第3頁 「抑止力」を巡る死刑廃止論について

キーワード抑止効果
死刑廃止重要度★★☆☆☆☆☆☆☆☆
死刑存置重要度★★★★★★★★☆☆
重視すべき判例池田小事件、土浦殺人事件
   「死刑に犯罪抑止効果は無い!それどころか死刑になりたがっている者の凶悪犯罪を誘発する!」との声はよく聞かれる。
 その実態はなかなかに不鮮明なのだが、はっきり云えることとして、死刑廃止論者はほぼ全員が死刑の犯罪抑止効果を認めないだろう。池田小事件の宅間守(執行済み)や土浦通り魔事件の金川真大(同じく執行済み)の様に死刑を望んで凶悪犯罪に手を染めた者もいたのは事実だし、これから出てこないとは言い切れない。
 また死刑を廃止した国々で、廃止前と廃止後とで凶悪犯罪件数に殆ど変わりはなかったと云うのはよく聞かれる話である。

 だが、逆に死刑存置論者を初め、「死刑に抑止効果は有る!」と力説する者も少なくない。また、抑止効果があろうとなかろうと多くの場合、存置論者も廃止論者もまず意見を変えない。
 俺自身、例え50年間殺人が一件も起きない社会が形成されたとしても、そこに宅間守や宮崎勤の様な凶悪犯罪者が現れたら、そいつは八つ裂きにされるべきだと考えているから、抑止効果の有無は死刑存廃問題においてさして重要視されていないのかも知れない。

 ただ、死刑存置派にせよ、死刑廃止派にせよ、凶悪犯罪が起きずに済めばそれに越したことはないと考えている筈である。それゆえ、存置・廃止の決め手にはならなくても抑止効果について考察してみたい。



考察1 抑止効果は有るのか?無いのか?
 正直結論は出ないだろう。人間の心理的な問題も絡む故、科学やデータでは正確に測れないだろうし、どう表現しても万人を納得させる意見が出るとは思えない。
 それ故、俺個人の意見を出すが、俺は「死刑が抑止力となり得る者と、なり得ない者の双方が存在する。」というありふれた、つまらない結論に辿り着いている。

 まず、死刑になりたくなくて死刑を思い止まった者は確実に存在する。一例を挙げるなら、道場主の馬鹿だ(苦笑)。道場主の馬鹿は決して温厚な人間ではない。弱い故に大人しい振りをしているだけの、怒りっぽい血の気の多い人間だ。僅かな回数だが、本気で人を殺したいと思ったこともある。
 だが、結果的に死刑や犯罪者になることを恐れて相手を殺すことを思い止まった(←さすがは名うての臆病者だ)。
 実際、成長過程において親から、「人を殺せば死刑になる。」と教えられ、それによって人を殺すことの重大性を学んだ人は多いだろう。本当に死刑になる事への恐れが無ければ裁判において死刑判決を下された者のほぼ全員が控訴・上告・再審請求を重ねることは無い筈である。
 死刑廃止論者とて、死刑を酷い刑罰・恐ろしい刑罰と認識しているから反対する一因としている訳で、自らが殺されるかもしれないという恐怖がストッパーにならないと誰が断言出来るだろうか?

 勿論「死刑が抑止効果をもたらさない者」についても触れておきたい。早い話馬鹿者である。死刑の恐ろしさを知らない者、考えもしない者、「自分は絶対捕まらない。」と思い上がっている者、逮捕後の事を丸で考えずその場の感情を自制出来ない者、自暴自棄に陥って命に執着しない者、等には残念ながら死刑制度は抑止効果を生まないだろう。

 要するに死刑が誰に対しても抑止効果を生むなんてことは有り得ないが、だからと云って、抑止効果が皆無なんてことも無い。
 勿論、死刑廃止国で死刑廃止前と廃止後で犯罪件数が大きく推移していないという実例を無視するつもりもないし、それが必ずしも日本にも当てはまるとも思わない。
 一例を挙げればカナダでは1976年に警察官刑務官殺人罪死刑廃止以来、犯罪発生件数がその前年である1975年を上回った年は無い。だが、増えたり減ったりを繰り返し、殺人罪の死刑が廃止された1966年から1975年にかけて犯罪件数は増え続けていた。
 1986年には死刑復活法案も出された(否決)。死刑の抑止力有無は一概には云えないのである。



考察2 抑止されたらデータには現れません
 確かに死刑制度の有無が犯罪件数を大きく左右したという話は聞かない。廃止したからと云って犯罪発生件数が格段に上がったと云う話も聞かない。だが、一つ忘れてはならないことがある。そもそも思い止まり、為されなかった犯罪は統計に現れないと云うことである。
 云うまでもないが、抑止効果が働けば犯罪が起きない訳で、それは表に現れない。つまり死刑であれ、その他の要因であれ、抑止された犯罪がどれだけあるかは誰にも分からないのである。出来るのは、「もしかしたら、これが要因で犯罪件数が減ったかも………?」という推測のみである。

 それゆえ、死刑廃止論者は死刑廃止によって格段に犯罪件数があがるような実例でもなければ抑止効果を認めないだろう。そして死刑存置派もまた数に現れないことを理由とした抑止効果否定を認めないだろう。

