第5頁 「浦島太郎現象」について

考察1 「10年ひと昔」どころではない
 「事実上の終身刑」と云われることもある昨今の無期懲役だが、それでも年間10人前後が仮出所する。だが、仮出所はあくまで「仮」であって本当の意味での出所ではない。
 と云うのも、無期限の刑を科された無期懲役囚の懲罰に真の意味での終わりはなく、仮出所中に何らかの触法行為が認められれば仮出所者の仮釈放は取り消され、塀の中へ逆戻りとなる。実際に仮出所した者の内、どの程度の割合が刑務所に逆戻りしているのかの数については存じていないのだが、いずれにせよ、また刑務所に戻る=再犯が成されるようでは困る。
 この点に関して、この頁では想像の域を出ないものの、長期間塀の中にいた無期懲役囚が、社会からの隔絶によってどんな苦労が出所後に待っているかを考察したい。

 予め申しておくが、「こんな目に遭うなら端から懲役に行くようなことは避けたい。」と読み手に思って頂くのが目的なので、現在仮出所中の方が読むには酷な内容になるであろう。

 長期間塀の中にいることで、ようやくにして出て来た娑婆は明らかに入所前とは異なった世界になり、入所前に記憶していた世界との相違に苦しむ………所謂「浦島太郎現象」に見舞われるだろう。
 変な話、1週間ほど会社を休んだり、別部署に出向したりしただけでも、業務状況の変化に見舞われ、「浦島太郎状態」と呼ばれることがある。まして、無期懲役囚が塀の中を過ごす時間は最短で30年である。「10年ひと昔」という言葉あるが、世の流行や、モバイルの進化、目まぐるしく動く世界情勢を鑑みれば「3年ひと昔」と云いたくなることすらある。

 少し考察してみたいが、30年前に無期懲役判決を受け、服役してきた者が令和6(2024)年の今日に仮出所したと想像してみよう。
 まあ無期懲役を食らうような事件だと裁判も長期に渡ることが考えられるが、あくまで例え話なので、単純に平成6(1994)年に刑務所入りしたと仮定する。となると、30年の間に起きた世の中の大きな出来事を列挙すると、

・阪神大震災と東日本大震災という二つの大地震。
・平成の終了。
・米露二大国が個々に戦争勃発(イラク戦争、ウクライナ侵攻)。
・携帯電話の一般化。
・Windows95に始まるPC・OSの発達とインターネットの急速な普及。
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の連載終了。
・朝鮮民主主義人民共和国での二度の代替わり。
・サッカーワールドカップにおける日本の常連化。
・二度目の東京オリンピック開催。
・新型コロナウィルスの世界的パンデミ
ック
 他に挙げればキリが無いが、服役を始める30年前には考えられなかった、馴染みのなかったことが次々と生まれている。勿論中には新聞やラジオや差し入れ・購入した書物から情報として得られるものもあるだろうけれど、実際に触れるのとは大違いである。
 そして30年以上服役して仮出所したものとなると、若くて40代後半、中にはいつお迎えが来てもおかしくない老齢者であることも充分考えられる(関係ないが、第二次世界大戦後戦犯として巣鴨プリズンでの終身禁固刑を科された者達への仮出所を求めるのに「老齢故に。」としたものが多かった)

 若者でも世の流れの激しさについていくことは容易ではない。充分反省し、再犯の恐れが無く、贖罪意識の強い無期懲役囚を仮出所させることに必ずしも反対する訳では無いが、例え「仮」でも出所する以上は真っ当な社会人として暮らしてもらわなければならない。
 果して、仮出所させる側は、仮出所が直面する浦島太郎現象への準備は充分だろうか?そして仮出所する側も直面する覚悟は出来ているだろうか?


