第肆頁 ポーツマス講和条約

条約名ポーツマス講和条約(ぽーつますこうわじょうやく)
締結時の国家機関日本側大日本帝国政府
ロシア側ロシア帝国
調印者日本側小村寿太郎(外務大臣)
ロシア側セルゲイ・ヴィッテ(外務大臣)
時の国家元首日本側明治天皇
ロシア側ニコライ?世
締結年月日明治三八(1905)年九月五日
締結場所アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマス
備考 条約原文はフランス語で綴られた。
条約内容(クリックすると内容を表示し、再度クリックすると閉じます)



背景 所謂、日露戦争の講和条約。余りにも有名な出来事且つ、詳細に語ればそれだけで一つのサイトになりかねないので(苦笑)、極力概略で済ませたい。
 日露両国間の戦争状態を終わらせ、両国の和睦を約したものだが、双方とも戦争継続が困難な中、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介にて締結されたものである。

 幕末の日露和親条約締結以来、千島列島や樺太の領有を巡って複雑な関係にありながらも、日露両国は概ね良好な関係を築いてきた。
 明治新政府は幕末以来の外交にあって、欧米列強、特に艦砲外交の前に開国に応じたアメリカや、アヘン戦争で清すら屈服せしめた英仏が警戒すべき相手で、同時に優れた技術を吸収すべき相手でもあった。何せ、列強諸国はタイを除く東南アジア・南アジア諸国を植民地支配下に置いていた。
 そんな中、明治政府は清・朝鮮・ロシアに対する外交には複雑な物を求められた。
 日本が平和であるためには、隣国が近代化し、隣国の脅威もびくともしない国家として日本と手を携えてくれればいいと考えた訳で、それ自体は決して悪い考えではなかったのだが、一部が独善的過ぎた
 日本は幕末の外交を反面教師として列強の文化を上手く吸収し、文明開化や殖産興業に成功した(←これ自体は自慢出来ることである)が、それを清や朝鮮に押し付け過ぎ、思い通りに動いてくれない相手国に対し、武力行使や内政干渉も辞さない空気が生まれた(←これが良くない)。
 特に朝鮮半島が(日本の意が通る形での)安定が急務と考えた日本は、中華思想を捨て切れずに朝鮮を引き続き属国と見做す清と利害が対立し、明治二七(1894)年に日清戦争が勃発した。
 この戦争に勝利した日本は下関条約にて「台湾の割譲」、「遼東半島の租借」、「李氏朝鮮独立の承認」、「賠償金三億円」を勝ち取ったが、このことが日露戦争及びその講和に大きく影響した。

 戦争の勝利と極めて有利な条約の締結で日本人はアジアの一等国としての立場と誇りを得るとともに、「日本を守る為に極東アジアを日本の勢力下に置かなければならない。」「戦争に勝ったら領土と多額の賠償金を得るのが当たり前」との思い込みも得てしまった。
 この二つの想いが当時の国際情勢にあって一概に誤りと言い切るつもりはないが、結果として大日本帝国をして領土拡張を続けなければならない負のスパイラルに追い込ましめたことだけは疑いが無いだろう。

 一方のロシア帝国は、これまた西欧の国々に追い付き追い越す為に、(事の善悪は別として)これまた侵略を繰り返さざるを得ない状況にあった。
 特に冬の厳しい寒さの前に様々な産業が停滞するロシアにあって、冬でも機能出来る不凍港の確保は死活問題だった。
 だがロシアはクリミア戦争露土戦争を経て、西進は困難と見て、有名な南下政策に出て、満州・朝鮮・中央アジア・西アジアに食指を延ばした。殊に、朝鮮半島の北東にある港町・ウラジボスークは「東方を制する」という意味を持ち、「侵略前線基地です。」と言っているに等しかった(侵略云々を別にしても、旧ソ連時代に、ニキータ・フルシチョフが「ウラジボスークを東洋のロサンゼルスにする!」と主張した様に、彼の地は今でもロシアの極東外交における要衝である)。

