リトルボギーの無期懲役論
オッス!法倫房リトルボギーだ!
何?態度が悪い?まあそう固いことを云うな(お約束)。
今回語るのは表題にある通り、「無期懲役」という刑罰についてだ。
一応、現代日本の刑罰においては死刑に次ぐ重刑である。字面で云えば「無期」限に「懲役」刑を科される訳で、何年服役したら娑婆に出られるか分からないのだから、罪人によっては「死刑になった方がマシ。」と思う者もいよう。
当然、無期懲役に処されるのは(冤罪を除けば)重罪人ばかりである。俺基準で云えば僅かな例外を除いて「テメー等、全員死刑が相応しいわ!!」と怒鳴り付けたくなる連中ばかりだ。逆を云えば人を殺めずして無期懲役を食らう者は極少だろう(まず起こり得ないが、刑法上は殺人未遂でも死刑判決は有り得る)。
罪状と刑罰が釣り合っているかどうかの疑問はあるにせよ、無期懲役刑が日本における重罰に違いはない。
ただ、死刑との格差は余りに大きい。
これは死刑存置派も、死刑廃止派も大半の方々が同感しているだろう。前者はその格差故に凶悪極まりない犯罪に対する処罰として死刑存置を叫び、後者はその格差故に死刑を一線超えた国家による不当な刑罰としてその廃止を叫んでいる。
それゆえに裁判にて、死刑求刑に対して無期懲役判決が下されると、存置派は「こんな酷い犯罪なのに死刑じゃないのか!」と憤ることが多く、廃止派は「国家による殺人」が回避されたことに胸を撫で下ろす。
殊に一審で死刑判決だったのが二審、三審で死刑が覆った際には、判決への是非がどうあれ、裁判員裁判の結果を否定する形になったことも加わってより憤りの声は大きくなる。
特に殺された被害者が一名だった場合は、地裁で死刑判決が下ったのに裁判員が介在しない二審で、「過去の判例に反する。」として無期懲役に減刑され、最高裁もそれを支持すると云うケースが多過ぎる!
判例を軽視しろとまでは云わないが、判決に対する新たな制度が始まる以上は、それ以前のやり方と多少は異なる結果になることはあり得る筈で、杓子定規に判例をがちがちに踏襲するなら、はっきり云って「裁判員裁判なんて辞めちまえ!!」の一言である(一応、これは死刑案件によくある傾向で、それ以外の案件では裁判員裁判による判決が控訴審・上告審でも重んじられていることは触れておきたい)。
話を戻すが、死刑存置派であれ、廃止派であれ、自分の望まない判決が下った場合、格差が大きい故に憤りも大きくなると云うことだ。
そして格差が大きい故に、その罪状に対する世間の怒りも、実際に仮出所出来るまでの年数も千差万別となるし、罪状によっては無期懲役、または服役が終わらないことが順当か不当かも判断し辛くなる。
・〇年服役しているが罪に対して長過ぎではないか?
・仮出所が妥当なのか?
・長期間の服役で本当に反省したのか?
そしてそれらの判断に必要な情報は仮出所を含めて表社会に告知されることはまずない。
まあ、ただそれは致し方ない面もある。日本の司法が被害者を置き去りにしていることは死刑存廃問題以前の深刻な問題だが、それでも被害者感情が不必要に量刑に盛り込まれてはならない(中には不当に重い罰を要求する被害者もいるだろうから)。
また、服役期間を満了した有期懲役囚も、仮出所が認められた無期懲役囚も、娑婆に出る以上は今度こそ罪を犯すようなことがあってはならないし、同時に基本的人権も守られなければならない。
下手に無期懲役囚の仮出所情報が広く世間に知れ渡る様では、(自業自得とはいえ)世間の白眼視の為に再犯や自殺に追いやられる者が出かねないし、被害者遺族が私的な報復に出る可能性も考えられる(←気持ちとしては理解出来ても、法的に許されない行為である)。
前述した様に、俺個人の感覚では無期懲役の判決を下される罪人の殆んどは「死刑相当」の輩である。無期懲役の求刑・判決を報道で見る度に、「何で死刑やないねん………。」との想いを抱くことが大半だ。
逆を云えば、そんな刑罰である無期懲役故に考えることは多々あり、大して考えもせずに見過ごしてきた問題点や考察点も多いのでは?と思い、俺なりに「無期懲役」という刑罰について見直したくて本作を作ってみた。
どんな考えにも賛否両論があるのは世の常だが、如何なる考えの持ち主にとっても罪と罰のバランスを考察する一助になれば幸いである。
第1頁 「死刑」との格差について
第2頁 「事実上の終身刑」について
第3頁 「生かして償わせるべき」について
第4頁 「死刑以上の残酷性」について
第5頁 「浦島太郎現象」について
第6頁 「終身刑」との相違について
第7頁 「刑務所に戻りたい………。」という輩について
最終頁 「死刑存置」と「死刑廃止」の狭間で………
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令和六(2024)年一二月一九日 最終更新