第拾弐頁 松平頼重und徳川光圀…………複雑家督と子息交換
兄
名前 松平頼重(まつだいらよりしげ) 生没年 元和八(1622)年七月一日〜元禄八(1695)年四月一二日 通称 龍雲軒源英 父 徳川頼房 母 久昌院 一家での立場 庶長子 主な役職 高松藩藩主
弟
名前 徳川光圀(とくがわみつくに) 生没年 寛永五(1628)年六月一〇日〜元禄一三(1700)一二月六日年 通称 水戸黄門、梅里 父 徳川頼房 母 久昌院 一家での立場 三男 主な役職 水戸藩第二代藩主、権中納言
兄弟関係
血筋 水戸徳川氏 父 徳川頼房 兄弟関係 同母兄弟 年齢差 六歳違い
兄・頼重
元和八(1622)年七月一日、水戸徳川藩祖・徳川頼房を父に、久昌院を母に、長子として生まれた。幼名・竹丸(たけまる)。
久昌院懐妊時、頼房の兄・尾張義直・紀伊頼宣にはまだ男子が生まれていなかった。
頼房は兄より先に子を持ったことを憚って、久昌院に堕胎を命じ、家臣の三木仁兵衛之次夫妻に預けた。
三木は頼房の准母英勝院に相談し、江戸麹町の三木邸で秘かに竹丸を出産、養育させた。後に弟・光圀懐妊の際も同様の手配が為され、竹丸は京に送られ大納言・滋野井季吉に預けられた。
天龍寺慈済院で学問を学ぶ日々を送った後、寛永九(1632)年に水戸に戻り、寛永一四(1637)年、一六歳の時に初めて父・頼房と顔を合わせた。
だがそれ以前に弟・光圀の方が先に父と顔を合わせ、既に水戸藩第二代藩主を継ぐことが幕府において決定していたため、既に徳川姓と藩主の座が巡って来ない立場となっていた。
翌寛永一五(1638)年、水戸家次男として時の将軍・徳川家光に謁見。松平の姓を与えられて松平頼重となり、従五位下・右京大夫に任官され、頼房の子として正式に認知された。
翌寛永一六(1639)年、常陸下館五万石を与えられ、寛永一九(1642)年に讃岐高松一二万石に転封となった。
石高こそ、弟・光圀が継いだ水戸家三五万石に及ばずとも、傍系で一二万石は決して低い石高ではなく、将軍名代として後水尾上皇に拝謁するなど、頼房長子に相応しい待遇を得ていた。
以後、官位昇進を重ねる日々の中、弟・光圀に請われて、寛文三(1663)年に長男・綱方(つなかた)を、綱方が夭折すると寛文一一(1671)に次男・綱條(つなえだ)を光圀の養子に出し、逆に光圀の長男・頼常を養子に迎えた。
上水道敷設・茶道発展に寄与する中、延宝元(1673)年二月一九日、頼常に家督を譲って隠居。九日後に出家して、源英(げんえい)と号した。
五代将軍徳川綱吉の治世で元禄文化が隆盛を極めた世相の中、元禄八(1695)年四月一二日、逝去。松平頼重享年七四歳。
弟・光圀
寛永五(1628)年六月一〇日、水戸藩藩祖・徳川頼房を父に、久昌院を母に、三男として誕生。二人の兄に先駆けて子供をもっとことを憚った頼房は六年前に久昌院が身籠った際と同様、堕胎を命じた(それでも久昌院とやることやり続ける頼房って………)。
つまり、兄・頼重も、弟・光圀もこの世に生まれる前に殺される筈だったが、いずれも三木仁兵衛之次が秘かに助け、三木邸にて養育された(時代劇『水戸黄門』に水戸藩士・、三木仁兵衛が良く登場するのはこの縁によるもの。もっとも、史実では三木は光圀の藩主就任前に没している)。幼名・千代松(ちよまつ)。
しばらくは「三木の孫」として育てられたが、やがて父に認知され、寛永九(1632)年水戸城に入城、翌寛永一〇(1633)年一一月に水戸藩世子に決定し、翌一二月には江戸の水戸藩小石川屋敷に入って世子教育を受け、翌寛永一一(1634)年には義理の祖母・英勝院(家康側室で、頼房の義母となっていた)に伴われて江戸城で将軍・徳川家光に謁見した。
