日本史賢兄賢弟

第拾壱頁 結城秀康und徳川秀忠…………供に立て合った異母兄弟


名前結城秀康
生没年天正二(1574)年二月八日〜慶長一二(1607)年閏四月八日
通称越前黄門、越前宰相
徳川家康
お万の方
一家での立場次男
主な役職従四位下・左近衛権少将



名前徳川秀忠
生没年天正七(1579)年四月七日〜寛永九(1632)年一月二四日
通称江戸中納言
徳川家康
西郷局
一家での立場三男
主な役職中納言、江戸幕府第二代征夷大将軍


兄弟関係
血筋徳川氏
徳川家康
兄弟関係異母兄弟
年齢差五歳違い



兄・秀康
 天正二(1574)年二月八日、徳川家康を父に、お万の方を母に、次男として遠江浜松で生まれた。幼名・於義丸(おぎまる)。
 母・お万の方は、家康の正室・築山殿の侍女で、謂わばお手付きで於義丸ができた訳で、その為にお万は築山殿を憚って、重臣の本多作左衛門重次(鬼作左)に匿われる様にして中村正吉の屋敷で誕生した。

 浮気を隠す様にして世に生まれて来た於義丸という名前からして、「魚のギギに似ている。」と云う理由で付けられた、ひどいものだった。
 三歳になった折に、於義丸を不憫に思った兄・信康の計らいで家康との対面が叶ったが、その後然程待遇が良くなった訳でもなく、その二年後の天正七(1579)年九月一五日に理解者であった兄・信康は家康から切腹を命ぜられた。

 順番から云えば於義丸は後継者になる筈だったが、家康は信康切腹の五ヶ月前に生まれた長松丸(秀忠)の方を優遇し、於義丸は天正一二(1584)年の小牧・長久手の戦いにおける秀吉との和解条件として、養子に出される始末だった。勿論人質を兼ねていたのは云うまでもない。

 だが、戦国屈指の子煩悩男にして、長く実子に恵まれなかった秀吉に於義丸は愛された(その寵愛振りは拙作「秀吉の子供達」参照)。
 養子入り直後の同年一二月二二日、元服に際し、養父・秀吉からは羽柴姓、「」の偏諱を、実父・家康からは「」の偏諱を受けて、羽柴秀康(はしばひでやす)と名乗った。時に秀康一一歳。

 天正一五(1587)年、九州島津征伐において豊前岩石城攻め先鋒で初陣を飾った。直後に日向でも秀康は功績を挙げ、それを喜んだ秀吉から天正一六(1588)年に豊臣姓を許され、小田原征伐にも参加・活躍した。
 だが、その渦中である天正一七(1589)年、秀吉に実子・鶴松が誕生。即行で鶴松は豊臣家の後継者となったため、秀康及び秀吉の養子達は疎外対象となってしまった。

 同年、実父・家康が関八州へ国替えとなり、同時に秀吉から下野の名家・結城氏の当主・結城晴朝の養子となって、晴朝の姪・鶴子と婚姻して家督と一一万一〇〇〇石を継いだ。
 かくして結城秀康が誕生した訳である。

 関東に移ったことと、秀吉の元での武功もあって、秀康は一七歳にして実父・家康との距離が近くなった。
 養父・秀吉が慶長三(1598)年に没し、二年後の慶長五(1600)年に、関ヶ原の戦いが勃発すると、父の会津征伐に従軍し、石田三成が挙兵すると秀康は「上杉景勝牽制」という、地味ながらも重大な役割を与えられた。

 周知の通り、関ヶ原の戦いは東軍の大勝利となり、秀康は家康から越前北庄六七万石に加増移封された(加増石高は五〇万石を超え、参加諸将の中でも最大の加封と云えた)。
 慶長三(1603)年、家康が征夷大将軍に就任。翌慶長九(1604)年、秀康は松平姓を許され、松平秀康となった。
 しかし徳川姓と将軍の地位は翌慶長一〇年に弟・秀忠に継承され、秀康は権中納言に昇任し、これが極冠となった。

