第肆頁 徳川家康………政略結婚の姐さん女房が弱点か?

名前徳川家康(とくがわいえやす)
生没年天文一一(1543)年一二月二六日〜元和二(1616)年四月一七日
役職江戸幕府初代征夷大将軍
恐れた妻築山殿(瀬奈)
恐妻要因人質時代のトラウマ?



略歴 超有名人物につき、表題にある夫婦の略歴のみ紹介(苦笑)。
 生涯に多くの妻妾を持ち、一六人の子宝に恵まれた徳川家康だったが、その家康が今川家の人質時代に正室に迎えたのが築山殿だった。
 「築山殿」という名は家康が三河の大名として独立に成功した後、築山御殿に彼女を置いたことで、そう呼ばれることになったもので、彼女の父は今川家重臣関口親永、母は今川義元の妹で、本名を瀬名といった。

 瀬名は伯父である義元から「鶴姫」と呼んで可愛がられ、その叔父の命で当時今川家の人質だった松平元康(徳川家康)に嫁いだ訳だが、瀬名家康より六歳年上で、婚姻が松平家を今川家の勢力拡大の為に懐柔せんとする政略的なものであったことは誰の目にも明らかだった。

 ただ、政略結婚なだけあって、元康瀬名の婚姻は松平家・今川家の双方にとってメリットがあった。
 この婚姻で元康は「義元の甥」となり、周囲の今川家中はそれまで「三河の城なし」と密かに蔑んでいた元康に対して慇懃になった。義元にしてみても桶狭間の戦いでまさかの横死を遂げていなければ尾張を征服し、洛中に向けて新たな勢力拡充及び勢力保持に尽力することとなっており、駿河・遠江・三河は信頼出来る身内で固める必要があった。
 この時点で義元は駿河の内政に関しては息子・氏真にその名で命令書を発給させており、三河を甥に押さえさせられるか否かはその後の領国経営円滑化を大きく左右したであろうことは想像に難くない。

 薩野守は過去作『師弟が通る日本史』にて、松平元康が雪斎禅師という最高の師を宛がわれたことから、彼の今川家における待遇が一般に抱かれているイメージほど悪いものでは無かったのでは?と考えているが、それは義元が元康を今川勢力圏内における有能な属国武将にせんとの意図によるもので、師とともに正室瀬名もまた、良く云えば身内待遇を与える為、悪く云えば今川傘下にがっちりした足枷とする為に娶せたものと考えられる。

 今川義元上洛に際し、元康は今川勢の先鋒として大高城への兵糧入れや、丸根砦攻めに活躍したが、この間、瀬名、そして二人の間に生まれた嫡男竹千代(信康)、長女亀姫は自身に替わる人質とされた。
 周知の通り、義元はこの上洛の途次、桶狭間の戦いにてまさかの討ち死にを遂げ、元康は「織田勢の追撃を防ぐ。」との理由をつけて故郷・岡崎城に籠った。勿論氏真は「すぐに戻って来い。」と命じ、元康がこの命令を無視したことで瀬名と二人の子供の命は危機に曝された。
 結局、元康が今川家家臣を攻め、その妻子を捕らえたことで人質交換の形で瀬名は夫の元に帰れたが、その後元康は名を徳川家康と改め、伯父の敵である織田信長と同盟を結んだため、駿河に残っていた父の関口親永は氏真から切腹を命じられた。

 信長と結んだ家康は遠江攻略に力を入れ、本拠を浜松に置き、岡崎は信康に任せ、瀬名は上述した理由で築山殿と呼ばれるようになって信康とともにあったが、そこには信康の正妻として信長の娘である徳姫がいた。
 只でさえ、古今東西嫁と姑の仲は難しいものがあるのに、「伯父の敵の娘」が常に息子といたのだから築山殿も堪ったものでは無かっただろう。
 一方、家康築山殿の侍女に手を付けて子(結城秀康)を産ませ、浜松ではお愛の方(秀忠・忠吉生母)を寵愛し始めた。当然築山殿は「正室」と云うより「世継ぎの母」としてのカラーの方が強くなり、夫婦仲は有って無きが如しとなった。

 やがて信康が武田家への内通や謀反への嫌疑から岳父・織田信長から害意を抱かれると、家康は信康に謹慎を、程なく切腹を命じ、それに先駆けて築山殿も軟禁後に家臣によって殺害され、夫婦生活は終わり、家康は後に豊臣秀吉の妹を継室に迎えるまで正室を持つことはなかった。



恐妻振り 徳川家康には秀吉ほどではないが、数多くの妻妾がいて、多くの側室に子を産ませた経緯からも、彼を「恐妻家」としても納得しない方は多いと思われる。
 ただ、家康が多くの側室を持ち、艶福家となったのは彼の人生の後半に入ってのことで、正室・築山殿の存命中は何かと彼女をはばかり、側室を持たない訳ではなかったが、どこか控え気味だった。

