第陸頁 日ソ中立条約

条約名日ソ中立条約(にそちゅうりつじょうやく)
締結時の国家機関日本側大日本帝国政府
ソ連側ソビエト社会主義共和国連邦
調印者日本側松岡洋右(外務大臣)、建川美次(駐ソ日本大使)
ソ連側ヴァチェスラフ・モロトフ(外務大臣)
時の国家元首日本側昭和天皇
ソ連側ヨシフ・スターリン
締結年月日昭和一六(1941)年四月一三日
締結場所ソビエト社会主義共和国連邦モスクワ
備考 第二次世界大戦末期のソ連による対日参戦の非を問う材料として重要。
条約内容 (クリックすると内容を表示し、再度クリックすると閉じます)


背景 日ソ中立条約締結当時、日本は戦争の泥沼にあった。
 日中戦争に突入して既に四年が経過しており、早期に首都南京を陥落せしめたものの、国民党の蒋介石は武漢、重慶と本拠を移しては徹底抗戦し、国民党と対立していた毛沢東率いる共産党も国共内戦よりは対日抗戦を優先し、当初それに拒否的だった蒋介石も張学良・周恩来の説得に応じて国共は一致団結した。
 加えて、日本の満州→冀東→南京への侵攻は国際社会の非難を浴びており、米英は中国を援助し、元から資源備蓄に難のあった日本は、戦術的にはともかく戦略的に劣勢に傾きつつあった。
 そんな日本は前年にナチス・ドイツ、イタリアと日独伊三国同盟を締結して、欧州で優勢を誇るドイツを後ろ盾に米英への対抗手段とし、既にナチスに敗れていたフランス・オランダの植民地に侵攻してベトナム・インドネシア等の資源を兵站の足しにしていた。

 そしてそんな日本と手を結んでいたドイツは独裁者にして野心家であるアドルフ・ヒトラーは「第三帝国」と称して強制を誇ったドイツを取り戻さんとして再軍備・領土拡張に務める人物で、二年前にはポーランド侵攻を皮切りに第二次世界大戦を引き起こし、中央から東部に掛けての欧州の大部分を支配していた。

 そしてソビエト連邦は第二次世界大戦勃発の直前にそのヒトラーと独ソ不可侵条約を締結し、世界を驚かせていた。というのも、ヒトラーは大の共産主義嫌いで、国内では国会議事堂放火事件の犯人を共産主義者と決めつけて弾圧に利用するほどだった。
 日独伊三国同盟締結の四年前に三国は三国防共協定を締結しており、世界はスターリンとヒトラーを「天敵同士」と見做していた。その両者が手を握ったのは、共に「領土的野心家」で、「似た者同士」だったからだろう。
 ともあれ、独ソ不可侵条約締結後のスターリンはドイツが締結直後にポーランドに進軍すると、ソビエト軍を動員し、ポーランドをヒトラーと分割した(←いうまでもなく、独ソ共に侵略である)。
 そして中央・北・西ヨーロッパがナチスの脅威に苦しむのを尻目に、フィンランドやバルト三国への侵攻を繰り返した。

 そんな状況下で、日本では軍事同盟の強化が叫ばれ、ソビエト連邦との提携が持ち上がった。加えて、親英米派で日独伊三国同盟締結に消極姿勢であった米内光政内閣が解散し、次いで発足した第二次近衛文麿内閣の外務大臣に就任した松岡洋右日独伊三国軍事同盟に続き、日ソ中立条約を締結することによりソ連を枢軸国側に引き入れ、最終的には日独伊ソの四ヶ国による同盟を締結するユーラシア枢軸(「日独伊ソ四国同盟構想」)によって、アメリカに対抗せんとした。

 当初、ソビエト連邦はこれに応じなかったが、ドイツの対ソ侵攻計画を予見されたことから提案を受諾し、ドイツの同盟国である日本と結ぶことは一種の保険となると見られ、両国の思惑は一致し、条約調印への運びとなった。



注目点 早い話、互いの領土に手を出すことなく平和に付き合い、一方の国が他国と交戦状態になった場合は中立を守ることを約したものである。逆を言えば、条約失効時には武力侵攻があり得ることを意味していたと云えなくもない。
 ともあれ、まず、いの一番に挙げられるのは、この日ソ中立条約早々に形骸化し、両国ともに遵守する気は更々なかったということであろう。

