日本史賢兄賢弟

第拾頁 真田信之und真田幸村…………驚異的長寿と驚異的奮闘


名前真田信之(さなだのぶゆき)
生没年永禄九(1566)年〜万治元(1658)年一〇月一七日
通称一当斎
真田昌幸
山手殿
一家での立場嫡男
主な役職従五位下・伊豆守、従四位下侍従



名前真田信繁(さなだのぶしげ)
生没年永禄一〇(1567)年〜慶長二〇(1615)年五月七日
通称源次郎、真田幸村
真田昌幸
山手殿
一家での立場次男
主な役職従五位下・左衛門佐


兄弟関係
血筋真田氏
真田昌幸
兄弟関係同母兄弟
年齢差一歳違い



兄・信之
 永禄九(1566)年、武藤喜兵衛(真田昌幸)を父に、その正室・山手殿(宇多頼忠の娘)を母に、嫡男として生まれた。幼名・源三郎(げんざぶろう)。
 父が信濃の国人として甲斐武田家に臣従していたので武田家の人質として幼少期を過ごしたが、父が信玄に可愛がられていたこともあって、冷遇ではなかった。

 天正三(1575)年五月、長篠の戦いで伯父の真田信綱・昌輝が戦死した為、父・昌幸が真田姓に復し、四年後の天正七(1579)年に武田勝頼の嫡男・信勝と供に元服。信玄の一字を賜って一四歳で真田信幸と名乗った。

 天正一〇(1582)年三月一一日、織田信長の手によって主家である武田家が滅亡。信幸は信州上田の父の元へと逃れた。
 程なく真田家は信長に臣従したが、三ヶ月も経たない同年六月二日、その信長が本能寺で横死した(本能寺の変)。
 これによって旧武田領を巡る周辺大名の諍いは激化し、真田家はその後短期間に織田→北条→徳川と渡り歩き、上杉景勝・北条氏直の軍勢と上野沼田・信州小県(ちいさがた)を転戦した。

 天正一三(1585)年、父・昌幸が沼田領を巡る家康からの要求を拒絶すると今度は上杉氏に臣従。信幸は父と共に戸石城に戦い、三〇〇の寡兵で百戦錬磨の徳川軍に大勝するという快挙を遂げた。
 最終的に、昌幸は豊臣秀吉に臣従。天正一七(1589)年に家康との和睦が成立し、真田家の立場は徳川氏の与力大名となった。
 これが縁で家康に才能を認められた信幸は、家康の養女・小松姫(実父は徳川家の重臣・本多平八郎忠勝)を娶った。

 天正一八(1590)年、小田原征伐では上野松井田城攻めで戦功を挙げ、戦後、晴れて沼田が真田領として正式に認定され、信幸は沼田城主となった。
 文禄三(1594)年一一月二日、従五位下・伊豆守に叙任。文禄・慶長の役では肥前名護屋まで赴いていた。

 やがて豊臣秀吉が世を去ると、豊臣家中は武断派と文治派が対立。慶長五(1600)年に家康が上洛命令に従わない上杉景勝を征伐せんとして会津に向かうと、失脚していた石田三成が挙兵した。
 家康は」下野小山でその事実を従軍大名に告げ、大坂に戻って石田方についても恨まない、とした。軍議は事前に根回しを受けていた福島正則が家康合力を誓うと、諸大名は次々に家康に従う旨を口にした。
 だが、この波に盲目的に迎合しなかったのが真田家だった。

 家康に付くか?三成に付くか?を巡って父子・兄弟は東西に別れることを決めた。
 有名な話だが、どちらが勝っても御家が残るよう計らった小豪族の黄金パターンだった。誰がどっちに付くかに関しては各々の妻の縁が左右した。
 三成の妻の姉妹を妻に持つ昌幸と、三成の親友・大谷吉継の娘を妻に弟・幸村(信繁)が西軍に付く為に陣を離れ、家康養女を妻としていた信幸は東軍に付いて陣に留まった。