 慶長一二(1607)年、伏見城番を命じられたが、病に罹って三月一日に越前へ帰国。二ヶ月後の閏四月八日に息を引き取った。松平秀康享年三四歳。
 奇しくも越前に帰国した同日、弟・松平忠吉(家康四男)も病死しており、相次ぐ息子の若死には家康と秀忠を大いに嘆かせたと云われている。法号:孝顕院殿三品黄門吹毛月珊大居士
 たった一度のお手付きで秀康を生んだ母・お万の方は、側室とは名ばかりで、「家康の妻」と云うより、「秀康の母」としてのカラーが強く、秀康が息を引き取ると彼女は家康の許しも得ずに剃髪した。


弟・秀忠
 天正七(1579)年、徳川家康を父に、側室・西郷局を母に遠江浜松に誕生。幼名・長松丸(ちょうまつまる)。
 母の西郷局は家康の側室の中でも寵愛が深かった方で、長松丸を生んだ翌年にも男児(松平忠吉)を生んだ(家康の数多い側室の中でも二人以上子を産んだ者は三人だけ)。が、一方でこの年、長兄・信康が切腹を命ぜられて果てる、という悲劇も起きていた。

 本来なら次兄・秀康が後継者となるのが順序だったが、幼少時の秀康は家康に愛されず、天正一二(1584)年に、小牧・長久手の戦いにおける和睦の証として、豊臣秀吉に養子(兼人質)として出されたため、この時点で長松丸は、実質的な世子となった。

 天正一八(1590)年、小田原征伐に際して上洛。
 秀吉の妹で、家康の継室となっていた朝日姫に可愛がられていた縁からか、秀吉にも可愛がられ、程なく、元服に際しては秀吉から偏諱を受けて、徳川秀忠となった。
 秀吉からは中納言に推挙され、小田原征伐の戦功により、江戸入りした家康に同行したことで、「江戸中納言」と呼ばれた。

 文禄四(1595)年、秀吉の養女・江と結婚。江は浅井三姉妹の末妹で、長姉・淀殿は秀吉の側室だったので、秀忠は秀吉と義理の親子にして、義兄弟となった。また秀吉死後だが、秀吉の子・秀頼と秀忠の長女・千姫が婚姻したのだから、両者の間柄はかなり複雑だ(笑)。

 やがて慶長三(1598)年八月一八日、豊臣秀吉が没し、慶長五(1600)年に関ヶ原の戦いが勃発。
 父・家康が豊臣恩顧の大名を率いて東海道を進んだのに対して秀忠は、徳川家の主力三万八〇〇〇を率いて中山道を進んだが、その途中、信濃上田城にて真田昌幸・幸村父子の妨害に遭って日数を浪費し、関ヶ原の戦いに遅参する、という大失態を演じた。
 終戦の五日後である九月二〇日に大津に到着。早速秀忠は戦勝祝いと遅参謝罪を行わんとしたが、怒り心頭の家康はに面会を許さず、榊原康政の嘆願でようやく面会が叶ったのは更に三日後のことだった。

 慶長八(1603)年、父・家康が征夷大将軍に就任。
 不安がる豊臣家を安心させるように約慶長九(1604)年には秀吉との生前の約束を守って、豊臣秀頼と千姫を婚姻させた(同年、待望の嫡男・竹千代(家光)誕生)。
 だが、徳川氏の将軍職世襲を世に示す為、慶長一〇(1605)年徳川秀忠は二七歳にて家康から将軍職を譲られ、第二代征夷大将軍となった。
 同年二月、秀忠は関東・東北・甲信などの東国の諸大名一六万を率いて上洛の途に付き、三月二一日、伏見城へ入城。第二代将軍に任じられたのは四月一六日のことだった。
 将軍となった秀忠は江戸城に居住。家康は将軍を引退した大御所となって駿府城に移ったが、実権は…………(以下同文)。

 結局将軍になって九年が経過した慶長一九(1614)年の大坂冬の陣にても、翌慶長二〇(1615)年の大坂夏の陣にても総大将は家康が務めた。
 だが、この戦国最後の戦で豊臣氏が滅びると、秀忠は守成の才を発揮し出し、家康とともに武家諸法度禁中並公家諸法度などの制定に務めた。

 元和二(1616)年四月一七日、家康が薨去すると名実ともに将軍親政を開始。
 家康生前時には真面目な律儀者だったのが、辣腕家に変身し、大名統制を強化して福島正則等多くの豊臣恩顧の外様大名を改易し、三人の弟(義直・頼宣・頼房)、二人の子供(家光・忠長)を要衝の地に配置して周囲を固める一方で、松平忠輝・松平忠直・本多正純を改易・配流にする等容赦が無く、末娘・和子を後水尾天皇に入内させる等、積極的に動いた。