 結果、日本とロシアは満州における軍事勢力を巡って対立するようになった。
 日本が日清戦争に勝利し、下関条約によって遼東半島を租借地として獲得すると、朝鮮半島北部に日本の前線基地が出来ることで南下政策と衝突すると見たロシアはドイツ、フランスを誘って、日本に清への遼東半島返還を要請し、日本はこれに応じた(三国干渉)。

 まあ、ロシアが敗戦国・清を憐れんで要請したり、日本が武力による領土獲得の非を悟って返還に応じたりしたのであれば人道的な話だが、腹の中がそうでなかったのはその直後の歴史からして証明されている(苦笑)。
 日本は遼東半島を返還したものの、しっかり清から追加賠償を代償として払わせたし、ロシアはロシアでその遼東半島を租借させたのだから恐れ入る(嘲笑)。

 せっかくの戦果に水を差された日本国内には(三国に対抗できない悔しさもあって)反露感情が高まった。当然日露戦争にはこの時の三国干渉に対する報復的な意味合いもあったが、日露戦争まで一〇年の時間を要した様に、どんな馬鹿で強欲な政治家でもロシア帝国がそう簡単に事を構えられる相手ではないことぐらいは認識していた。

 明治政府の一部にはあくまでロシアとは事を構えず、ロシアに満州を譲ることで日本は韓国だけは確実な日本の勢力圏内に置こうとの意見もあったが、幸か不幸かロシアの南下政策を警戒した米英が日本に好意的な姿勢を見せたため、明治三五(1902)年の日英同盟締結をもって日露の交渉は打ち切られた。
 そして義和団事件後、満州に軍隊を居座り続けさせたロシアを非難する形で日本政府はロシアとの国交断絶を表明し、宣戦布告を行い、日露戦争は勃発した。

 ただでさえ、戦争には莫大な戦費が掛かる(そもそも経済的に充実している国は戦争などという非経済的行為に走らない)。明治政府は米英を初めとする外国からの借款と、国内の増税で戦費を捻り出した。
 ちなみにこの時の増税策は「煙草の専売」と「相続税の新設」だったのだが、そもそも政治家というものは必要に駆られて行った増税に対し、「必要」を生んだ件が終わっても、増税は辞めないと云う姑息な面を持つ

 日露戦争は一年で終わったが、日露戦争によって始まった煙草の専売は一〇〇年近く経ってからようやく廃止されたが、相続税は一一五年経った今も廃止される気配はない。
 東日本大震災による復興の為、消費税率を八%から一〇%に上げる政策が大反対の為に延期に延期が為され、死ぬほど文句言われるのも、国民の中に「復興が完全に終わっても税率が戻ることはない。」、「一〇%に上げてもいずれ「足りない!税率を上げるしかない!」と言い出すに決まっている。」という強烈な政治不信があるのを政治家どもは自覚しているのだろうか?

 ともあれ、そんな状況下で行われた戦争だったので、海軍元帥・東郷平八郎は政治家達に、「ちゃんと戦争の終わらせ方も考えておいて下さい。」と伝えた上で戦争に臨んだ。
 ちなみに太平洋戦争の時にも長官・山本五十六は同じことを政府首脳に伝え、アメリカと戦えるのは一年が限界で、その間に局地的な勝利を元に有利な講和条約を結ぶよう告げていたが、終わるどころか泥沼化して日本全体が悲惨なことになったのは周知の通りである。

 一応、当時の政府首脳はその限界を弁えていたので、日本海海戦における大勝利を好機として、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに講和条約仲介を要請し、ルーズベルトはそれに応じ、ロシア皇帝ニコライ?世に講和を呼び掛けた。
 ロシアサイドでは帝政に対する革命への動きが顕在化しつつある状況下で、戦闘における相次ぐ敗戦(旅順陥落、奉天会戦の敗北)にじりじりし、陸戦ではまだまだ充分な戦力を保持していたが、安心して全力投入出来る状態になかった。
 加えて、戦略的優位を奪還する筈だった精鋭バルチック艦隊は日本海海戦で壊滅的大敗北を喫し、樺太も獲られ、一日も早く戦争を終わらせたい状態にはあった。