 やがて家康は軍を二手に分けて西進。信幸は徳川秀忠軍に従軍して父と弟が籠る上田城攻めに加わった。その際に信幸は父に降伏を説いたが、これは失敗した。
 信幸は弟・幸村が防衛する戸石城の攻略を命じられたが、さすがに骨肉の争いに意欲的にならず、真田兵同士の消耗を避ける為開城請求の使者を派遣、幸村も兄の顔を立てて開城に応じたが、身は降らず、上田城へ撤退した。

 この戦いで徳川秀忠が真田軍に苦戦して足止めを食い、関ヶ原の戦いに遅参したのは有名である。信幸が昌幸の旧領に加え三万石を加増されて九万五〇〇〇石の上田藩主・沼田城主となったが、父と弟は処罰を受ける身となった。特に秀忠の怨みもあり、二人の命は風前の灯となった。
 これを知った信幸必死に昌幸・幸村の助命を嘆願した
 父と弟の助命を求めて信幸は加増を固辞し、徳川家への永遠の忠誠を誓い、名乗りも真田家代々の「」の字を捨てて、真田信之と改めた。
 義父・本多忠勝の働き掛けもあって、、昌幸・幸村は辛うじて助命され、高野山の九度山へ配流となった。
 だが真田父子に苦汁を飲まされた秀忠の恨みは後々も解けず、秀忠は生涯信之と眼を合わさず、慶長一六(1611)年六月四日に昌幸が亡くなった際に、信之が願い出た父の葬儀を執行は幕府=将軍秀忠に許可されなかった。

 そして慶長一九(1614)年、大坂冬の陣が勃発し、九度山を脱した幸村が豊臣方の将として大坂城に入城した。さすがに今度は信之も弟の許しを幕府に求めず、病気で出陣出来なかった自分に代わって嫡男・信吉と次男・信政を出陣させた。
 周知の通り、この戦いで幸村は壮絶な討ち死にを遂げたが、信之自身は益々幕府に信頼され、元和八(1622)年一〇月、信濃松代に加増移封され、沼田と合わせて一三万石の所領を得た。

 明暦元(1656)年、九一歳にしてようやく隠居。既に嫡男・信吉、嫡孫・熊之助(信吉の嫡男)が死んでいたため、次男・信政が家督を継承。
 だが万治元(1658)年二月に信政も死去。真田家では後継者争いが起こり、既に九三歳に達していた信之が解決の乗り出し、結果、信吉の次男が長男家として沼田を、信政の六男・幸道が上田の第三代藩主となった。
 上田を継いだ幸道は二歳の幼年だったため、信之が後見して藩政を執ったが、さすがに現代と比べても恐るべき長寿もここまでが限界、同年一〇月一七日に信之は天寿を全うした。真田信之享年九三歳。

 辞世の句:何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり


弟・信繁
 永禄一〇(1567)年、武藤喜兵衛(真田昌幸)を父に、正室・山手殿を母に次男として誕生。史書に残る本名は「信繁」で、これは父が武田信玄に願い出て、信玄の愛弟・武田信繁と同じ名を名乗らせてもらったものであった。勿論、例によってこの頁では「幸村」で通す(笑)。

 祖父・幸隆の代から甲斐の武田信玄に属し、伯父の信綱・昌輝が天正三(1575)五月に長篠の戦いにて戦死したため、父は真田姓に復して真田氏を継いだ。その父に従って甲府(甲府市)を離れ岩櫃に移った。

 天正一〇(1582)年三月一一日、武田家滅亡。武田家遺領は織田・徳川連合軍の支配下に置かれたが、その信長も三ヶ月も経たない同年六月二日に重臣・明智光秀の謀反にあって横死した(本能寺の変)。
 時代の急変により、甲斐・信濃・上野は徳川・上杉・北条が奪い合う用武の地となった。父・昌幸は短期間の間に織田 → 北条 → 上杉と和したり、離れたりした。