 まあ、松平元康としての今川家人質時代はやむを得なかったことだろう。
 只でさえ人質として行動の制限は大きく、主君の姪を妻に迎えている状態で他の女性に目移りすれば義元の心象も悪くなるだろうし、主君の甥となった元康の出世振りを喜ばない今川家中に足元を掬われる要因にもなりうる。
 ただ、桶狭間の戦い後に独立を取り戻した後なら、今川家とのしがらみを気にすることなく、勢力拡大の為にも新たな同盟相手や国内の国人衆と姻戚関係を結ぶことは重要政策とさえ云える。
 実際、息子・信康の正室に織田信長の娘を迎えている様に、織田家との結びつきは強めたし、築山殿の侍女・お万に手を出し、主に地侍の娘達を浜松に側室として囲っていた。ただ、自身の側室漁りに関してどこか築山殿の目を気にしていた。
 お万が出産するに際しては彼女が築山殿に害されるのを恐れて本多作左衛門に匿わせて秀康を産ませたが、考えてみればおかしな話である。
 現代より遥かに男尊女卑の風潮が強く、血筋を絶やさない為にも大名が幾人もの側室を持つのが常識だった時代に、夫のある女性に手を出す不義密通ならまだしも、独身女性を側室に迎えるのに刺客を放つなど、到底許される話ではない。
 当時の夫の立場なら、家康築山殿に対して堂々とお万を側室に迎えることを宣言出来た筈だし、お万に刺客を放ったことや、(真偽の程は不明だが)大賀弥四郎等と不義密通した噂を咎めて彼女を罰し、その行動を大きく制限することだって出来た筈である(ちなみに大賀弥四郎は鋸引きという残酷刑で処刑されている)。

 だが、家康はそうしなかった。

 さりとて築山殿を格別寵愛した訳でもなかった。
 浜松に籠り、岡崎を信康に任せたことで夫婦としての営みを持つでもなかった。勿論浜松にて築山殿の目や影響が及ばない場で側室を持ちまくり、子を為しまくった家康だったが、それも築山殿の生前が没後かで程度は大きく異なる(勿論後者の方がお盛ん)。

 家康築山殿への愛情の実態は如何なるもので、家康は彼女の何を憚ったのであろうか?



恐妻、その背景 まず徳川家康築山殿に愛情はあったのか?と考えると、「間違いなくあった。」と薩摩守は考えている。

 築山殿を、「今川義元に押し付けられた鬼嫁」と捉えている方々もいらっしゃると思うが、多くの妻妾の中で家康の子を二人以上産んだ女性は少ない(四人しかいない)。
 桶狭間の戦い後、元康 (当時)は駿府にて人質状態だった瀬名・竹千代(信康)・亀姫を取り戻す為、人質交換という強引な手まで使っており、この交渉を子供奪還の為で、築山殿は二の次と見る向きもあると思うが、もしこの時点の元康築山殿に対する愛情がなければ、「今川家を裏切らない証」として彼女だけ駿河に留めることも出来た。

 確かに岡崎帰還後の家康の行動は、織田家との同盟を初め、それまでの今川との誼を踏み躙るもので、これが為に築山殿は父親を切腹させられ、「伯父の敵の娘」との同居を強いられ、夫婦仲は明らかに疎遠となった。
 まあ、これに関しては「築山殿への愛情」と「外交重視」を秤にかけた結果、後者に傾いたからであろう。家康が戦国大名家としての今川家を滅亡に追いやった後も生涯今川氏真の面倒を見ていたことからも、人質時代の待遇に多少の面白からざる感情は有っても憎むまでには至っていないと薩摩守は見ている。

 ただ、家中、特に「松平党」と呼ばれた岡崎譜代の国人衆は相当今川家を恨んでいてもおかしくなかっただろう。家康の父・広忠時代以来、戦の度に戦死率の高い最前線・激戦地にて先鋒を命じられ、人質になった主君が元服しても返して貰えず、今川家から派遣されてきた城代に頭を下げなければならなかった忍従自重の苦悩は想像を絶する。
 そんな今川の支配からやっと脱却したのに、今川の血を引く正室が未だ今川家への追走と織田家への敵意を明らかにしていれば、家臣は築山殿には懐かなかっただろうし、家康も三河・遠江・駿河の国人衆の気持ちや、その後の戦況を鑑みれば築山殿を浜松には置き難かったことだろう。

 確かに家康には都合の悪い過去を引き摺った、腫物のような姐さん女房だっただろう。一方で今川家・織田家・様々な国人衆との難しい付き合いの中、それに翻弄された可哀そうな糟糠の妻だったことも間違いない事実だっただろう。
 非業の死を遂げた築山殿信康事件に絡んで囁かれる彼女の不倫や武田家との内通にはその虚実を含めて謎が多いが、彼女の不義が事実なら、それは家康にとって過去を切り捨て、対織田同盟一択で国内を統一する絶好の機会に出来ただろう。
 また、家康築山殿に対する愛情が皆無なら、不義の虚実に関係なく、すべての咎を彼女に擦り付けて信康を救うことも出来たことだろう。
 数多い妻妾を持つ家康の愛妻振りに関してはなかなか一言では断じ難いが、築山殿には過去のトラウマを含む苦手意識がどこかにあり、一方で夫としての幾ばくかの愛情があったことと、三河の一地方領主が東海地方の一端勢力にのし上げる政治的に難しい時期あったことが夫婦仲を複雑なものにしたのではあるまいか?

 いずれにせよ、一人の男・一人の女に責を帰するのは酷と云えよう。


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令和四(2022)年四月二五日 最終更新