 元和九(1623)年、将軍職を嫡男・家光に委譲。ん?実権はどうしたかって?手放す訳ありまへんがな(笑)
 寛永三(1626)年一〇月二五日、娘婿でもあった後水尾天皇が二条城への行幸。それに合わせて秀忠は家光・忠長を伴って上洛、拝謁した。上洛中、ただ一人の妻・お江が逝去。忠長一人を先に江戸に帰らせたが、死に目には会えなかった。
 寛永七(1630)年九月一二日、孫の女一宮が天皇に即位し、外戚となった。

 寛永八(1631)年、次男・忠長の不行状を叱り、蟄居を命じたが、ここまでの慌ただしい動きが心身に応えたのか、不摂生をする生活でもなかったにもかかわらずこの辺りから体調を崩し、翌寛永九(1632)年一月二四日に薨去した。徳川秀忠享年五四歳。奇しくも姉さん女房だったお江と同い年での死だった。台徳院殿と諡された。


兄弟の日々
 結城秀康も、徳川秀忠も、母親は側室で、生まれた時には家康の正室・築山殿の腹から生まれた正真正銘の嫡男・信康という長兄がいた。
 ただ、信康自身、三河岡崎にいて、遠江に居住した秀康秀忠とは距離が有り、顔を合わすことは殆どなかった(秀忠に至っては一度も合わせていない可能性が高い)。

 そして秀康が一一歳、秀忠が六歳の時に、秀康は羽柴秀吉の養子となって家を出て、それが遠因となって秀康は生涯「徳川」の姓を名乗ることはなかった。
 そんな羽柴と徳川に別れた兄弟を親密ならしめたのは皮肉にも、父・家康最大のライバルだった秀吉であった。

 拙作「秀吉の子供達」でも触れたが、豊臣秀吉と云う男は長年実子に恵まれなかった反動か、子煩悩で、概ね養子でも出来愛した人物であった。
 養子になった秀康もそうだったが、実妹にして家康の継室となった朝日姫に可愛がられた秀忠もまた秀吉に可愛がられ、二重三重の姻戚関係が結ばれた。

 特に秀康は武将としてかなり剛の者に育ち、その膂力は秀吉の養子達の中では随一と云って良く、軽量短躯で膂力に恵まれなかった秀吉に愛された。同時にその器量が実父・家康をも見直させることとなった。
 ただ、若干粗暴に育ったことが後々二人の父から距離を置かれることになった(有名なエピソードとして、伏見の馬場で自分に並走した秀吉の寵臣を無礼打ちにしたり、碓氷峠の関所にて鉄砲所持で江戸に向かおうとした自分を止めようとした関守に成敗をちらつかせたりした、というものがある)。

 一方の秀忠関ヶ原の戦いにおける遅参を初め、武将としてはお世辞にも剛毅な面を見せたとは云い難かった。だが戦国武将としてはかなり温厚で、政治それも守成面に優れ、恐妻家にして愛妻家と云うのが一般的なイメージである(作家の故隆慶一郎は真逆な人物とみていたが)。

 能力面でも、辿った境遇面でも余りにも対照的な二人だったが、それでも兄弟仲は良かった。その要因は多分に両者が自分を良く知り、苦手分野に出しゃばらず、律儀さを重んじる性格が共通していたことにある、と薩摩守は考える。

 この考察の為には、家康の後継者決定を巡る背景を知る必要がある。
 慶長八(1603)年に征夷大将軍に就任して江戸に爆を開いた徳川家康は、後継者問題では相当頭を痛めた様で、関ヶ原の戦い直後にも重臣達に誰を後継者とするかを諮ったが、重臣達の意見も別れた。
 本多一族(忠勝・正信・正純)は秀康を推し、榊原康政・大久保忠隣は秀忠を推し、井伊直政は松平忠吉を推した。
 さすがに四男・忠吉の分は悪く、井伊直政が推したのも忠吉の岳父だったからで、忠吉自身、同母兄秀忠を出し抜こうとは思わなかった。秀康か?秀忠か?と云う家康の苦悩は秀康が二度も養子に行ったことや、泰平の世には武勇より守成が重んじられることから第二代将軍は徳川秀忠に決定した。

