第1頁 「死刑」との格差について

考察1 どれほどの格差なのか?
 殺人事件を初めとする凶悪事件の裁判において、死刑が求刑されると検察側も弁護側もマスコミも経過を見守る第三者も通常の裁判よりも白熱する。
 そして「死刑」となれば、弁護側は落胆し、即座に控訴・上告・再審請求・恩赦請願などの措置を講じ、一貫して死刑が如何に不当であるかを世間に喧伝する。勿論悪いことではない。弁護士としての正当な業務行為で、被告人が無実なら無罪を勝ち取り、有罪を認める場合でも少しでもその罪を軽くするのが責務である以上、死刑回避に尽力するのは義務とさえ云える。
ただ、死刑を回避したいばかりに被害者側を悪く云ったり、死刑制度を支持する人々を悪鬼の如く罵ったり、被告を心神喪失者とする為に荒唐無稽で万人を怒らせるだけでしかないことを主張する弁護士が俺は許せないだけだ。

 一方、「無期懲役」との裁定が下されば、死刑を求刑した側は多くの場合、控訴・上告をするが、弁護士ほど執念深く(?)は無い。裁判で勝てないと判断するといくら被害者遺族が控訴・上告を哀訴しても聞き入れないし、上告審で死刑が回避されればその場で終わりである。加えて死刑を求めた側の敗北感は半端ない。

 勝敗はともかくとして、判決が死刑でも、無期懲役でも望まぬ判決を受けた側の落胆・敗北感・失望・憤りが大きくなるのは偏に死刑と無期懲役の格差が大きいからで、それも文字通り「命にかかわる」からだろう。
 死刑回避を望む側は生存権と云う最も基本的で最も大切な基本的人権が奪われることに激しく抵抗するし、死刑判決を求める側は、被害者の命が奪われているのに被告の命が守られることに激しく憤る。

 結局のところ、罪にせよ、罰にせよ、失われた命は決して戻って来ない。存置派が死刑判決を求めるのも、廃止派が死刑回避を求めるのも、命を重んじての事なのは共通している。例え、「俺が好き勝手に人殺しをしても俺が殺されるのは嫌だ。」というトンデモ思想で死刑廃止を訴える奴がいたとしても、取り敢えずは(自分の)命(だけ)を重んじているからだ。

 結論、「命の重さ」=「死刑と無期懲役」の格差、となるのではあるまいか?当然、自分の命に執着しない者には「無期懲役の方が厳しい刑罰」ともなり得るが、「死ぬことが怖くない!」と云うのが本音なのか、虚勢なのか、単に事の重大性が分かっていないだけなのか本人にしか分からない(本人が分かっていないことも勿論あり得る)。
 残念ながら、死刑と無期懲役の格差は人によって異なるだろうし、刑罰の重みが逆転することも有り得る。ただ、死刑に賛成するにせよ、反対するにせよ、命の重みを一顧だにしない者(前者なら単なる嗜虐嗜好者、後者なら単なる国家権力嫌いが悪例かな?)には語って欲しくないものである。


考察2 希望か絶望か
 「無期」という単語の意味は、「期限が決まっていない」という意味である。字面だけを捕らえるなら、無期懲役囚が1年で出所しても間違いではない。まあ、勿論そんなことがあり得ないのは、有期懲役の上限が30年に格上げされた後は、最低30年服役しないと仮出所の対象とならなくなったのを見ても明らかだ。
 「無期刑は有期刑より重くあるべし。」という暗黙の了解が持続されている所以だろう。

 では、そんな30年は出られない無期懲役刑が死刑に比べてどれほどの格差があるのか?という問題を考察するのに、「希望が持てるのか否か」があると俺は思う。
 単純計算で、老人とも云える年齢で凶悪事件を起こし、無期懲役判決が下されば30年を迎える前に寿命が尽きる可能性が高く、年齢や健康状態によっては出所が絶望的な者もいよう。
 まあ、一先ず寿命の問題は置いておいて「30年の服役後に仮出所を認められる可能性が出て来る。」ということがどれほどの希望を持つか?と云うことを考察してみた。
 勿論推測の域を出ないのだが、やはり「生物の本能として多くの者は命に執着する。」と俺は考えている。