考察2 再犯招く不寛容社会
 道場主の馬鹿は、罪人に対する日本社会の環境について、「刑罰は甘過ぎる。迎える社会は厳し過ぎる。」と見ている。
 「世間が裁く。」という言葉があるが、云い換えれば、刑罰が大して罰を与えず、本来裁く権利も無い筈の一般ピープルが私的に出所者に罰を与えることを意味する。早い話、「前科者」と白眼視し、村八分とし、再就職、婚姻、居住に大きな困難をもたらすことである。
 勿論、警察官でもない、裁判官でもない、政治家でもない一般ピープルに前科者を裁く権利はなく、一般ピープルも直接暴力を働く訳では無い。否、例え警察官や裁判官であったとしても、出所者がその後法律を犯すことなく、国民の三大義務を守って生き続けるのであれば、その職務における権利を行使することはない。

 だが、実際に刑務所を出た者に対して社会は厳しい。偏に、「一度やった奴はまたやるんじゃないか?」との疑念が拭えないからである。実際俺自身、そんな疑念や偏見を抱かないか?と云われれば残念ながら全く自信が無い。殊に一般的に再犯率が高いとされる薬物犯や性犯罪者に対してはかなり冷たい目を持つだろう。
 結果、社会に受け入れられず、就職も、近所づきあいもままならない出所者が再犯をしでかして刑務所に逆戻りする例は決して少なくない。それでなくても世の中には「型に当てはめる力」というものが有る。「あいつはああいう奴だ。」という眼で大勢が見て、そう仕向けることで本当にそんな人間にしてしまうと云う力だ。

 例えると、前科者であることがバレた者が、職場で物がなくなる度に「あいつが盗んだのでは?」と陰口を叩かれ、真面目に勤めていても「振りをしてるだけかも…。」と信用されず、チョット態度の悪いところを見せれば「やっぱりな……。」という対応をされれば、ひねくれてしまうのは無理もない。
 結果、自暴自棄に陥り、どの道よく見て貰えないのならやりたいようにやろうと考えるようになり、その都度周囲が「やっぱり更生していない。」と遇すれば、「本当の再犯」が生まれることになる。再犯率の高さと、前科者に対して白眼視する不寛容社会との相関関係は決して小さくないだろう。

 「そんなもの、前科者の自業自得で、そうなりたくなければ端から罪を犯さなければ良かった。」と云われればその通りなのだが、だからと云って、「出所してきた者は再犯するに決まっている。」と決め付ける権利は誰にもない。
 せめて刑務所という世界が、「あんな酷いところから命からがら出て来たのであれば、もう悪いことはしないだろう。」と思わせる様な世界であれば、社会の偏見は軽減される……………かなあ??
 勿論、迎える日本社会側の不寛容性も改善する必要はある。同時に、「再犯者は更に酷い厳罰が待っている。」という体勢であれば、この問題も少しは改善される気がする。


考察3 出す以上は、確実な更生を
 上述したが、有期刑の満期出所であれ、無期懲役囚の仮出所であれ、娑婆に戻ってくる以上、今度こそ罪を犯すことなく、真っ当な社会人として世の中に在って貰わなければ多くの人が困ることになる。
 だが、残念なことに前科者の再犯率は決して低いものではない。これに対して俺が疑問視するのは、「ちゃんと更生したか否かを見極めているのか?」というものである。

 更生していたとしても浦島太郎現象は厄介である。それを更生していない者がただただ刑期を満了したと云うだけで形式的に出所させて本当に大丈夫か?という話である。
 そりゃ、軽度の窃盗犯を更生が疑わしいからと云って、10年、20年と閉じ込める訳にはいかないだろうし、刑務所のキャパシティーの問題もあるだろう。だが、懲役10年を課されたものが模範囚であれば7年、8年で仮出所が認められるのであれば、服役態度が悪く、反省の欠片も見せない者であれば2、3年の刑期延長も止むを得ないと思う。否、伸ばすべきだろう。そうでなければまた社会に被害者が出ることになる。
 勿論「更生した振り。」が上手い奴もいるだろうし、逆に構成していてもその意を上手く示せない者もいるだろうから、「見極め」と云っても簡単でないことは分かるのだがな。


不良刑事三白眼かく語りき

 「善人が悪人を裁く」とはそういうこと。

 2番目に書いた通り、結局「自分の間尺でしか判断できない」ので、これはどうにもならない。

 人間とエテ公のモノの見え方は別物であり、猿Aと猿Bのモノの見え方も別物(共通部分もあるといえばあるけど)。

 そもそも「別物」であることがわからないようでは、できることは何もない。

 何が重要かを確立させ、切るべきところは心を鬼畜にしてでも切るべし。


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令和六(2024)年一二月一九日 最終更新