 事ここに至り、日露両国が戦争継続の苦から講和交渉を渡りに船とする状況と認識し、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマスのイーストリバーという川(←分かる人だけ笑って下さい(笑))に面したホテルにて講和条約締結に向けての交渉が持たれることとなった。
 だが、両国政府首脳・全権とも、極めて困難な交渉になることは否でも認識せざるを得なかった。

 太平洋戦争中に大本営が不利な戦況を隠して、虚偽の自国軍優位を喧伝したことは有名で今でも評判が悪いが、そもそも戦争自体が「相手に弱味を見せない。」ということが求められるものである。
 当然現代よりも言論の自由度が低かったこの時代、戦況、特にその背景的状況が一般ピープルに正しく伝わることはまずなかっただろう。
 日本人にしてみれば日清戦争の勝利によって得た下関条約の様な「勝者の権利」が常識となっており、樺太・遼東半島・多額の賠償金が得られるのは当然と思い込み、「ロシア側が拒否するなら戦争を継続するまでだ!」と本気で思っていた。
 だが、政府首脳にしてみれば戦闘では連戦連勝を続けていても樺太以外のロシアの地を取った訳でもなく、完全敗北と言える内容の条約にロシアが応じるとは思えなかったが、戦費の調達も限界を超え、必要以上に強硬に出てロシアがキレて戦争継続に走るのは何としても避けなければならなかった。

 詰まる所、国民が期待するような一方的勝利ともいえる講和条約の締結は最初から不可能で、国民の万歳の声を受けて横浜港を発つ際に、全権・小村寿太郎は「帰国時には、きっとこの歓声は罵声に変わっているでしょうね。」と苦笑し、それに対して伊藤博文は、「例え何があっても余だけは君を出迎えに行く。」と約して小村を励ました。

 そしてその頃、ロシア帝国内では、皇帝ニコライ?世は外務大臣のセルゲイ・ヴィッテに全権を任命するとともに、「日本に1ルーブルの金も、一寸の土地も譲るな。」と厳命していた

 かかる背景をもって始まった戦争と、その後始末が混迷を極めたのは周知の通りで、その因果の一分は今尚、日露両国を呪縛しているが、それでも日露両国はいつまでも争うことを決して望んではいないことをこのポーツマス講和条約の締結に尽力した人々に信じたいところである。



注目点 このポーツマス講和条約の内容とその要点は中学校の授業でも充分に教えられることなので、わざわざこのようなサイトを見て下さる方々に改めて説明するようなことはしない。
 歴史授業の知識を押さえるだけなら、「韓国・満州における日本の権益と優位を得た」、「樺太の南半分を割譲された」、「賠償金は一円も得られなかった」を知っていれば充分である。

 個人的に注目するのは、韓国(大韓帝国)に対する恐ろしいまでの日本側の執念である。
 このポーツマス講和条約の内容が、日本国民が「勝利者の当然の権利」と認識していた「樺太割譲」・「多額の賠償金」の内、「樺太の南半分」しか得られず、賠償金に至っては一円も得られなかったことが、(戦況と内実の詳細を知らなかったということもあるが)日本国民をして日比谷焼き討ち事件を起こさしめる程激怒させたのは有名である。
 勿論、得ることの出来た権益・領土にしてもロシア側はすんなり受け入れた訳ではなく、粘り強い交渉の果てに辛うじて得たものばかりなのだが、小村寿太郎を頭とする日本側が第一条件、つまり絶対に譲ることの出来ない獲得項目としたのが「韓国に対する保護権」だった。