寛永一三(1636)年、元服。将軍・家光からの偏諱を与えられて徳川光国と改めた(←注:誤植ではない)。時に光国九歳。
この頃まで、父に誕生を望まれなかったことで鬱屈したものか、所謂光国は不良少年と化していた。さすがにこれではいけないと思われたのか、元服に際して頼房は光国に伊藤友玄・小野言員・内藤高康の三名を傅役に付け、水戸藩家老・山野辺義忠(時代劇では「山野辺兵庫」として有名)の薫陶を受けさせた。
一八歳の時、司馬遷の『史記』における「伯夷伝」を読んで感銘を受け、以後、行いを改めるようになった。
伯夷・叔済の兄弟の話を見た光国は、兄・頼重を差し置いて水戸藩の後継者となったことに罪悪感を覚える様になった。本来なら藩主の座を頼重に返したいところだったが、藩主の座とは幕府から命ぜられたもので、自分勝手に委譲できるものではなかった。
そこで光国は、子供を作らず、兄の子を養子にして、兄の家系に水戸藩を継がせることにしたが、承応元(1652)年、手を付けた侍女・玉井弥智をあっさり懐妊させた(笑)。
それを知った光国は、自分が堕胎されかけた人間であったにもかかわらず、息子の堕胎を命じた。が、なんとここでも三木仁兵衛(之次の子)が殺されかけた命を救い、弥智を伊藤友玄に預けて出産させ、生まれた子・頼常は翌年に高松の兄・頼重の元に送られ、育てられた(光圀と頼常の対面は一二年後)。
明暦三(1657)年、駒込邸に史局を設置し、ライフワークとなった歴史書・『大日本史』の編纂作業に着手した。光国自身は講談や時代劇の様に諸国を漫遊せず、関東から出たことも無かったが、『大日本史』編纂の為の史料集めに奔走した二人の家臣が佐々宗淳・安積覚兵衛が助さん・格さんのモデルとなった。
寛文元(1661)年七月、父・頼房が水戸城で死去。父の死に際し、光国は「殉死は頼房公には忠義だが私には不忠」として、幕府に先駆けて殉死禁止令を徹底させた。
八月一九日、幕府の上使を迎え、正式に水戸藩二八万石の第二代藩主となった。
その前日、兄・頼重に「兄上の長男・松千代(綱方)を養子に欲しい。これが叶えられなければ、自分は家督相続を断り、遁世するつもりである」と、半ば脅して互いの子供を交換することを約した。
勿論、本来水戸藩主となる筈だった兄の家系に藩主の座を戻す為で、それが嘘ではない証拠に、寛文三(1663)年養子になった綱方が寛文一〇(1670)年に夭折すると、翌寛文一一(1671)年に頼重の次男・綱条を養子に迎えてまで「頼重家系の水戸藩主相続」にこだわった。
並行して寛文四(1664)年、光国の実子・頼常が頼重の養子となった。
藩主就任後、水道設置・寺社改革に尽力。寛文五(1665)年、明の遺臣・朱舜水を招いた(拙作「師弟が通る日本史」参照)。朱舜水からは学問だけではなく、実学からラーメン・ワイン・牛乳等を習い、師弟の日々は天和二(1682)年に朱舜水が没するまで続いた。
延宝七(1679)年、名前の「国」の字を同意の則天文字である「圀」に改め、徳川光圀となった(←ね、誤植じゃなかったでしょ?)。
従兄弟にして、同じ御三家の二代目である尾張光友・紀伊光貞とともに家光・家綱・綱吉の三代に仕え、蝦夷地との交易にも強い関心を持っていたが、光圀の隠居とともに立ち消えとなった。
元禄三(1690)年一〇月一四日、隠居して、養子の綱條に水戸藩主の座を譲った。翌一五日、朝廷より権中納言=黄門に任じられた。