 天正一三(1585)年、父・昌幸と兄・信幸第一次上田合戦において徳川と激戦を繰り広げていた際、幸村は人質として上杉家にいた。
 やがて遺領を巡る醜い争いは羽柴秀吉(豊臣秀吉)の台頭で昌幸が豊臣政権に帰属する中、真田家は独立した大名として自立。上杉家を出た幸村は、今度は人質として大坂に移り、その縁で豊臣家重臣・大谷吉継の娘を正妻に娶った。
 天正一八(1590)年、小田原征伐に従軍し、石田三成の指揮下で岳父・大谷吉継等と忍城攻めに参戦した。

 文禄三(1594))年一一月二日、従五位下・左衛門佐に叙任。同時に豊臣姓も下賜された。

 慶長三(1598)年八月一八日、豊臣秀吉が薨去。
 慶長五(1600)年、五大老の徳川家康が同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすとそれに従軍。家康の留守中に五奉行の石田三成が挙兵して上杉軍とこれを挟撃せんとした。
 東西どちらに付くか?の難題に真田家はどちらが勝っても御家が残る様に、一族が別れて東西に味方することを下野犬伏で話し合った。
 幸村は父と共に西軍に加勢し、本多忠勝の娘を妻としていた縁で東軍についた兄・信幸と袂を分かつことになった。

 犬伏を出て、昌幸と幸村は居城の上田城に籠り、中山道を進軍する徳川秀忠勢を迎え撃った(第二次上田合戦)。寡兵でありながら昌幸・幸村は地の利と歴戦の戦経験を活かして、数に勝っても戦経験の少ない秀忠勢を翻弄し、時間を浪費させた。
 これが為に徳川軍主力ともいえる三万五〇〇〇の兵を率いた秀忠は関ヶ原の戦いに遅参すると云う大失態を演じたのは有名である。
 だが昌幸・幸村の活躍も空しく、西軍は大敗。昌幸・幸村父子死罪の危機に曝されたが、信幸と本多忠勝が必死に取り成した結果、高野山九度山への配流となった。

 蟄居生活は一四年に及び、その最中、慶長一六(1611)年に父・昌幸が罪を許されぬまま逝去。翌年、幸村は出家し、一見世に出ることはないかに思われた。
 だが、慶長一九(1614)年、徳川と豊臣の関係が悪化すると、豊臣秀頼は各地の豊臣恩顧の大名に加勢を要請した。しかしどの大名も御家大事に走り、秀頼は父・秀吉が残した莫大な金銀を持って大量の浪人を集めた。
 幸村はこれに応じ、徳川の監視も巧みにかいくぐって九度山を出て、子の大助幸昌と共に大坂城に入った。

 大坂城では後藤又兵衛・木村重成と並ぶ期待を寄せられ、赤備えに兵の身を固め、大坂城の南部を急所と見て出丸(真田丸)を築いて臨戦態勢に入った。
 そして大坂冬の陣が勃発すると真田丸の堅牢さを利して、前田利常・井伊直孝・松平忠直勢の強襲も防ぎ切った。
 だが、幸村達浪人衆の出撃案は軍中に通らなかった。徳川軍の砲撃がたまたま淀殿の側近くに着弾、怯えた淀殿から和を請う声が発せられた。
 これにより講和が成立したのだが、条件として徳川方は大坂城の外堀を埋めるよう要請し、豊臣方は騙される形でこれに応じた。

 勿論、これは老獪な家康が後に備えた大坂城弱体化計画だった訳で、双方が次の段階を考案していた。家康は埋立中の慶長二〇(1615)年二月に、幸村の叔父・真田信尹を派遣し、一〇万石を条件に徳川方に寝返るよう持ち掛け、断られると今度は「信濃一国を与える」と説得に出た。

