File.8「最凶」にして「最狂」の存在―人間

 実はこのサブタイトル、過去作『人間の勝利』の最終頁で使ったものと同一である。
 令和6(2024)年10月17日現在、現実の世には科学の力で改造人間を世に放ち、人類を全滅させて世界を征服しようなどという悪の組織は存在しない。それゆえ、フィクションの世界における悪の組織を考察する特撮マニアに対し、特撮に興味のない人の中には「幼稚」との揶揄を浴びせる者もいる。

 ただ、特撮大好き人間であるシルバータイタンは、フィクションにおける悪の組織を決して現実と全くの無関係な存在とは思っていない。改造人間を用いずとも、ABC兵器を用いて世界征服を本気で考えているテロ組織は存在する。改造人間開発に至らずとも、科学による武装で多くの人々を殺害する個人・組織は古今東西に存在し、これからも出て来るだろう。
 そして、何より現実の世界に起きているテロや大量殺戮はすべて生身の人間によって起こされている。『仮面ライダー』のショッカーはナチスの生化学を武器とし、『仮面ライダーV3』のデストロン大幹部ドクトルG(千波丈太郎)は細菌戦を基本戦略としたため、BC兵器によるテロが頻発したが、実際に毒ガスが街中に散布されることでとんでもないパニックが起き、人々が日常的にテロに怯えたのは僅か30年前の日本で現実に起きたことである。

「今日地下鉄に毒ガスは撒かれない。」
「明日、高層ビルに飛行機が突っ込んできたりしない。」
「来年、水源地に毒物が投入されたりしない。」

 これらのことを誰が断言出来るだろうか?
 勿論、いずれもが決して起きてはいけない大悪事で、それを阻止する為に官憲を初め、多くの人々が日々動いている。9年前に過去作『人間の勝利』にてシルバータイタンは、現実の世界にウルトラマンも仮面ライダーもスーパー戦隊も宇宙刑事も存在しない故に、現実のテロを初めとする犯罪は人間の手で阻止しなくてはならないもの故に「人間の勝利」に注目したと述べた。
 戦闘能力で決してスーパーヒーローに敵わない人間が、それでも持てる限りの力を発揮して戦闘に勝利したり、ヒーローの勝利をバックアップしたり、ヒーローとは別途に悪による被害を阻止したりしていた様を例示し、現実に存在する人間にとってもそれがいかに大切な姿勢であるかを説いた。
 一方で、現実の世界には怪獣も超獣も円盤生物も改造人間も存在せず、すべての悪事は人間が為していることも引っ掛かっていた。勿論フィクションの世界で架空の存在に毒されて悪事に走った者が大半なのだが、逆を云えば悪の組織に関わる前から悪事に従事していた者は現実の世界にも表れ得る恐ろしい存在とも云え、そんな例を考察せんして本作を作った次第である。
 それ故、現実の悪事・悪人・悪行を考察し、それ等による被害に少しでも歯止めを掛ける為にもこの最終頁で最終考察を行いたい。


最終考察1 「悪」の根は何処に?
 人はどうして悪事を為すのだろうか?
 少なくとも人は誰かに傷つけられたり、大切なものを奪われたり、隷属させられたりすることを好まないし、それ故に傷つけたり、奪ったり、支配したりすることに嫌悪感を覚えることも多い。
 しかしながらそこに利害が絡んだり、利益の共有が成らなかったりすると、人は場合によっては我が利益を得る為に他者の利益を害する道を選ぶ。当然害を受けた方は害を為した者を「悪」とする。だが、誰しも悪とは呼ばれたくない故に大義名分を振りかざしたり、相手の方に害を与えられても仕方のない程の非があったと訴えたりし、しかもそれが必ずしも真実では無かったりするから話はややこしい。

 云い出せばキリがないが、それでも多くの場合、人は害を受けたくない故にルールを設け、相互にそれを守ることで自分が害を為さない替わりに、相手にも害を出さないという道を概ね遵守する。
 そんな中、自己の利益の為に相手に害を与えることに意に介さず、公共のルールを踏み躙る者が「悪人」とされる。こう考えると人誰もが「悪人」となる素を持つ。それが大きいか小さいかだけであって。
 一方で多くの場合人は誰かに愛されたり、喜ばれたり、感謝されたりすることを望み、それを喜ぶ。これまた程度の大小はあれど万人に共通する話である。結局、個人が「善人」と呼ばれるか、「悪人」と呼ばれるかは良心と邪心の棒引きで前者と後者いずれの度合いが大きいかで決まる傾向にある。

