第伍頁 日ソ基本条約

条約名日ソ基本条約(にっそきほんじょうやく)
正式名称は日本國及「ソヴィエト」社會主義共和國聯邦?ノ關係ヲ律スル基本的法則ニ關スル條約(にっぽんこくおよびそヴぃえとしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽうかんのかんけいをりっするきほんてきほうそくにかんするじょうやく)
締結時の国家機関日本側大日本帝国政府
ソ連側ソビエト社会主義共和国連邦
調印者日本側幣原喜重郎(外務大臣)、芳澤謙吉(駐中日本大使)
ソ連側レフ・カラハン(駐中ソビエト大使)
時の国家元首日本側大正天皇
ソ連側ヨシフ・スターリン
締結年月日大正一四(1925)年一月二〇日
締結場所中華民国北京
備考 日本が社会主義国と締結した最初の条約で、初めて国交が開かれた。
条約内容 (クリックすると内容を表示し、再度クリックすると閉じます)


背景 前頁におけるポーツマス講和条約の締結を皮切りに、日露両国は満州における互いの利権を守り、世界的に求心力を増すアメリカと対抗する形でかつてとは少し異なった友好関係を展開した。
 だが、日露戦争から一二年、ロシア帝国はロシア革命にて倒れ、五年後にソビエト社会主義共和国連邦が成立した。

 周知の通り、ソビエト連邦は世界初の共産主義、社会主義国として世に生まれたが、大日本帝国を初め、立憲君主制、資本主義の諸国は共産主義国家の誕生を歓迎しないどころか、目の敵とし、ソビエトと国境を接する地域の居留民や、革命によってソビエト領内に取り残されたチェコ軍の救出を大義名分として軍事介入までした(シベリア出兵)。
 大義的にも、結果論的にも、このシベリア出兵は数多くの犠牲者を出しただけで終わった失政中の失政だった。
 勿論戦争なんてものは、「固有の領土奪還」・「神の教え」・「民族の誇り」を大義名分としつつも、本来の目的は資源・交易上の要衝・肥沃な農地といった経済的要因である(逆を言えば、経済的な見返り無しに血を流す程人類は馬鹿ではない)。
 日本の目的は満蒙と北樺太にあったが、結局シベリア出兵は何も得られず、日本に抵抗するソ連による抗日パルチザンによって居留民が皆殺しにされた尼港事件の様な悲惨な出来事すら勃発した。

 これら数々の悲劇は日ソ両国にとって為にならないものだった(←なって堪るか、という気がするが)。
 それでなくても日本においても米騒動(大正七(1918)年)や関東大震災(大正一二(1923)年)と云った難事が相次いでおり、ソビエト連邦にしてもいついつまでも周辺国家ともめ続ける訳にはいかなかった。
 経済界に目を転じると、ソ連との険悪な関係は敦賀港・舞鶴港を通して沿海州と貿易を行っていた関西財界に大打撃を与え、オホーツク海で漁業を行っていた漁民にも断続的な不安をもたらし続けていた。かくして世論はソビエト連邦との修好回復を望む声が増し、政府も国交正常化に前向きとならざるを得なかった。

 ソビエト連邦側でも外交官レフ・カラハンの名で大正八(1919)年にカラハン宣言を発して、中国(中華民国)との国交樹立、中東鉄道(旧東清鉄道)の還付を約束し、極東での外交を積極的に展開していた。
 それに対し、日本では満州に親日的な張作霖軍閥を擁していたが、日本は散々利用するだけ利用して張作霖を信用していなかった(後に彼が謀殺されたのは有名)。それゆえ政治・経済・軍事すべての面で満州を初めとする中国での権益を守るためにも国交を樹立すべき、という流れになった。
 これを声高に主張したのは元外務大臣で、初代満鉄総裁でもあった後藤新平だった。後藤は、極東利権確保の為にイデオロギーの問題に捉われずにソ連と友好関係を結ぶことでワシントン条約以後、欧米から冷遇されつつあった日本の境遇を打開する為にもソビエト連邦との提携の必要を訴えた。

