第参頁 豊臣秀長・・・・・・秀吉暴走をただ一人止められた大和大納言

名前豊臣秀長(とよとみひでなが)
暴走を止めた主君豊臣秀吉
最終的な肩書き従三位大納言・大和城主(一一六万石)
竹阿弥
後継者豊臣秀保
暴走の止め方忠良篤実型
略歴 天文九(1540)年に木下藤吉郎の異父弟として、藤吉郎の継父・竹阿弥(ちくあみ)と藤吉郎の実母・なかの間に生まれた。幼名は小竹で、兄との年齢差は四年。長じて木下小一郎長秀 (←「長秀」は誤植ではない)と名乗った。
 俗に秀吉は継父の竹阿弥と仲が悪かったと云われているが、秀吉長秀はそれを払拭するかのような名コンビ・賢兄賢弟振りを発揮した。

 永禄五(1562)年に二三歳で兄と供に織田信長に仕えた小一郎は、要領の良い奉公で織田家の旧臣達に妬まれ、疎んじられる兄を良く補佐した。
 文武両道に優れ、それ以上に人格者として人に好かれる性格は折衝と内政にその能力を遺憾なく発揮し、墨俣築城斎藤攻め浅井朝倉攻略長浜統治毛利征伐にも秀吉を支え、目立たずとも秀吉になくてはならない片腕として活躍し続けた。

 天正一〇(1582)年の本能寺の変を契機に、秀吉が天下を取りに邁進する中、翌天正一一(1583)年に従五位下美濃守に叙任され、翌天正一二(1584)年に羽柴小一郎秀長 (←ねっ誤植じゃなかったでしょ)と名乗りを改めた。
 その後は日の出の勢いの兄に追随する様に天正一三(1585)年従四位上参議兼右近衛中将、天正一四(1586)年従三位権中納言、天正一五(1587)年従二位権大納言、とトントン拍子の出世を重ねた。

 兄・秀吉が関白・豊臣秀吉となると天正一三(1585)年より大和郡山一一六万石の城主となり、その血縁・身分・財力から「大和大納言」と称せられた。
 秀吉関白就任前後も人格を好まれ、外交と折衝に優れた秀長の能力は寺社仏閣勢力の強い大和、和泉、紀伊(奈良旧仏教勢力や雑賀衆)を平和裏に秀吉に服属させた(正確には不抵抗勢力たらしめた)。
 少なくともこれは武力一辺倒では絶対に出来ないことと云って良かった。

 穏やかな人柄は兄・秀吉からも、秀吉を恐れる諸大名からも頼られ、大友宗麟は秀長から「内々の儀は宗易(=千利休)に、公儀のことは宰相(である自分、秀長)に。」と教えられたことがあった。
 殊に徳川家康までが秀吉に膝を折るのに、上洛直後に秀長と接触しているのは特筆に価する。

 秀吉が北条氏を滅ぼして天下を統一した翌年の天正一九(1591)年一月二二日、丸で兄の天下統一達成をもって自らの役割を終えたかの様に、大和大納言豊臣秀長は薨去した。享年五二歳。
 秀吉にとって、可愛い弟として、頼れる身内としてまだまだ自分を支えて欲しかったところであり、出来る弟の死と、同年の愛児鶴松の夭折はいたく秀吉を落胆させた。



Stop! My Boss 豊臣秀長が薨じた天正一九(1591)年に、生前秀長が反対していた朝鮮出兵が兄の豊臣秀吉によって強行され、秀長とともに秀吉の重要な補佐官でもあった千利休は秀吉より切腹を命ぜられた。
 朝鮮出兵強行や千利休切腹には原因に多くの謎があり、秀長が存命していたとしても止められたとは云い切れないが、それでも豊臣秀長の死は豊臣家斜陽の第一歩だったと云っても過言ではない。

 主君であり、兄である豊臣秀吉は周知の通り織田信長の部将だった。
 その信長が本能寺の変で横死したことから兄は事実上の信長後継者となった訳だが、それ以前の秀吉には主君という名の存在が独走の余地を与えていなかった(部将時代の秀吉に独断専行が全くなかった訳ではないが)。
 だが、三法師(信長嫡孫)を擁して織田信孝、柴田勝家を倒し、大坂城と関白の権威と政治力をたてに織田信雄、徳川家康までも臣従せしめた(←異論はあると思うが)ことから権威と軍事力・政治力で諸大名の頂点にたった秀吉は天皇などの極僅かな例外を除けば誰に命に従う必要もなくなった。得てしてこういう時の人間は思い上がり易い