 周知の様に、明治政府の高官達は何も諸手を挙げてロシアとの戦争に踏み切った訳ではない。義和団事件後の駐屯兵撤兵をロシアが履行していれば日露戦争が起きなかった可能性は高い(だからと言って、日本がロシアに戦争を吹っ掛けたのが正義とは思わないが)。
 また「満韓交換論」という言葉があった様に、朝鮮半島を確実な日本の勢力圏として取り込めるなら、満州はロシアに譲ってもいいと考える高官(例:伊藤博文・井上馨)も少なくなかった(←どっちみち、韓国や満州の人々にとっては身勝手な侵略論に過ぎない)。

 事の是非はさておき、当時の大日本帝国は朝鮮半島を国土防衛の喉元と考え、朝鮮半島が安泰なら日本は安全と考え、直前の日清戦争の講和条約である下関条約では李氏朝鮮(当時)の独立を第一に定め、遼東半島を租借することで日本防衛の橋頭保にせんとした。
 この下関条約で長年中華の冊封体制下にあった朝鮮が初めて「帝国」を名乗れる真の独立国としたことを以て、日本の侵略を否定し、現在の韓国人・朝鮮人に対して「日本に感謝しろ。」と述べる者達がいるが、「朝鮮独立の認定」それ自体は国際的な善行にしても、そこに橋頭保としての役割を持つ朝鮮(及び親日政権)を造らんとした下心を否定しては片手落ちと言えよう(←そんな下心があったこと自体は悪いとは言わないし、後々の軍事介入や強引な保護化が無ければ立派な国策と言えた)。
 ともあれ、混迷極めるアジア情勢にあって、当時の多くの日本人は「韓国を絶対ロシアに譲ってはならない。」が戦争を始めた第一義にして、戦果として何としても確保しなければならないことだった。

 それゆえ、小村ヴィッテとの交渉にあって最初に出した案(賠償金一五億円の支払いを含む)をことごとく拒絶された際にも、韓国を日本の保護領とすることは頑として、石に齧りつかんばかりの態度で譲らなかった。
 勿論、小村ならずとも最初に出す要求は過剰なまでに最大限の物を出すのが定石である。局地戦的に連戦連勝しているから良いようなものの、もはや戦争継続能力の残されていない日本の状況にあって、ロシアがすべての要求を呑むなどと、小村高平小五郎も毛頭思っていなかったことだろうし、日本の完全勝利を求める内容に対し、ヴィッテがどう反論するかを見極めることから交渉の本番は始まると見ていただろう。

 果たせるかな、前述した様に当初ヴィッテ小村の出した条約案をことごとく拒否する態度を示した。

 当然であろう。

 講和交渉なのに相手の要求を頭からすべて受け入れる全権など、降伏文書への調印者にすら見られはしないだろう。前述した様にヴィッテはツァーリ(皇帝)から「一寸の土地も、一ルーブルの賠償金も日本に渡すな。」との厳命を受けていたし、局地的に連戦連敗していたにせよ、革命騒ぎが無ければロシア側は残存戦力を充分に投入出来、国としての敗北など一万人いれば一万人が認めなかっただろう(まあ、「勝った」とも言えないだろうけれど)。
 条約締結後、帰国した小村が大衆から大ブーイングを浴びたのは有名だが、ロングヘアー・フルシチョフは、(限定的とはいえ)敗者に等しい条約を結んできたヴィッテの方こそ、ロシア人からの大ブーイングに曝されなかった?と疑問に思ったものだった。

 結局、日露双方に戦争継続は困難な状況にあり、妥協に妥協を重ねる形でポーツマス講和条約は締結され、戦争状態は終わり、捕虜は互いの国に送還され、表面上とはいえ日露両国は後々の「永遠の友好」を誓った。

 そして経緯はどうあれ、日露両国はこの後急接近を始めた。
 そもそも、ルーズベルトが(日本に好意的な)講和交渉の仲介を務めたのには、満州鉄道を日米の合弁会社の支配下に置き、その利権にあやかろうとの下心があってのことだった。だが、戦後日本はこれを拒否したことでアメリカとの関係が冷却化し出した。
 同時に、満州・韓国情勢においてこれ以上日露が争うのはどちらの国にとっても得策ではなく、両国はアメリカを牽制する必要上から、「敵の敵は味方」的な接近を図るようになった。
 何とも皮肉な歴史の循環である。