 以上を鑑みると、悪の組織から改造される前から「悪人め!」と罵りたくなるような、本作で採り上げた者達は、邪心の度合いが極大か、そもそも両親が著しく欠如しているかに大別されよう。
 悪の根は誰にでも存在する。逆に善の根が存在しない者もまずいない。まずは悪の根が肥大しないように心掛け、善の根を大きく育むことだろう。


最終考察2 更生の道はあったのか?
 上述の考察を振り返れば、悪の根を抑え、善の根を増大させればどんな極悪人も更正出来そうな気がする、理論上。実際、死刑制度に反対したり、少年法の理念を重視したりする人々は凶悪犯罪者に対しても、「人は変わり得る。」として「厳罰」を避け、「更生」を重んじることを訴える。
 この主張を全否定はしない。だが、古今東西世に現れた悪人の中には死ぬまで更正しなかった者が数多く存在し、現在生きている極悪人や凶悪犯罪者に対して「更生する可能性が有ります。」と云われても冷ややかな目しか向けられないケースも多いだろう。
 確かに「可能性」を語れば誰にも「0」とは云えない。だが「100」とも云えない。それ故に余程の根拠がなければ不確かな更生に賭けるよりも着実な厳罰が求められる傾向にある。
 殊に罪のない人間を何人も殺めた様な凶悪犯が反省を示さず平々凡々としていたら、そして謝罪も償いもの無くそんな態度のまま天寿を全うされたら、同様の凶悪犯罪者が現れた際に「更生」に同調したくなくなるのが人情だろう。

 かと云って、極悪人が反省したり、悔悛の情を抱いたり、更生を目指したりするのを軽視して良いとはシルバータイタンは思わない。例え如何な反省・贖罪を示したとしても処刑せずにおれない程の罪を為し、結果裁き通りに命を奪うことが避けられない者だとしても、可能であれば反省や悔悛は大切だ。処刑という結果は変わらなくても、罪を自覚して謙虚な気持ちで刑を受け入れるのと、何もかもを周囲のせいにしてひたすら世や人を怨んだ果てに命を奪われるのとではその差は大きい。

 そんなことを踏まえつつ、本作で採り上げた者達に「根っからの悪人」であることを脱し、「更生」する道はあったのだろうか?とある条件が無ければその可能性は皆無だったと思われる。

 その条件とは「罪悪感」である。

 過去作「特撮に見る良心の呵責」でも触れたが、極悪人とて良心の呵責を見せない者がいない訳では無い。特に恩義を感じたり、自分が恨む相手と同じことをしているのに気付かされたりした際には邪心に(例え一時的ではあっても)歯止めが掛かるケースもある。
 だが一方でそんな良心の呵責や悪行への躊躇いを一切見せない者も決して少なくない。そんな物に共通するのは罪悪感の欠如である。これが無いと自分の罪は勿論、被害者の痛みとも決して向き合わない。
 自分が如何に酷いことをしたかを理として理解していないだけなら正しい教えに触れることで罪悪感を抱き、心底反省することもあり得るだろう。だが知らないままでいたり、ただただ自己中心的で他者への思い遣りが皆無でいたりする者だと罪悪感を抱くことなく、罪も自覚せず、ただただ己に降りかかった罰を(自業自得であることを一顧だにせず)怨み続けるだろう。

 現実の世界で一例を挙げると、1980年代後半に東京都・埼玉県で幼女誘拐殺人を繰り返し、死刑になったM・Tという男がいた。Mの家族は真っ当な人物だったが、Mは完全なサイコパスで、自分が手に掛けた幼女達に対する謝罪がなかっただけでなく、自分の悪行で家族が大きな不幸に見舞われたことも意に介していなかった。
 Mの家族は一斉に職を失い、結納まで終わっていた妹の縁談も破談となった。Mの父は全財産を処分し、被害者への償いに当てる手配を終えた後に自ら命を絶ったが、それを聞かされたMの反応は「あ、そうですか。」だった(怒)