 条約締結から約二ヶ月後にはヒトラーは独ソ不可侵条約を無視してソビエト連邦に攻め込んで独ソ戦争が始まった。こうなると、猜疑心の塊男・スターリンにとって日本が信用出来る筈も無かった。
 一方の日本に「遵守する気がなかった。」と云うのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも調印した当の本人に遵守する気はなかった。
日独伊三国同盟にソビエト連邦も加えたユーラシア枢軸を提唱していた当の本人である松岡洋右自身が、独ソ戦争初期のナチス優勢を見て、「ソ連に侵攻すべき!」と抜かしていたのである。
 「兵は詭道」であることや、戦略上の考えは色々であることから、単純な非難は難しいかも知れないが、同盟推進者に同盟遵守の意志が皆無だったことは間違いない

 結果論的に、この日ソ中立条約はソビエト連邦側が、昭和二〇(1945)年八月八日に日本に攻め込んだことで完全に雲散霧消した。
 同条約は既に同年四月にソビエト連邦外相ヴァチェスラフ・モロトフから不延長が宣告されていが、その場合でも規定上、昭和二一(1946)年四月六日まで効力を有していた。
 条約無視に対する当時のソビエト連邦への非は別途に行うとして、結果論的にこの日ソ中立条約は双方の遵守意識の極めて低い条約だった。



学ぶべきこと 第二次世界大戦における日ソ両国民の痛ましい犠牲(←ソビエト連邦は参戦国中最多の犠牲者を出している)を考えたとき、この日ソ中立条約を締結した政治家・軍人どもに言いたいことがある。

 「条約を反故にされたときのことは考えていなかったのか?」

 と。
 勿論、全く考えていなかった訳ではないだろう。
 スターリンは本質的に人を信用出来ない人間だったし、日本も関東軍特種演習(通称「関特演」)でソビエト連邦の隙を伺っていたぐらいだから、満州国の開拓民達に武器の供与も行っていた(実際、ソ連の対日参戦に対して、日本軍は不充分な装備ながらかなり善戦した)。
 ただ、それでも万一への備えは双方が甘かったと思う。

 ソビエト連邦では、日ソ中立条約締結の僅か二ヶ月後に日本の同盟国であるナチス・ドイツに攻められるという憂き目を見た。開戦直後、ソ連軍はドイツ軍に押しまくられ、一時は首都モスクワの手前までドイツ軍の進軍を許したが、それというのもスターリンが桁外れの猜疑心で、有能な将校達が自分に取って代わることを疑って粛清していたためで、西部を守る軍人に有能な人物が殆どいなかった。
 一方の日本も、日ソ中立条約で北の憂いがなくなったとして、満州国・朝鮮半島の兵力も南方に回し、北方の守りは人員・装備共に不足していた。そして決定的に日本側にソビエトへの警戒が薄かったと感じるのは、太平洋戦争終結の為の講和仲介役としてソビエト連邦を当てにしていたということである。

 勿論、全くの暴論というつもりはない。
 実際、仲介を依頼するには中立国でないと適任とは言えない。まして米英に物申せる大国はソビエト連邦しかなかったことだろう。だが当時既にソビエト連邦は独ソ不可侵条約を反故にしたドイツと死闘を展開し、日ソ中立条約に対しても不延長を宣言していた。
 また知らなかったこととはいえ、その時点でスターリンはルーズベルトやイギリス首相ウィンストン・チャーチルと会談を重ねて、ドイツ敗北後の対日参戦を密約していた。
 把握出来ていなかった事柄に関しては仕方ないにしても、目に見えている状況だけでもソビエト連邦が日本に好意的と見ていたり、彼の国を頼りになると見ていたりしたのなら、それはホース&ディアー(馬と鹿)としか言い様がない。

 同盟に信義は大切だし、いつの日か決裂したり、破棄されたりする日が来るのは仕方ないにしても、こちらから先に破るのは永久に残る負い目となる(困難極まりない北方領土問題の交渉において、旧ソ連が先に日ソ中立条約を反故にして北方領土を占領した事実は日本側の重要な強みである)。
 ただ、約束を守ることと、約束を破られた際に備えることとは決して矛盾せず、それが如何に大切であるかをこの条約を巡る日ソの動向が教えてくれていると云えよう。



主要人物略歴
松岡洋右 (まつおかようすけ 明治一三(1880)年三月四日〜昭和二一(1946)年六月二七日)………政治家、外交官。山口県出身で、父親が事業に失敗し、アメリカで成功していた親戚を頼って渡米・留学。帰国後、外交官試験に首席で合格し、外交官としてシベリア出兵にも関わった。
 四一歳で外交官を退官すると満鉄に務め、代議士となると、外交をメインに政治に参画。国際連盟脱退に際しては得意の英語力で日本の正統性を訴えるも、不首尾に終わり、脱退回避は成らなかった。