 かつての主君・織田信長に比べて、敵でも殺したり、降伏してきた者を苛烈に処罰したりしたことの少なかった秀吉だったが、賤ヶ岳の戦いの戦後処理では織田信雄に弟・信孝を切腹させ、九州征伐小田原征伐では九州・東北の小大名が数多く切腹・改易の憂き目を見た。
 前述の大友宗麟の例は、そんな重罰・厳罰の数々にそれ等を軽減していった秀長の影の活躍を裏打ちしていたと云える。


 また秀長がストッパーを務めたのは兄にして主君である秀吉に対してのみではない。
 賤ヶ岳の戦いや、小牧・長久手の戦いでは秀吉が柴田勝家・徳川家康と対峙する裏で秀長は、織田信孝・織田信雄の押さえに回り、敵軍の連携行動のストップに務めた。
 また、自らが領主を務めた大和は紀州と並んで寺社勢力の抵抗が根強い土地柄ながら、これを見事に治め、多くの大名が苦労した宗教勢力の反発もストップさせた。
 そしてこれは後々の話だが、秀吉死後、加藤清正・福島正則等を中心とした武断派と、石田三成・小西行長等を中心とした文治派の対立が、家康に突け込まれ、豊臣政権の弱体化・滅亡を招いたのを前田利家が防いでいたのは有名だが、秀吉存命中からこれを懸念し、その為の内部体制強化に務めていたのも秀長だった。

 文を綴っていて思うに、豊臣秀長こそが本作で取り上げている人物の中で一番のストッパーではないだろうかと思われてならない。



ストッパーたり得た要因 前頁の北条氏規の場合とほぼ同じことが云えるが、一言で云うなら「温厚な人柄」だろう。
 勿論この時代、ただ温厚なだけでは背後から刺されたり、足元を救われるのが落ちで、豊臣秀長は温厚なだけの人物では決してないのだが、苛斂誅求を極める厳罰の嵐の中、切羽詰った状態の人間である諸大名が一も二もなく頼り得たのは、その温厚な人柄による所が大きかった。

 別の要因を挙げるなら、豊臣秀吉が極めて身内を大切にする人間であったことも挙げられる。
 秀吉の生涯を詳細に見れば、継父・竹阿弥、実の甥にして養子の豊臣秀次とその一家の様に秀吉と仲が悪かったり、秀吉に害せられた身内も皆無ではないが、基本的に秀吉が身内に優しく、大切にする人物であったことは拙作『秀吉の子供達』に詳しく記している。

 そんな秀吉は異父弟・秀長に全幅の信頼を置き、権力者となっても、母・なかを大切にし、異父妹・朝日姫を家康に嫁がせる為、佐治日向と離縁させた事を詰られた時はぐうの音も出ないほど落ち込んだ。
 秀次一家を死に追い遣った際も、秀次の実父・三好吉房は讃岐に流しつつも、秀次の実母にして実姉のとも(出家後は日秀)には手を出さず、秀次の菩提を弔う為に嵯峨野に瑞龍時を建立することを許した。これは秀次が謀反人として処刑された事を考えるとこれは稀有な例であり、秀吉の姉と甥への想いが窺い知れる。
 そんな秀吉が不遇の足軽時代より陰に日向に自らを支え続けてきた弟を可愛いと思わぬ筈がなく、同時にその忠言に耳を傾けたであろうことは想像に難くない。
 「兄あっての弟」、「弟あっての兄」という兄弟関係が独裁者の数々の暴走を制止し得たのである。


 最後に挙げたいのは秀長の身の処し方である。つまり彼が第二位の立場に徹した事である。
 古来、大海人皇子(天武天皇)、足利義嗣、今川義元、上杉謙信、伊達小次郎(政宗実弟)、織田信孝、その他、兄を出し抜こうとして(或いは本人にその意志がなくとも周囲に担がれたりして)御家を騒がせたり、滅亡の憂き目に遭わせた例は多い。
 その点、秀長は政治、戦、文化、対朝廷工作のすべてにおいて兄を差し置いてでしゃばる事はなく、兄の懐刀に徹した。何せ、一昔前、豊臣秀吉を主人公にした伝記や歴史漫画に豊臣秀長の名が全く登場しないものが多数存在した。これは秀長が如何に兄の陰に徹していたかの証左と云えよう。
 少しイメージは異なるが、そのナンバー・ツー振りは、中華人民共和国の創業・守成の課程における毛沢東と、彼の懐刀に徹した周恩来総理の対人関係に似ているとも云える。

 これだけの要因があれば秀長がストッパーとして非の打ち所がの無いのも当然で、そんな豊臣秀長の死とともにすべての悪しき流れにストッパーがなくなったのは歴史の大いなる悲劇と云えよう。豊臣家にとっても、日本にとっても、アジアにとっても。



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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新