 ただ、凶悪犯罪を為した後に、「死刑」の二文字が現実味を帯びた途端に態度を変える被告がいることも忘れてはならないだろう。つまりその様な輩は「死刑」の恐ろしさを事前に承知していれば犯罪に手を染めていなかった可能性が有るし、死刑が無ければ生涯己の罪深さに向き合わない可能性もあるのである。



考察3 抑止効果が生まれるようにすることこそ重要
 道場主の馬鹿は臆病者なので、本来恐怖で人を縛る考え方は大嫌いである。その一方で自らへの被害を想定して初めて暴走に歯止めが掛かる者が存在するのも残念な事実である。
 学生の頃、道場主をいじめた相手は、「先公にチクったら、もっと痛い目に遭わすぞ!」と凄んでいたが、この台詞こそ彼奴等が先生方の怒りを恐れていたことに雄弁に物語っていた

 残念ながら恐怖でないとストッパーが掛からない輩は存在するし、恐怖を知らないことでストッパーが掛からなかった者も存在するだろう。
 死刑に対する是非や、抑止効果に対する有無について人それぞれ感じるところ、思う処は異なるだろうけれど、少なくともこの手の問題を真剣に考える人間は凶悪犯罪を憎んでいる筈である(自分が好き勝手したい故に、死刑廃止を望む様などうしよもない下衆は別だが)。
 ならば、死刑に反対だとしても、死刑制度が抑止効果を生めば、それ自体は非難しないだろう。

 実際のところ、凶悪犯罪はどうすれば抑止されるのだろうか?
 まず、生活が安定しており、充分な教育が施され、守るべき家族・財産・社会的地位があれば多くの者は犯罪をしでかさない。死刑廃止国で廃止前より犯罪件数が減ったのも、恐らく「死刑制度がなくなったのか?じゃあ、悪いことは辞めよう!」と考えたものではないだろう(苦笑)。
 恐らくそもそも死刑の恐ろしさ自体が充分認識されていなくて犯罪発生に関係なかったか、刑法以外の問題が改善されて犯罪が減ったのだろう。

 では、いまだ死刑が存在する日本では、死刑による抑止効果を如何にして生み出すべきだろうか?

 一言で云うなら情報公開だろう。

 私見だが、俺は日本における死刑制度の恐ろしさ、酷さが充分周知されていないと思っている。
 かつて、凶悪事件(名古屋アベック殺害事件)を犯した少年犯罪者の中に、取り調べ時に「僕は未成年だから死刑になりませんよね?」と抜かした馬鹿がいた
 だが実際には永山事件市川一家殺害事件の様に、18歳以上であればガキでも死刑は有り得る。この事件のクソガキは一審では裁判を舐めた態度を取り、死刑判決が下るや慌てて被害者に謝罪し出した。その謝罪が効いたかどうか定かではないが、結局コイツは無期懲役に減刑され、それが確定した。
 このクソガキが死刑に対してもう少し知識を持っていればこの犯罪は起きなかったのではないか?と悔やまれてならない。またこの事件以外にも死刑判決が下ってから慌てて謝罪の意を示し出したクソガキ犯罪者は他にもいる。こいつらの周囲に死刑やそれに絡む犯罪の重要性を教導する者はいなかったのだろうか?

 そこを考えると死刑の恐ろしさや、何が死刑になり得るのかを教育においてしっかり伝えることは大切であろう。
 また「一人殺したぐらいじゃまず死刑にならない。」、「死刑が確定しても冤罪を叫び続ければ人権団体が味方してまず執行されない。」等と誤解している馬鹿が多いことも、死刑制度が抑止効果を生むのを阻んでいることだろう。

 実際、新幹線殺人事件の小島一朗は「一生刑務所に入りたい。」というふざけた理由で人を殺し、それでも死刑にはなりたくなくて二人目の殺害を止まった。
 結局裁判は無期懲役と云う小島の望みを叶えるというふざけた結果になった。勿論俺は様々な意味でコイツを死刑にするべきだったと思ている。
 念の為に云っておくが、被害者が一人でも死刑になったケースはごまんと存在するし、昨今では再審請求中でも死刑は執行されている(再審請求中の死刑執行を禁ずる法規は存在しない)。

 これらの事例を見ても、「知らない。」と云うことで抑止効果が働かないケースが存在するのは明らかだ。また死刑になる可能性や死刑の恐ろしさを充分に先刻承知していれば現在死刑囚として拘置所に収監されている者の何人かは死刑判決を免れていたのではないか?と思われてならない(例え殺人を犯していたとしても、その人数が少ないことで死刑を免れたかも知れない)。

 法や社会がどうあっても犯罪に抑止が掛からない者は存在する。だがその様な輩は死刑が無くても罪を犯すだろう。ならば死刑にどのように向き合うかで抑止効果を上げるのは存置派も廃止派も重視していい筈である。
 万一、死刑の恐ろしさ・酷さが公開・周知されることで抑止効果が働いて凶悪犯罪が少しでも減るなら、情報公開によって死刑廃止論者が増えても構わないと俺は思っている。



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令和三(2021)年二月八日 最終更新