学ぶべきこと アメリカに到着した直後、セルゲイ・ヴィッテはアメリカのマスコミのインタビューに対し、日本の武力に寄る戦果の要求に断じて屈しない旨を語った。その際、自身のことを「心からの平和主義者」とした上で、日本の不当な要求を拒絶する為にはその主義を曲げることを辞さない旨を明言し、同時に武力による状況変更は「遺恨を残す。」とした(←実際にそうなった)。

 ポーツマス講和条約締結を巡る詳細を知りたい方々には吉村昭著・『ポーツマスの旗』が是非ともお勧めである(←ロングヘアー・フルシチョフは決して新潮社の回し者ではありません(笑))。
 言葉通り、ヴィッテは平和主義者で、戦後暫くしてから突然自邸を訪問した小村寿太郎を心から歓迎し、両者は固い握手を交わして別れた。
 その小村も身分の低い生れながら、純粋に語学力を初めとする才能一本で日本初の官費留学生の地位を勝ち取り、外交畑の第一人者として活躍した人物で、謂わば両者は外国人に対する偏見もなく、愛国心の強い、敵であっても相手を認め合える人物だった。

 そんな両者の交渉は、両者が有能ゆえに難渋を極めた。
 ヴィッテヴィッテで日本がひた隠しにしていた戦争継続不能状態を見抜き、「我々は決して負けていない。」と云う強気の姿勢を崩さず、小村小村ヴィッテがアメリカ高官とフランス語で交わしていた密談をフランス語を知らない振りをしてしっかり聞き取り、最後の最後にフランス語でヴィッテの尽力を讃え、ヴィッテを驚愕させた。

 少し話が逸れるが、このポーツマス講和条約の正文はフランス語で綴られた。
 日本でもなく、ロシアでもなく、仲介をしたアメリカ(←実態は日本より)でもなく、完全な中立を守るための措置で、当時フランスと露仏同盟を結んでいたロシアとしてもフランスを取り入れるのに異論はなかった。
 そんなロシアでは当時の第一外国語はフランス語で、ヴィッテはフランス語に堪能だった。勿論、アメリカ留学経験のある小村が英語に堪能なのは誰もが知っていたが、実はフランス語も話せたことを最後の最後に暴露したのだから、小村もなかなかの狸である(←見た目は狐だが(笑))。

 いずれにせよ、そんな有能で、相互に相手を理解しようと努める人物の力をもってしても、日露戦争を双方が納得いく形で終わらせるのは不可能だった。否、正確には誰にも出来なかったことだろう。

 ここに歴史の重要な真実がある。

 それは、「戦争とは為政者・国民の性格・人格に関わらず起きるときには起きてしまう。」ということと、「どんなに憎み合っていても、戦争を永久に続けることは不可能。」ということである。
 前者は救いのない言葉に聞こえるかもしれないが、何も戦争不可避論を唱えたい訳ではない。「国として集団で暴走したら、個人の能力や責任に帰せない。」ということを言いたいのである。逆を言えば、「国として暴走しなければ、撥ねっ返りのタカ派の一人や二人がいたところで戦争は起きない。」ということである。
 そして、その事が後者に繋がる。利権や歪んだ愛国心や偏狭な異国人嫌いから「戦争したがっているとしか思えん…。」的な奴等がいつの時代にも存在するが、誰だって戦死への恐怖や戦時下の経済的にも精神的にも言論の不自由的にも辛い日々が延々と続くのを望みはしない。余程双方の戦力が伯仲しない限り戦争はどちらかの勝利で終わるし、日露戦争の様な泥沼化したなら泥沼化したで、痛み分けでも終戦を受け入れるのが人間である。