 勿論、幸村が応じることはなく、大坂夏の陣においても幸村は豊臣軍大抵抗の中心人物となった。
 同年四月二九日、樫井にて塙団右衛門が戦死。五月六日、後藤又兵衛・薄田兼相・木村重成が討死。そんな中、幸村は又兵衛を死に至らしめた伊達軍の鉄砲騎馬隊をも打ち破った。
 だが、翌七日には、幸村自身、徳川家康をあわやという所まで追い込む程再三家康本陣を攻め立てたが、武運尽きて天王寺にて越前兵・西尾仁左衛門に討たれて戦死した。真田幸村享年四九歳。翌日、大坂城は落城し、秀頼・淀殿母子は自害し、近臣達(大野治長・毛利勝永・速水守久等)がこれに殉じた。その中には幸村の息子・真田大助もいた。

 かくして幸村は家康を倒せずにこの世を去ったが、その戦国最後の奮闘は日本人独特の判官贔屓も相まって、幸村からは真田十勇士と共に語られる講談や、生存伝説(拙作生存伝説参照)が数多く派生したのは周知の通りである。


兄弟の日々
 真田家は海野氏に連なる信濃の国人だった。信之幸村兄弟の祖父で、武田信玄に仕えた真田幸隆が始祖で、兄弟の父・昌幸は幸隆の三男だった。
 幸隆が始祖と云うことや、武田家が国人衆徒の繋がりを様々な意味で重んじたこともあって、幸隆の子供達=昌幸兄弟の頃から真田家は兄弟連携や結束、そして御家存続為に時には対立することを厭わなかった。
 そしてそこには権力に執着しない兄弟愛が顕著だったのが美しくも悲しい。

 普通に考えるなら、幸隆の後は嫡男・信綱が継ぐ訳で、実際最初はそうなった。
 三男の昌幸は、武田に仕える国人衆の常で人質として甲府に在住したが、昌幸は信玄に可愛がられ、決して苛酷な待遇ではなかった。
 信玄には才能面でも愛され、昌幸は信玄に「我が目である」と評され、名跡絶えて久しい甲斐の名家・武藤家の姓を名乗るよう命じられた。
 だが、長篠の戦いにて、昌幸の長兄・次兄(つまり信之幸村兄弟の伯父)信綱・昌輝が揃って討ち死にしたため、昌幸は期せずして真田家の当主となった。

 そんな経緯もあったからこそ、真田家には、分けても昌幸には「御家を残す」という念に格別の思い入れがあったのだろう。
 上記の系図を見て頂きたいが、昌幸は最初、信之の妻に亡兄・信綱の娘を迎えている。後々、親徳川の役割を担わせた信之を小夜姫(本田忠勝の娘。名目上は家康養女)と婚姻させたのは有名だが、同時に幸村を大谷吉継の娘と娶せ、新豊臣とした所に「表裏比興の者」と呼ばれた真田昌幸の狡猾にして賢明なところが垣間見られる。

 今更薩摩守が指摘するまでもないが、真田昌幸und幸村信之は好き好んで敵味方に分かれた訳ではない。またこの様な別れ方は真田家に限った話ではない。
 例を挙げれば、長篠の戦いに関連して徳川と武田の板挟みになった奥平家では奥平道文斎貞勝とその次男・貞国が武田に付き、嫡男・貞能とそのまた嫡男貞昌(後の奥平信昌)は徳川に付いた。
 関ヶ原の戦いでも水軍で有名な九鬼家では父・嘉隆が西軍に、息子・守隆が東軍に付いた。
 古くは保元の乱で摂関家・源氏・平家がいずれも一族が崇徳上皇方・後白河天皇方に別れて付いたのも同じ考えによるものだろう。

 それゆえ、いずれのケースでも戦の決着がつくと、勝者に属した側が、敗者に属した身内の助命に奔走した。だが、敗者に付いた者を待ち受ける運命という名の現実は厳しかった。