 かくなる経緯があったゆえに、秀康は主君となった弟を憚り、秀忠は臣下でも年長の兄を憚った。
 徳川家では将軍秀忠と、御三家となった義直(九男)・頼宣(一〇男)・頼房(一一男)の家系だけが徳川姓を許されたが、秀康は徳川姓でないにもかかわらず、「制外の家」として、御三家に劣らぬ別格の存在とされた(秀康一代限りの話ではあったが)。
 秀忠は三女・勝姫を秀康の嫡男・松平忠直に娶せ、前述の碓氷峠関所の一件では訴えて来た関守に秀忠は「(兄上に)殺されなかっただけ幸いであった。」と云い放つほどだった。

 一方の秀康も「律儀さ」、と云うか「筋を通すこと」に掛けては弟に劣らなかった。
 慶長一〇(1605)年の徳川秀忠将軍就任祝いの席にて、上杉景勝が秀康に上座を譲ろうとすると、秀康は「(官位が)同じ権中納言といえども、景勝殿の方がより早くその官位を受けている。」として、先官の景勝に上座を譲ろうとした為、互いに譲り合いになったのを秀忠の裁定で秀康が上座になったことがあった。
 これを見ていた人々は秀康の礼節・謙譲に感心したと云う。

 慶長四(1601)年に前田利家が死んで、豊臣武断派諸将が石田三成襲撃事件を起こし、家康がこれを仲裁した際は、隠居する三成を領国の近江佐和山まで秀康が護衛し、これに礼を感じた三成は名刀・五郎正宗を譲り、津山松平家(秀康後裔)の家宝とされた。

 またあるとき、江戸城に出仕した秀康秀忠が迎え、城門をくぐる際に、兄は主君である弟に先にくぐることを勧め、弟は家臣でも兄が先にくぐるべきであると進め、結局は両者並んで門をくぐったこともあった。

 また秀康は二度目の養父・結城晴朝の面倒を生涯見続けもした。秀康は正室・鶴子と不仲で結城家の血筋を残さず、秀康を初め彼の子供達も結城姓から松平姓に復したことで「結城家の家名を残す」と云う意味では「不肖の養子」だったが、結城家の菩提は秀康の子孫達が弔い続けた。

 かくも正反対のカラーを持った兄弟が、「律儀」の一点で似過ぎていたことが実に興味深い兄弟愛を織り成したと云えよう。

 最後に結城秀康の死について。
 兄弟の日々は慶長一二(1607)年閏四月八日に秀康が三四歳の若さで病没したことで終わりを告げた。
 秀康が家康に愛されなかったことや、秀忠に遠慮を覚えさせる立場にあったことから、拙作「「殺された」人達」に採り上げた様に、歴史小説において秀康は度々「暗殺された」ことにされた。
 前述した故隆慶一郎は「あんた徳川秀忠に恨みでもあるの?」と云いたくなるぐらい秀忠を酷評したストーリー展開を為しており、当然秀康を暗殺したストーリーを現しているが、薩摩守は秀康秀忠兄弟の律儀さや、タイミング(暗殺するなら忠吉の死から間を空けないと怪し過ぎる)の観点から隆氏の仮説には否定的である。
 確かに徳川秀忠は家康死後には数多くの大名を改易し、弟・忠輝、秀康の子・忠直にも容赦が無かった。だがそれほどの辣腕は家康生前には振るえたとは思えない。それ故身内に厳しかったのは彼の残忍性ではなく、公平性だろう。
 秀忠は、溺愛した次男・忠長が狩った鴨の吸い物を喜んで食そうとした際に、その鴨が江戸城西の丸で狩られた物と知るや、怒って膳を下げさせたことが有った。曰く、「西の丸は将軍の居住地。そこに鉄砲を打ちこむとは将軍への反逆。かようにして狩られたものなど食せぬ!」とのことだった。

 結論、運命に翻弄されつつも、互いが互いを想いあった兄弟だからこそ、結城秀康徳川秀忠は律儀さにこだわり続けた、と信じたい。一人の人間として。
 え?薩摩守の独り善がりな希望的観測?ダー(Да)、そう見て頂いて間違いありません。


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令和三(2021)年六月二日 最終更新