、安倍勝宝(あべかつとみ)等が激戦の果て討死。殊に土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残す大奮闘の果てに散った。
かくして清和源氏源新羅三郎義光以来の甲斐源氏の名門・武田家は滅亡した(傍流や他家に逃れていた者が信玄の血を現在に残してはいる)。
実の所、薩摩守はこの戦いを「天目山の戦い」と呼ぶのを好まない。それはこの戦いが、戦いと呼べるような双方が視力を尽くしたぶつかり合いに程遠く、一方的な殲滅戦だったからである。
つまりは残党狩りに近かったからに他ならず(実際に残党狩りも多かった)、蔑称である「武田崩れ」の方が余程しっくり来るが、それはそれで武田勝頼がチト可哀想な気もする。
個人的な感傷はさて置き、武田末期において最期の最期まで奮戦し、絶望的な状況下で誇りを失わずに散った数十名の近臣(多くは女中)がいた一方で、身内や股肱でありながら早期に勝頼(←対象が武田家ではないことに注意)を見限った者や、土壇場で滅亡の供行きを逃れんとした者も多く、薩摩守が天目山の戦いを戦いと見るのに否定的なのもその点にある。
武田家滅亡の序章には御親類衆筆頭・穴山梅雪(信君:母は信玄の姉で、正室は信玄次女)の離反に端を発し、滅亡時の常とも、歴史の悲劇とも取れる裏切り・離反が続発した。
所謂、「櫛の葉現象」が武田家にも数多く見られたのだった。
そしてこの頁で、「歴史の重大な反故」として最後の最後に武田勝頼を裏切った小山田左兵衛尉信茂(おやまださひょうえのぶしげ)と織田信忠に注目した。
詳細は『菜根版名誉挽回してみませんか』
国 | 地域 | 統治者 |
甲斐 | 本貫地 | 穴山梅雪 |
本貫地を除く全土 | 川尻秀隆 | |
信濃 | 小県郡 | 滝川一益 |
佐久郡 | ||
諏訪郡 | 川尻秀隆 | |
木曾谷 | 木曾義昌 | |
筑摩郡 | ||
安曇郡 | ||
高井郡 | 森長可 | |
水内郡 | ||
更科郡 | ||
埴科郡 | ||
伊那郡 | 毛利長秀 | |
駿河 | 全土 | 徳川家康 |
上野 | 全土 | 滝川一益 |
備考 | 川尻秀隆の旧領・岩村城は団忠正に、森長可の旧領・美濃兼山城は実弟・森蘭丸与えられた。 |
令和三(2021)年五月二〇日 最終更新