敗者に付いた側を襲った運命
戦名敗北方敗者に味方した者敗北後の運命
保元の乱崇徳上皇方藤原頼長敗走中に背に矢を受け戦傷死
源為義嫡男・義朝によって打ち首
源為朝伊豆大島へ流刑
長篠の戦い武田勝頼方奥平貞勝武田家滅亡後に処罰対象となったが、老齢により免除
奥平貞国武田家滅亡後に死罪
関ヶ原の戦い西軍九鬼嘉隆息子・守隆の嘆願で赦免されたが、その知らせが届く前に自害
真田昌幸嫡男・信之、本多忠勝の嘆願により、死を一等減じ、高野山に流刑
真田幸村兄・信之、本多忠勝の嘆願により、死を一等減じ、高野山に流刑

 実際、助命嘆願だけではなく、信之は昌幸と幸村の為に流刑後も様々な手配を行った。実際、信之の家族想いを信じればこそ、昌幸は関ヶ原の戦い決着直後の籠城・玉砕の意志を翻し、信之の助命嘆願を信じて開城に応じた。
 これは薩摩守の推測に過ぎないが、昌幸は自分一人なら徹底抗戦の道を選んだのではないか?幸村を確実に生かしたいと思ったからこそ開城に応じたのではないか?と考えている。

 ともあれ、慶長五(1600)年一二月一三日に昌幸・幸村は高野山に向かった。昌幸の正室は上田に残留、幸村の妻子、一六人の家来が従った。
 高野山は女人禁制の為、一行に幸村の妻がいたことから配所は九度山になった(九度山は女性の身で入山出来ない弘法大師様の母上様が、弘法大師様と会う為に設定された場所で、母親想いの御大師様が月に九度も母上様に会いに行ったので、この名がついたと云う)。
 昌幸・幸村は流人ながらも真田庵と呼ばれる屋敷が別々に与えられ、家臣の屋敷も同様だったが、それでも生活は苦しかった。
 信之、蓮華定院、和歌山藩主・浅野幸長からの援助で賄ったが、それでも、昌幸は信之に援助金を請う書状を一〇年間に二〇通以上も出した。一説には組み紐を綯うて糊口をしのいだと云われている。
 余談だが、刀の束にも巻いたその紐が有名な真田紐で、この紐の様に長い体躯を持つ寄生虫が真田虫と呼ばれることになった

 前述の書状に対し、信之が取った行動の有無や詳細は詳らかではない。が、親子・兄弟の絆が維持されたことは容易に想像される。
 他にも、流人としての昌幸と幸村の生活には監視も付いたが、それ以外は紀ノ川で魚釣りを楽しみ、京・和歌山へ自由に行く事も出来たらしい。
 それでも一〇年以上続いた流人生活は、老齢の昌幸に堪えた様で、昌幸は配流当初から信之を通して何度も赦免を願い出ていた。文面からは体調面に寄る辛さも見られるが、まだ若い幸村父子を案じたであろうことも想像される。
 しかし、結局両名の赦免が公式に叶うことはなかった。

 逆の考え方をすると、昌幸没後に幸村が豊臣方に付いて大坂城に入城したのは、それまでの兄・信之の好意・助力に反すると云えなくもない。だが、関ヶ原の戦いから早一四年、ここまで来ると「信之家=親徳川」及び「幸村家=新豊臣」という図式は確立したと見える。
 つまり、政治的には信之幸村は兄弟ではなくなったのだろう。それ故かどうかは定かではないが、信之幸村の為に助命を請うた様子はなく、幸村サイドではまだ幼かった彼の一子・大助までもが豊臣秀頼に殉じたのだろう。

 大坂の陣後、信之の余生は四三年にも及び、将軍家も四代目に達していたが、彼はその長き余生においても子孫の後見を続けるなど、一族想いの人生を全うしたと云えよう。


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令和三(2021)年六月二日 最終更新