 かくして大正も末期になって、ようやく日本とソビエト連邦は正式な国交を樹立することとなった。



注目点 まず、ソビエト連邦と国交を樹立したことで日本が何を得たのか?ということである。

 日ソ基本条約の主題は、日本と旧ロシア帝国が(建前上は)「永遠の友好」を誓ったポーツマス講和条約締結状態に戻ることにあった。
 そもそも日本が何としても確保したかったのは、満蒙と朝鮮半島の(日本の軍事的優位を確保した上での)安定、沿海州沿岸漁業権、そしてシベリア出兵後も日本軍が駐留を続けていた北樺太(←はっきり言って、不法占拠)に眠ると見られていた石油・石炭資源の利権だった。

 勿論、日ソ間に友好関係が樹立されれば、領土を巡る不安は解消され、交易や漁業もまずは安心となる。難題なのは北樺太を巡る問題だった。
 この難題に対し、交渉の結果、ソビエト連邦側は駐留日本軍の撤退と引き換えに北樺太の天然資源の利権を日本側に与えることで決着した。
 詰まる所、日本側は出兵の代償を僅かに確保することでシベリア出兵の面子が立ち、日ソ基本条約に調印するに至った訳である。

 一方の、ソビエト連邦側のメリットは、国際的孤立回避と内政不干渉を得たことと云えようか。
 世界初の共産主義政権を、(正確にはその思想・勢力が自国に波及することを)目の敵としたのは日本だけではなかった。それゆえ建国当初、ソビエト連邦は「国家」と見做されず、国際連合にも加盟出来ず、旧ロシア帝国が覇を唱えた東欧には続々と反ソ的な新国家が誕生し、世界各国からの国家承認を得ることも出来なかった。
 日ソ基本条約締結後も、日本国内での藩閥・軍閥・財閥は共産主義、社会主義に冷淡(世界各国で社会主義者・共産主義者によるテロが相次いでいたこともあったが)で、条約締結の同年に治安維持法を制定して思想統制を強化している。
 後の、ゾルゲ事件や共産主義者・社会主義者への弾圧を見ても、大日本帝国が決してソビエト連邦に心を許していなかったことは明らかだが、逆にそんな状況下だからこそ、自国の政治体制に干渉を防ぐ保証はソビエトにとって急務だったことが見て取れる。



学ぶべきこと 冒頭に記述してあるように、日ソ基本条約締結時のソビエト連邦の最高権力者は史上最悪の独裁者ヨシフ・スターリンである(←異論はあると思いますが、道場主はそう見做しています)。
 前述した様に、大日本帝国はソビエト連邦に心を許していなかったが、それはソビエト連邦も同様だった。確かに「完全に相手国を信頼する。」という関係及び思考は不可能に近いが、それを考慮してもスターリンは人を信じる心が確定的に欠如していた。

 その点を考慮して意外だったのは、ソビエト連邦−つまりはスターリンが北樺太の石油利権を日本に委譲することを認めた点である。
 周知の様に、第二次世界大戦末期に対日参戦を行ったスターリンの第一目的は日露戦争で失ったロシアのものと思い込んでいた利権奪還だった。それは旧ロシア帝国が極東にて睨んでいた領土を手にすることで、実際に全樺太、全千島列島が日本から奪われて現在に至っている。
 それどころか、スターリンは北海道の北半分の割譲さえGHQに打診していた(トルーマン米大統領が拒絶したが)。そんなスターリンがロシア人にとっても屈辱的とも思えるポーツマス講和条約の内容を重んじ、取り戻した北樺太の利権を日本に譲ることに同意したのは心底意外だった。

 ただ、少し考察して合点が行った。
 早い話、優先順位の問題だったのだろう。ソビエト連邦建国の父ウラジミール・レーニンの死に際し、その後継者の地位はスターリンとレフ・トロツキーによって争われた訳だが、トロツキーは世界共産主義を目指したのに対し、スターリンは一国共産主義を掲げ、まずはソビエト連邦自体を完全な共産主義国家として揺るぎないものにすることを目指した。
 結果、後継者争いはスターリンが勝利し、敗れたトロツキーはメキシコまで逃げたにもかかわらず暗殺された。
 だが、その後の歴史が証明している様に、世界初にして最大の共産主義国家となったソビエト連邦=スターリンはその後、数々の戦争を経て、東欧・北東アジア・中央アジアに共産主義を波及させ、それ等の国々のリーダーとなった。
 結局、スターリン自身、「世界征服」を目指していたということだ。勿論、一般的なイメージでの全世界がスターリンを崇めるような世界征服ではなく、世界全体が共産主義化した上で、そのリーダーたるスターリンの命令が何でも通る、ソビエト連邦最高権力者が世界盟主たりうることを目指していたとみているのである。