 少し話が逸れるが、死刑廃止論者の意見に、「死刑に抑止力なし!」とか、「むしろ死刑になりたいと考える者の凶悪犯罪を誘発する。」と云うものがある。これに対して俺は過去作「リトルボギーの死刑廃止論」で「死刑が抑止力になる者とならない者がいる。」との論を出した。
 その証左として挙げたいのが、死刑判決に対する控訴・上告、死刑確定に対する再審請求だ。
 身も蓋も無い云い方をすれば、現代日本で死刑求刑に相当する罪を犯した者は残念ながら死刑制度が抑止力として働かなかった連中だ(そもそも抑止力が働けば事件にならない)。だが、死刑制度お構いなしに罪を犯した者がいざ裁判となり、死刑判決が下されるとまず素直にそれを受け入れたりはしない。
 まあ、本人が受け入れる気になっていても弁護士や死刑廃止論者が必死になって説得して控訴・上告に持っていくケースもあるが、結局のところ多くの者に「死にたくない。」、「殺されたくない。」との生物としての生存への本能的欲求があるのが見て取れる。
 死刑が抑止力にならなかった者の中には、死刑願望が有ったり、思考がぶっ飛んでいて自分の命に執着しなかったりする者も確かにいよう。だが、中には「捕まらないと思っていた。」、「未成年だから死刑にならないと思っていた。」、「何も考えていなかった。」という者も少なくない。つまり、そんな無知蒙昧ゆえに罪を犯した輩は事前に死刑になる事の重大さを承知していれば罪を犯さなかった可能性が高かったと云える。

 脇道に大きく逸れたが、事前と事後の認識相違もあるだろうけれど、やはり多くの者にとって命(とりわけ自分のそれ)は大切なもので、それを奪われる死刑と、辛くても長くてもそれを奪われずに済む無期懲役の差はやはり大きいものなのだろう。

 俺は服役したことが無いので、ムショ暮らしの辛さが分かると云えば嘘になるが、それでも「真面目にやっていればいつかは娑婆に出られるかも知れない。」、「死ぬまで服役する羽目にあっても飯を食ったり、誰かと話をしたり、トイレでこっそり●●●ーも出来なくはない。」と考えれば、やはりここにも死刑と無期懲役の大きな格差が伺え、凶悪犯の手に掛かった者がそんな生き方すら出来ない事を想えば、その下手人が寸分なりとも「楽しみ」が残されている無期懲役囚となることに納得がいかないことは少なくない。


考察3 格差以前に懲役を舐めるな
 死刑を免れるか否かは格差の大きい問題であることは間違いない。だが、普通の感覚で云えばやはり服役生活自体が耐え難いものだろう。
 規則正しい生活や栄養バランスの取れた質素な食事に、病気に罹れば無料で医者に掛かることも出来るから、健康的な生活を送れるとはいえ、刑務作業中は私語も許されず、落とした工具を拾うのにすら逐一刑務官の許可を得なければいけない。
 所謂美食にはほど遠く、酒も煙草もやれない。余り想像したくないことだが、自分に当てはめた場合、俺は煙草を吸わないから喫煙出来ないのは構わんし、毎日酒を飲まないと情緒不安定になるようなアル中でもないが、それでも年単位で酒が飲めないとなると発狂しそうになる。
 娯楽も大幅に制限されるし、異性との性行為も叶わない。まあ、道場主の馬鹿は服役せずとも人生の大半において異性との性行為が叶っていないが………ぐえええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇ…………(←道場主のコキネリ・ツイスターを食らっている)。
 イテテテテテテテ…………まあ性行為とはいかずとも、握手程度にすら肌に触れられないことや、2、3メートル程度の距離にて肌の匂いを嗅げないことも充分地獄である。勿論ライブにもいけなくなるから、敬愛する女性アーティストを生で見れないことも地獄だ。
 当然、多くの娯楽が制限され、叶わないことに「死んだ方がマシ」と考える者もいよう。過去に『地球の歩き方』という本でインド旅行に関する本を読んだとき、インド旅行中に薬物に手を出した邦人がインドの警察に逮捕された話が書いてあった。インドの刑務所は寒暖環境も厳しく、懲役10年の刑が確定したその邦人は外国人故に仮出所が認められない状況に10年間を耐える事が出来ず、自ら命を絶ってしまった………。
 そんな極端な例を挙げずとも、奈良県月ヶ瀬村で中学生を略取・殺害して無期懲役を食らったO・Mなる囚人は無期懲役確定による収監から間もなく自害している。逮捕直前にはマスコミの前で警察官相手に激しく抵抗し、戦意の強いと思われたOがである。

 死刑と無期懲役の格差が如何に大きかろうと、犯罪抑止の為には、死刑の恐ろしさのみならず、服役生活が如何に辛く、惨めなものであるかも教育において周知する必要があると俺は思う。


不良刑事三白眼 かく語りき

 まず最初に断っておくが…

 そもそも興味もないし、(冤罪などを除いて) 無期懲役云々なんぞ、俺の知ったことではない。

 それ以上でも以下でもない!!


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令和六(2024)年一二月一九日 最終更新