第参頁 千島・樺太交換条約

条約名千島・樺太交換条約(ちしまからふとこうかんじょうやく)
締結時の国家機関日本側大日本帝国政府
ロシア側ロシア帝国
調印者日本側榎本武揚(特命全権大使)
ロシア側スツレモーホフ(外務省アジア局長)、アレクサンドル・ゴルチャコフ(外務大臣)
時の国家元首日本側明治天皇
ロシア側アレクサンドル?世
締結年月日明治八(1875)年五月七日(批准は同年八月二二日)
締結場所ロシア・サンクトペテルブルク(批准は日本・東京にて)
備考 当時、多くの日本人が条約内容を「屈辱的」と捉えた。
条約内容(クリックすると内容を表示し、再度クリックすると閉じます)


千島列島



背景 一番の問題は樺太(サハリン)がそれまで日本領か、ロシア領か、はっきりしていなかった、正確には、はっきりさせられなかったことにある。まあ、第壱頁で触れた様に、民族的問題からロングヘアー・フルシチョフに言わせれば、「北部=ウィルタ領、中部=ニヴフ領、南部=アイヌ領」となるのだが(苦笑)。

 事の是非はどうあれ、樺太は日露和親条約にて「日露混在の地」とされた。だが、この様な曖昧な在り様が後々問題にならない筈が無かった。
 詰まる所、幕末の日露交渉にて、樺太は両国のどちらも譲らず、帰属を決めきれなかったのが事の発端である。本来アイヌ民族を初めとする少数民族の土地だった北海道、樺太、千島列島、カムチャッカ半島、アラスカに対し、日露両国の時の権力は先住民の意志など一顧だにせず、自国への編入に腐心していた。
 江戸時代中期の松前藩主には、北海道、千島列島どころか、樺太やカムチャッカ半島まで「松前藩領」と報告した者もいた。またロシア帝国でも、アラスカを自国領と捉え、彼の地が現在アメリカ領となっているのも売却したからで、現在でも国粋主義的なロシア人の中にはアラスカ奪還を叫ぶ者すらいる。

 そんな先住民族を尊重する意識が低い時代にあって、樺太は日露両国政府が共に譲り難く思っていた。
 日本にしてみれば、かつて島か半島かはっきりしない樺太を間宮林蔵の手で島であることを証明し、大陸との間の海を「間宮海峡」と名付けた経緯からも、そこまで地形をはっきりさせた樺太は我が領土との意識が強かった。
 勿論ロシア側でも、クリミア戦争で全力を注げなかったものの、散々樺太を侵略開発して来たとの意識があり、「混在の地」に対しても何とか我が国の足跡を日本以上に残さなくては、との意もあった。

 となると、日露両国は樺太に大量の移民を送り込み、同島に大量の自国民が定住しているとの既成事実を作らんとすることになったのだが、ある土地に異なる民族が急速に大量に住み着くことは当然住民間のトラブルを頻発させた(勿論、話し合おうにも言葉は容易には通用しない)。当時に、先住民族にしたところで日露両国からの移民たちにデカい顔をされては面白い筈が無かった。

 このような状態に対して、幕末には既に「何とかしなくては……。」との想いは有り、箱館奉行の小出秀実は幕府に国境線の画定が急務であることを建言するとともに、北緯四八度線を国境にすることも提案していた。
 つまり、樺太をロシアに譲り、千島列島全島を日本領とする青写真は小出によって描かれており、実際小出は渡露してロシア側とも交渉した。結局この時締結された日露間樺太島仮規則は内容的には同島を「日露混在の地」とした日露和親条約を追認するものでしかなかったが、問題提起としての役割は充分に果たしており、この時の下準備があったからこそ、千島・樺太交換条約は締結され、戦争を交えずに両国間の領土問題を解決させた唯一の例となったことは特筆に値する。

 勿論、南北九四八キロ、東西一六〇キロ、世界第二二位の面積七万六四〇〇平方キロを持つ樺太(ちなみに北海道が第二一位)から完全に手を引くこととなるこの交換を「屈辱的」と捉える声は多く、「遠隔地である樺太を放棄してでも北海道開拓を進めるべし」とする開拓次官・黒田清隆に対し、外務卿の副島種臣は樺太を日露混在の地とする旨を主張して対立した。
 結局、副島が征韓論を巡る論争に敗れて下野したことから黒田の意見が通る形で、榎本武揚が渡露して千島・樺太交換条約の締結に向かった訳だが、かつて榎本が箱館五稜郭にて旧幕臣として明治新政府に抵抗し、降伏した際に黒田が彼を庇った過去からも、北海道開拓に強いこだわりを持つこの両名の意向が大きく働いたと云える。