 そして死刑執行が告げられた朝、Mが最後に残した言葉は「(鑑賞中だった)あのビデオ、まだ途中だったのになぁ。」だった。幼き女児の人生を、その家族の幸せな日々を無慈悲に無惨に身勝手に中途で終わらせた男が、ビデオ鑑賞が途中であること愚痴って世を去ったのである(怒髪天)
 はっきり云って、Mはすべてが他人事で、自分の趣味しか関心がなく、罪悪感も自責も人の心の痛みも一切意に介さずこの世を去った。恐らく更正を図って活かし続けたところで徒労に終わり、こ奴が生きていることで被害者遺族の心を傷つけ続けただけだった事だろう。
 本作・拙房を閲覧して下さっている方々の中には、事件の捜査でこのMの部屋から大量のアニメ・特撮のビデオが見つかり、所謂、「オタク」・「マニア」に対する世間のイメージを著しく悪化させたことに憤りを感じた記憶をお持ちの方々も少なくないと思われる。
 道場主も、特撮趣味に対して、「幼稚」と云われるのは我慢出来ても、「気持ち悪い。」と云われたことに怒り心頭となった記憶はあり、そこに少なからずMの影響があったと思っている。

 まあ、このMや、小学校に乱入して8人の児童を刺殺したT・M元死刑囚に匹敵するサイコパスはかなり例外だとしても、「捕まりたくない」という一念で罪を犯さないだけで罪悪感を一切抱かない者も世の中には隠れ潜んでいることだろう。

 犯罪が絡もうと絡むまいと、罪悪感が欠如し、「謝ったら負け」みたいに思っている人間はお近づきになりたくないものである、個人的に。


最終考察3 決して「フィクションに過ぎない。」と思うべからず。
 本作で採り上げた者達は所詮フィクションの存在である。30分に満たない番組に登場して、ライダーに倒された一過性キャラクターの一人で、ある程度の人間性や罪状を語られたものの、詳細な設定がある訳でもなく、考察しても多くは想像の域を出ない。

 同時に、こいつらが如何なる悪人であっても、それが現実に何か影響する訳では無い。人によっては、「余りに凶悪過ぎるキャラクターのことを考えていても精神衛生に悪いだけだ。」と考える人も多かろう。だが、シルバータイタンは考察した。
 それは、現実にショッカー、ゲルショッカー、ゲドンが存在しないだけで、悪の組織は存在し、組織や個人の利益の為に周囲に害をもたらすことに罪悪感を抱かなかったり、人の心の痛みを一顧だにしなかったりする者が実在するからである。

 つまり、ある日突然悪の改造人間に襲われるケースが(現時点で)想定されないだけで、加納修村田源次の様な極悪人に害せられる可能性は現実にあり得、実際に罪悪感を欠片も抱かないサイコパスが無関係な、罪なき人を手に掛ける事件は後を絶っていない。
 同時に、事件が起きてしまった際に、それ等の極悪人を裁いた後も大切である。処刑したのであれば「その後」は無いが、現代日本においては、「死刑」に処さない場合、どんなに低確率でも刑務所を出て一般社会に復帰する可能性が皆無ではない。そして刑期の長短がどうあれ、出て来た以上は更生してくれないと困るのであるが、更生したかどうかなど見極められないまま、「ただ満期になった。」というだけで反省なき凶悪犯が世に放たれることも決して少なくない。

 人は時として道を踏み誤ることがある。邪心がなくても他の何かを守ろうとしたが故に法に触れることもある。ただ、その前後に罪の自覚や、罪悪感、他人の心の痛みに対する想いがあれば悪行も歯止めが掛かり、贖罪や悔悛への道も生まれ得ることだろう。
 凶悪犯や極悪人やサイコパスを唾棄するの簡単である。『DRAGONBALL』のヤジロベーじゃないが、「知らん顔してりゃいいんだよ。関わり合いにならなきゃいいんだ。」というのも一つの考えだろう。正直、本作は作っていて気分の良いものでは無かった。しかしやはりシルバータイタンは、「現実に関係ないこと。」ととしてスルー出来なかった。悪事を為さない為には人の心の痛みを感じ取れる必要がある。無関心もまた罪悪感の欠如や思い遣りの無さに通じるのではないだろうか?


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令和六(2024)年一〇月一七日 最終更新