 となると、大日本帝国とソビエト連邦が表面上は友好を装いつつも、数々の暗闘を繰り返し、最後には相争うようになったのも歴史的必然だったと云える。
 それを思うとき、両国の最初の締結条約となった日ソ基本条約は目先の問題解決に終止し、真の意味での相互不干渉と善隣友好が見据えられていたのだろうか?
 これは決して過去の話ではない。現代日本国もいつかはソビエト連邦と平和条約を結ばなければならないだろうし、既に締結されている日韓基本協約日中平和友好条約がしっかり機能しているか?という問題を考えると、日本の外交はまだまだ過去の失敗例を充分に学んでいるとは言い難いとロングヘアー・フルシチョフは考えるのである。



主要人物略歴
 後藤新平(安政四(1857)年六月四日〜昭和四(1929)年四月一三日)………医師、官僚、政治家。仙台藩士の家に生まれ、才能を見込まれ、政治家と医師の両方の道を学び、刺された板垣退助の治療も行った。
 衛生局にて軍医の道を歩む中、官僚としての道を得て、植民地経営に功があったことで台湾総督を初め、各種大臣、満鉄総裁、拓殖大学学長等を歴任し、終生貴族院議員の地位にあった。政治家になった身内多し。

 幣原喜重郎(しではらきじゅうろう 明治五(1872)年九月一三日〜昭和二六(1951)年三月一〇日)………外交官・政治家。東京帝国大学(現・東京大学)を卒業後、外務省に入省したことで政治家として主に外交で活躍。自由主義体制における国際協調路線による外交は「幣原外交」と呼ばれ、軍部とは対立した。
 穏健路線だったこともあって、日本降伏直後に昭和天皇、吉田茂の要請を受けて内閣総理大臣となってGHQ占領下の日本復興に尽力。

 芳澤謙吉(よしざわけんきち 明治七(1874)年一月二四日〜昭和四〇(1965)年一月五日)………外交官、政治家。新潟県出身。東京帝国大学卒業後、外務省に入省し、各国公使を歴任。
 妻が犬養毅の長女だった縁で犬養内閣では外務大臣に就任。その後も主に外交官僚として活躍。終戦直後は一時公職追放の対象ともなったが、解除後は八一歳まで公使を務めた。

 レフ・カラハン(1889年1月20日〜1937年9月20日)………革命家、外交官。アルメニア人。ロシア革命直前にロシア社会民主労働党に入党するも、すぐに革命に身を投じ、ソビエト連邦樹立直後の外交を担当。
 第一次世界大戦におけるドイツとの単独講和を成立させ、各国の駐在大使を歴任し、中国・ポーランド・日本との関係強化に努めたが、後にスターリンの粛清にあって刑死。



総論 結局、ポーツマス講和条約にしても、日ソ基本条約にしても、日露・日ソの当面の紛争を収めるという意味では当事者達は粉骨砕身して交渉・締結に当たったのだろうけれど、領土を巡る遺恨を取り払う意味においては不充分だったことが分かる。

 勿論、それまでに例の無かった体制の国家と初めて国交を開くこと自体が困難で、手探りも多かっただろうし、過去の遺恨にまで踏み込んだ解決を図ることまで求めるのは酷な話だろう。ましてや、真の交渉相手はあのスターリンだったのである。ただでさえ、日露交流開始以来日露戦争と並んで最悪の状態にあった状況下ではポーツマス講和条約締結時点に戻すことで精一杯だったことだろう。

 ただそれでも、互いが初めての関係を持つことを契機として、すべてを真っ新にして過去の遺恨に縛られない友好を始められなかったものだろうか?と思われてならない。


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令和三(2021)年二月一二日 最終更新