注目点 現在、日露間で平和条約締結を初めとする数々の交渉の足枷になっているのは、北方領土問題であることは余人の言を待たないところである。
 そしてその北方領土問題にあって、領有権主張の根拠となるのがこの千島・樺太交換条約である。条文にも、現在日本がロシアに返還を求めている択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島は「千島列島」として含まれていない。
 それゆえ、日本は千島列島の放棄を記したサンフランシスコ平和条約に調印したが(←周知の通り、旧ソ連は調印しなかった)、北方四島はこれに含まれず、日本の正統な領土として主張している。
 また、日本共産党は、千島・樺太交換条約が日露の両国間で正当に結ばれた条約であることを理由に得撫島以北の占守島に至るまでの千島列島も日本固有の領土として返還を主張している。

 日露間に限らず、領土問題はとかく難しく、政治家も、論客も、学者も、少しでも相手国に譲った発言をすれば、市民、マスコミ、その他からぼろくそに叩かれる。中には相手国に対する悪意や、すべてにおいて我が国に有利な内容でないと感情的に気が済まない者もいて、かなり無理のある内容でも平気で主張する(←一時的な支配をたてに樺太全島の領有を主張する日本人や、北海道・アラスカの領有を主張するロシア人が本当に存在する)。

 領土の問題の多くは民族・宗教・過去の居住と云った譲れないものに資源や戦略上の地形の問題が領有への態度を頑なにする。ただ、そんな中にあって、日露間にはまだ論拠となるこの千島・樺太交換条約が存在する意義は大きい。

 樺太の南半分は日露戦争とポーツマス講和条約の結果四〇年に渡って日本が領有したものの、第二次世界大戦に敗れたことでソ連に戻った。偏に、戦争の結果得た土地だからである。現在のロシアが北方領土に対して、「第二次世界大戦の結果、正当に得たもの」と主張しても日本人が到底納得できないのも「強奪された」という意識が顕在するからである。
 そこをいくと、千島列島に関しては血が流れていないゆえに旧ソ連も、ロシアも譲らずとも、突っぱねるような強硬な主張が出来ない。
 領土の大きさから言えば、樺太を譲ったのは「屈辱的」だったかもしれないが、サケ・マスを初めとする海産資源や海路の問題から言えば千島全島の領有は「損して得を取った。」と言えなくもない。政治・軍事・産業・その他さまざまな観点からも、千島・樺太交換条約はもっともっと注目されるべき史料であるとロングヘアー・フルシチョフは考える。

 勿論、樺太も千島列島も、元は日露いずれの地でもなく、先住民がいたことを忘れてはならない訳だが………。



学ぶべきこと 本気で北方領土の問題を考えるなら(と言うと語弊があるが)、北方四島だけではなく、千島列島の地理や歴史をもっと学校で教えるべきであるとロングヘアー・フルシチョフは考える。

 確かに、戦後日本はサンフランシスコ平和条約にて過去の植民地と共に千島列島の領有を放棄した(←くどいが、旧ソ連は調印を拒否した)。
 それゆえ日本政府が戦後一貫してソ連・ロシアに返還を求めている北方領土は択捉・国後・色丹・歯舞に限られる。だが、領有放棄以前にも千島列島に日本人が七〇年に渡って暮らした歴史があり、墓参の叶わぬ日本人の墓も少なくない。

 だが、実際に北方領土返還を求めて活動する人々や、実際に千島列島に暮らしていた人々とその家族、北海道民を除けば、一般日本人の得撫島以北の島々に対する知識・関心は北方四島のそれに比して著しく小さいと言わざるを得ない。
 正直、ロングヘアー・フルシチョフとて、この様なサイトを作る様になるほど日露の歴史に関心を抱くまでは、千島列島の内、占守島・幌筵島・得撫島以外の島の名前は全く知らず、今でも各島の名前をすらすらいう自信はなく、地図を見ないと位置関係も分からない部分の方が多い。

 歴史的に見ても、千島列島の最北端であり、第二次世界大戦末期におけるソ連の対日参戦で激戦の場となった占守島と、最南端で択捉島と相対する得撫島はその名を知る人も多く、他の日本国内の地名同様Wordでも一発で変換されるが、他の千島列島の島々で一発変換されるのは幌筵島だけである。
 何故、幌筵島だけが一発変換されるのかは不明だが、他の殆んどの島々が変換されないのは、領有権と同等かそれ以上に大切な日本の歴史が軽んじられているように感じられてならない(ちなみに薩摩守が幌筵島を知っていたのは、過去作北海道苫前郡羆害事件(大正四年)を制作するために読み込んだ書籍の筆者に、戦前幌筵島で学友を羆に襲われて亡くした話が在ったからである)。