 戦時下にあって、その後も日独伊三国同盟日ソ中立条約といった諸条約の締結に外務大臣として尽力。シベリア鉄道にて帰国する際には、スターリンが自ら見送り、ハグを交わすという異例の厚遇を受けたが、自らが締結した同盟による枢軸構想に固執し、満州での既得権を認めることを条件に陸軍が中国大陸から撤退する案に陸軍が同意しかけたのにこれを潰しに掛かったり、独ソ戦争のナチス有利を見てソ連侵攻を進言したり、凡そ正気を疑う言動を展開(←やはりコカイン中毒だったのかな?)。結果、外相として自分を引き立ててくれた近衛文麿とも袂を別った。

 外相辞任後、下野した状態となり、戦争終結の講和仲介をソビエト連邦に依頼する案が上がった際には交渉役を期待され、自身も乗り気となったが、ソビエト連邦側の拒否で幻に終わり、それに前後して結核に倒れて病床に臥せった。
 終戦後、GHQよりA級戦犯として逮捕されるも、判決前に病死した。戦死でもなく、刑死でもないのに何故か靖国神社に合祀されているが、昭和天皇はこれを不快に想われ、合祀後参拝されなくなった。

 う〜ん………「略歴」にしては長くなった………過去作でも触れたが、松岡を「日本昭和外交上のA級戦犯」と見ている道場主は松岡を徹底的に嫌っているからなあ‥‥……。

建川美次(たてかわよしつぐ 明治一三(1880)年一〇月三日〜昭和二〇(1945)年九月九日)………陸軍軍人・外交官。新潟県出身で、地方官吏の家に生まれた。
 陸軍学校を卒業し、騎兵少尉に任官され、日露戦争にも従軍。軍人としては少々にまで昇進し、陸軍の実力者。宇垣一成に可愛がられたことから陸相秘書として政治の裏方にも立った。
 満州事変では板垣征四郎とともにこれを黙認したと云われており、二・二六事件では宇垣派だったことから決起した皇統派の将校達から目の敵にされ、事件後予備役になった。
 松岡洋右が外相になると、松岡の(我意を通す為の)強引な人事により東郷茂徳の後任として駐ソ日本大使に就任し、松岡と共に日ソ中立条約に調印した。しかし一年も経ずして任を解かれ、帰国後は翼賛的政治団体の団長を務めていたが、降伏文書調印の一週間後に病死。

ヴァチェスラフ・モロトフ(1890年3月9日〜1986年11月8日)………政治家・革命家で、ソ連史を通じての代表的な外交第一人者で、第二次世界大戦前後を通じてスターリンの片腕として外務大臣を務めた。
 裕福な家に生まれたがロシア革命以前から政治活動に参加し、流刑も味わった。

 レーニンがスターリンを書記長に命じた頃からスターリンの片腕として活躍し、スターリンに「Het(ニェート「No」の意)」が言えた唯一の男で、共産党内外にあって非常に重要な人物だった。一方で政敵粛清や敵兵虐待などでもスターリンの手先として忠実に動き、それゆえに内外に敵も多かった。

 スターリン死後も引き続き外相として活躍するも、ラヴレンチー・ベリヤやニキータ・フルシチョフとの政争を経て、フルシチョフに敗れて左遷を重ねた果てに失脚して年金生活に入った。20年以上も経てから名誉が回復され、共産党に復党するも、以後は目立った活躍はなく、ミハイル・ゴルバチョフにソ連の未来を期待しつつ、96歳の長寿の果てに逝去。ソビエト連邦崩壊はその6年後で、ソビエトと共にした生涯だった。



総論 歴史の結果を後から知っている我々は当時の日ソ外交を容易に批判することが出来ます。猜疑心の塊男・スターリンを頼った愚、中国との戦争が泥沼化している状況下で米ソとの戦争を睨んでいた愚、勿論、それ等の多くは「結果を知っているから言える。」ことで、現代に生きる我々が当時に生きていたとして、正しい判断が降せたかは不詳です(実際、当時の時点では知り得なかったことも多いでしょう)。

 ただそれでも、第二次世界大戦で払われた多大な犠牲に心を痛めるとき、

日ソ中立条約締結から僅か二ヶ月でドイツが独ソ不可侵条約を反故にした時点で各種条約遵守に危機感は生まれなかったのか?」、

日ソ中立条約不延長宣告の段階で、残る有効期限についてソ連に強く念押しをしなかったのか?」、

日ソ中立条約不延長に次いで、講和仲介をソ連に断られた段階でソ連がもはや敵に回っていることを察知し得なかったのか?」、

 等の疑問が次々と脳裏を過ります。
 現代日本の外交に携わる方がこの頁を見た際には(←いるのか?そんな奴)、この日ソ中立条約を巡る歴史は外交の失敗例として重んじて欲しいと思われてなりません。


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令和三(2021)年二月一二日 最終更新