 逆に辞め時を見誤った為に、泥沼化から抜け出せずに意地を張り続けて戦い続けた太平洋戦争がどういう結末になったかは言うまでもないだろう。
 戦争の始まった忌むべき背景、そしてそれでも何とか双方の国が終わらせた尽力、その後も残った国家間のしこりと後世への影響…………我々日露両国民が日露戦争ポーツマス講和条約に学べること、学ぶべきことは膨大だと云えよう。



主要人物略歴
小村寿太郎 (安政二(1855)年一〇月二六日〜明治四四(1911)年一一月二六日)……外交官・政治家・侯爵。日向飫肥藩士の家に生まれ、語学に優れたことから第一回文部省海外留学生に選ばれ、官費でハーバード大学に学んだ。
 帰国後、官僚として活躍する中、陸奥宗光に見込まれたことから次第に外交に尽力し、早くからロシアへの対抗、韓国の保護化をにらみ、日英同盟の締結により男爵、ポーツマス講和条約の締結により侯爵に叙された。
 条約改正にあっても、関税自主権を取り戻すなど、明治時代の日本外交にあって欠かせない人物の一人で、小柄な体格を揶揄されてもそれを逆手に取った反論を行う負けん気の強い人物だったが、家庭と金銭面では不遇の生涯だった(本人の遊郭通い好きもあったが)。

高平小五郎(嘉永七(1854)年一月一日〜大正一五(1926)年一一月二八日)……外交官・男爵・貴族院議員。戊辰戦争を戦い、明治になってからは外務省に入ったのを皮切りに外交官として活躍。
 駐米日本大使を務めていたことから、日露戦争の和平交渉仲介をルーズベルトに打診し、講和交渉でも小村寿太郎を補佐する等、背景面での尽力は小村に劣らなかった。
 講和締結後、その功で男爵・貴族院議員となり、終生外交に尽力した。

セルゲイ・ヴィッテ (1849年6月29日〜1915年3月13日)……帝政ロシアの貴族(伯爵)にして政治家。運輸大臣や大蔵大臣を歴任し、ポーツマス講和条約締結後には初代大臣会議議長にも就任した。
 洞察力に優れ、日露戦争には国内状況から反対し、講和交渉においては日本に戦争継続能力がないことを見抜き、ロシア側の不利を最小限度に留めた。基本は内政担当で、様々な戦争に反対した平和主義者。



総論 永遠に続く戦争など存在し得ない。例え二国間が永遠にいがみ合ったとしても、休戦・停戦は訪れるし、何より戦い続ければいつか必ず国家は破綻する。
 それが分かっていても、利権・宗教的対立・民族的対立・領土問題を元に国と国が戦争という最悪の手段を取った例は枚挙に暇がない。
 殊に日露両国は千島列島・樺太・カムチャッカ半島を巡って近代以前から問題を抱え、国防や利権に絡む歪んだ考えから勢力圏を満州と朝鮮半島に伸ばさんとして互いが譲らなかったために戦火を交えてしまった。

 だが、日露両国の政府首脳は決して馬鹿ではなく(詳細を伏せられた一般ピープルは過激化していたが)、ここまでの難題と甚大な戦災を抱え、生半可な結果に納得しない国民を抱えながら、両国は平和と友好を取り戻す講和条約が締結出来た意義は大きい。
 残念ながら双方が妥協に妥協を重ねた条約は戦闘によるしこりを除くには至らず、ヴィッテが懸念した様に遺恨となった。それを端的に示したのが、第二次世界大戦の戦果としてヨシフ・スターリンが求めたものだった。それらは日露戦争で失ったロシア帝国の利権を悉く奪還するものだったのは明らかである。

 不幸な歴史にも、それを辛うじて和睦に漕ぎ付けた歴史にも学ぶべきは多いが、両国が争いの舞台とした地はそもそもが日露両国が異民族から奪った土地であることを忘れてはならないだろう。
 百歩譲って、日露戦争が侵略戦争でないとしても、両国が衝突した経緯には間違いなく侵略が(双方に)あったのだから。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
日露の間へ戻る

令和三(2021)年二月一二日 最終更新