 これではいかんと思う。

 北方四島がサンフランシスコ平和条約で放棄した地とは違うことを主張する為にも、例え今は日本領ならずとも、その血の開発に心血を注いだ人々の尽力(←たとえ先住民からいて侵略だったとしても)を尊重する為にも、日露の未来と友好を阻害する様なしょーもない揚げ足取りに合わない為にも、千島列島の地理・歴史は日露両国の教育においてもっと教え込まれなくてはならないと思う。

 前述した様に、領土問題はとかく難しく、政治家も、論客も、学者も、少しでも相手国に譲った発言をすれば、市民、マスコミ、その他からぼろくそに叩かれる。また数々の諸条約も現状に対して完全に即したものばかりとは言えず、相手国に対して少しでも優位に立とうとする者は重箱の隅をつつく様に条文の上げ足を取る。
 現代ですらそんな状況の中、現代から一五〇年近い昔に、純粋な話し合いだけで領土問題を解決したこの千島・樺太交換条約に学ぶところは古今東西多いのではないか、とロングヘアー・フルシチョフは考えるのである。



主要人物略歴
榎本武揚 (えのもとたけあき 天保七(1836)年一〇月五日〜明治三八(1905)年一〇月二六日)……武士にして、海軍軍人にして、外交官にして、政治家。幕臣の子として、幕府海軍の為にオランダ留学も経験。帰国後、幕府海軍指揮官として戊辰戦争を戦い、蝦夷地に退き、箱館五稜郭を根城に蝦夷共和国総裁を名乗って最後まで抗戦。
 黒田清隆の勧告に応じて降伏後、一時罪人として投獄されるも黒田の推挙で出仕し、北海道開拓、日露外交(千島・樺太交換条約締結、大津事件の謝罪使)に尽力。駐露特命全権公使にも就任し、各種大臣も歴任。

黒田清隆 (くろだきよたか 天保一一(1840)年一〇月一六日〜明治三三(1900)年八月二三日)……薩摩藩士、陸軍軍人、第二代内閣総理大臣。藩士時代は薩長同盟締結、戊辰戦争に活躍し、戦後は北海道にて開拓次官、開拓長官として北海道開拓を担った。
 箱館戦争で戦い、降伏を呼びかけた榎本武揚を高く評価し、赦免と登用を呼び掛け、榎本に日露外交を託した(本人は大久保利通暗殺後の薩摩閥重鎮として多方面い多忙だった)。関係ないが、明治政府要人の中でも屈指の酒乱だった。

アレクサンドル・ゴルチャコフ(1798年6月4日〜1883年2月27日)……帝政ロシアの政治家・外交官・貴族(公爵)。千島・樺太交換条約締結時の肩書は外務大臣。皇帝アレクサンドル2世の信任を得て二五年に渡って外相として外交を担当。虚栄心が強く、ロシアの専制政治が時代遅れなのを感じつつもアレクサンドル2世に絶対の忠誠を尽くした頑固者。ナポレオン3世やビスマルクとも渡り合った。



総論 「まなぶべきこと」と「注目点」でほぼ言いたいことは言っているので、最後に歴史教育における千島・樺太交換条約の扱いの低さについて。
 この条約に限らず、どうも歴史というものは戦史を中心に綴られ、戦争に関わっているか否かで注目度が大きく異なる。日露・日ソ間に締結された諸条約も、戦争が絡んでいない故に日露和親条約・日露修好通商条約は日米間のそれほどには注目されていないし、日露戦争や第二次世界大戦が関連したポーツマス講和条約・日ソ中立条約・日ソ共同宣言に比べるとその他の条約の注目度は低いと言わざるを得ない。

 両国が揉めた後のトラブル解決に関連する取り決めも大切だが、両国が戦争を挟まず、心底友好を望んで平時に結ばれた条約はもっともっと注目され、研究されなくてはならないだろう。
 ただでさえ、「勝敗」が絡むと冷静さをなくし、暴論でも押し通そうとするのが人間なのだから。
 えっ?冷静な話し合いで解決出来ない未熟さゆえに戦争が起きると?ごもっとも…………。


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平成三一(2019)年二月一四日 最終更新