一一月二九日江戸を去り、一二月四日水戸に帰城。翌元禄四(1691)年五月、西山荘にて農耕・飲酒・史書編纂の日々を送った。
元禄七(1694)年三月、徳川綱吉の命で隠居後初めて江戸に登城。一一月二三日、小石川藩邸にて幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、重臣・藤井紋太夫を自らの手で刺殺する、という謎の事件を起こした。
翌元禄八(1695)年一月、西山荘に帰郷。
元禄一三(1700)年一二月六日、食道癌で死去。徳川光圀享年七三歳。
兄弟の日々
松平頼重と徳川光圀という兄弟を考察するにおいて、重要な要因となるのは二人の父・徳川頼房である。そもそも頼重と光圀の兄弟が数奇な運命に翻弄され、後継者問題に頭を痛めたのも、頼房に原因があった(この際断言してやる)。
少し徳川頼房の人となりについて触れたい。
徳川家康最後の男児にして、御三家の一つ・水戸徳川家の藩祖となった頼房はかなり我が強く、血の気の多い男でもあった(その辺り、さすがは光圀の父である)。
一歳しか年の変わらない甥・家光とは悪友同士で、家康は末子の性格を案じ、秀忠に「頼房を大身にするな。」と遺言したと伝わっており、水戸藩は二八万石だったのが、頼房死後に三五万石になった。また頼房が権中納言に就任した際、前田利常・島津家久・伊達政宗と云った外様大名との同時就任だったことをゴネたため、頼房だけ翌年早々に中納言に昇進した、ということもあった(同じ家康の息子でも、結城秀康は同じ官位でも先にその地位に就いた上杉景勝を立てた)。
更には水戸藩だけ参勤交代のない「定府」だったのも、家光と親密だった頼房の我が通されたものだったらしい。
何か、書いていて頼房がとんでもない奴に思えて来たが、政治的力量はなかなかにあり、我が強い分筋を通そうともした。
年の近い身内である甥・家光、直近の兄・義直・頼宣がなかなか男児に恵まれない状況で、弟である自分が先に男児を持つことを憚ったことから、あろうことか久昌院が頼重・光圀を身籠った際に堕胎を命じると云う暴挙に出た。まあこれと殆ど同じことを光圀もやろうとしたから血は争えないものである。
ただ見方を変えれば、このとんでもない思考・言動も頼房が兄弟想いだったことに裏打ちされていたと云える。そしてそれも遺伝的に、思考的に光圀に大きく影響した。
胎児の時点で父に殺されかかった光圀は、親の愛に飢えて非行に走る現代の不良少年よろしく、荒れた少年期を送り、乱暴狼藉、吉原通い、果ては辻斬りまでやったという。
だが、その飛行に歯止めを掛けたのが兄弟愛の概念だった。その詳細は後述するが、光圀の人格形成には行動的にも遺伝的にも頼房の影響が大きいのは明白である。
頼重・光圀兄弟の関係、並びに光圀の人格形成に深く影響したものとして次に注目したいキーワードは「歴史」である。
前述した様に、光圀は中国漢代の史書・司馬遷の『史記』における「伯夷伝」を読んで感銘を受けた。
その伯夷・叔斉とは、古代中国・殷代末期の弧竹国の王子兄弟で、互いに相手を想い合って国君の位を譲り合い、最後には周への服従を拒んで揃って餓死したと云う、兄弟愛の代表選手の様な兄弟である。
この話から光圀は兄・頼重を差し置いての水戸藩後継者となったことで抱えていた気持ちとより真剣に向かい合うようになり、同時に学問に精を出すこととなった。
祖父・家康に似てか、更生した後の光圀は精力的に学問に取り組んだ。
実践を重んじる実学に注目し、当時中国で成立した異民族王朝・清帝国に滅ぼされた明の学者を招聘し、史局・彰考館を建て、食への関心から日本人で初めてラーメン・餃子・チーズ・牛乳酒・黒豆納豆を食べ、生類憐みの令発令下にも関わらず、牛肉、豚肉、羊肉まで食べ、知識を求めるにあたって相手の身分・出自に全くとらわれなかった。
要するに家康・綱吉・家宣同様凝り性だった訳である(光圀がライフワークとした『大日本史』の編纂は最終的に大正時代までかかり、水戸藩財政における大きな悩みの種として存在し続けた)。
ただ、その手の人間にありがちなのが、頑固に走り易い、という傾向で、光圀も例外ではなかった。
上記の様な背景と経歴を経て、光圀は自らの水戸藩主としての立場と、兄・頼重への負い目に本気で決着をつけることになった。
前述した様に、水戸藩主就任直前に兄と互いの息子をトレードしたのである。
本来なら、光圀は藩主に就任せず、頼重に藩主の座を譲りたかったが、藩主の座とは幕命によるものなので、勝手に放棄したり、委譲したりすることは叶わなかった。
そこで「元に戻す」と云う名目で、光圀は頼重の子を養子にもらい受け、自らの後継者とし、兄には自分の子・頼常を養子に送った。
ただ、このトレードはすんなりと云ったものではなかった。
トレードに際して、光圀は頼重と弟達を一堂に集め、自分の意志を述べた。
だが、頼重はさすがに頼房の長男で、光圀の兄であった。一度落としたものを今更受け取れるか!と啖呵を切った講談の頑固大工の如く、トレードを拒んだ。
だが、頑固さでは光圀も負けてはいなかった。聞き入れて貰えないなら、水戸藩を潰す!と啖呵を切り返したのであった(頑固な論争に巻き込まれた周囲は堪ったものではなかっただろうけれど)。
他の弟達の説得もあって、結局は頼重も折れ、水戸藩主の座は頼房長男の家系に戻った。
かくして頼房が残した後継者問題は平和裏に解決した。
だが、頑固兄弟が持ち合った性格が変わることはなく、頼重も光圀も自分らしく生きたが、そこに兄弟愛や身内想いが常にあったのは微笑ましい。
父の頼房が死の床に就くと光圀は自ら看病に当たり、頼房が息を引き取った後、三日間も食事を採らなかった。
頼重の子・綱方を養子とした後、綱方が夭折するとその弟の綱条を養子にしてまで約束を守らんとした。
江戸城内でも光圀節は炸裂しまくり、時の将軍・徳川綱吉に対しても、「兄上であられた家綱公の後を継いで将軍になられたのだから、次期将軍には上様の亡き兄上・綱重公の子・綱豊(後の家宣)殿を選ばれるべき。」との正統を強く訴え、生類憐みの令に反対する意を示す為、野犬二〇頭の毛皮を綱吉に送って仰天させたと云う。
また、大老・堀田正俊が殿中で従兄弟の稲葉正休に刺殺された事件では、事態に気が動転して、正休が刀を置いて神妙な態度に出たにもかかわらず数名がかりで刺殺した大久保忠朝等を怒鳴りつけたと云うこともあった。
正に光圀は光圀らしく頑固に、己に正直に、筋にこだわって生きた。遠く高松にて頼常を養子に西日本で藩政に勤しんだ頼重がそんな弟をどんな気持ちで見ていたかは定かではない。
ただ、父の思惑とこだわりに翻弄され、それでも兄弟を思う気持ちが強かったからこそ、強く生きながらも苦しみ抜いた頼重・光圀の兄弟が最後は隠居生活の中、平穏の内に生涯を終えたのはせめてもの救いとはいえないだろうか?
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令和三(2021)年六月二日 最終更新