第4頁 「基本的人権」を巡る死刑廃止論について

キーワード基本的人権
死刑廃止重要度★★★★★★★★★☆
死刑存置重要度★★★★★☆☆☆☆☆
重視すべき判例特になし。強いて云えばすべての死刑案件
 基本的人権‥‥‥……それは人間が生まれながらに持ち、国家権力によっても侵されない基本的な諸権利とされている。
 日本国憲法にあって、戦争放棄・主権在民と並ぶ三大柱の一つとされ、これが重んじられているから言論・思想・良心・信教・職業選択等の権利が認められ、その中でも最も重んじられているのが「生存権」と云っても過言ではない。
 言論も思想も信仰も生業も生きていればこそ出来ることである。それゆえ基本的人権の中でも最重要視され、国家といえども侵すことの出来ない権利である生存権が侵害されてはならないと云う主張は一定の説得力を持つ。

 生存権を決して侵してはいけないから、命を奪う刑罰である死刑は禁じられなくてはならない‥‥‥‥‥……一理なくは無いが、それなら基本的人権の中でもその最も尊ばれるべきものを奪われた側の人権は?そのかけがえのない権利を奪った大罪人を如何に裁けばいいというのか?
 ある意味堂々巡りが目に見えている論点だが、これまた存置派であれ、廃止派であれ軽視していい問題ではないだろう。死刑に反対であれ、賛成であれ、そこに被害者・加害者の命と云う重い問題が絡んでいるのは間違いないのだから。



考察1 「公共の福祉」との絡み
 基本的人権が重んじられるのは決して無条件ではない。「公共の福祉に反しない限り」と云う最低限のルールを遵守した上での話である。

日本国憲法第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 基本的人権を無条件に守るなら死刑はおろか、逮捕・拘束もままならず、懲役刑・禁固刑とて強制労働や居住の自由への侵害になりかねない。

 一例を挙げれば、伝染力の強い法定伝染病(ペスト・コレラ・天然痘等)を発症した患者は隔離病棟に入れられなければならない。その際に患者が「居住の自由だ!」と云って、隔離に異を唱えても通らない。
 勿論、伝染力の強い病気に罹った患者を隔離しなければ周囲の人間の健康が脅かされるからである。いくら感染者が自分の人権を主張しても、それによって周囲の多くの人々の人権が脅かされるならそれは制限されることになる。

 これを、殺人を初めとする凶悪犯に置き換えるなら、そんな輩が野放しになれば多くの人々の生命・財産・安寧・生活が脅かされることになる。それゆえ殺人ならずとも凶悪犯には長期間の懲役を課せられるなどの厳罰が与えられる。
 まあ、こと死刑だけに限って云うなら、「懲役刑で完全に外界から隔絶すれば他者の基本的人権が脅かされることは無いから、死刑にするまでもない。」との反論が成立する。



考察2 「責任」と「義務」を果たした上での「権利」と「自由」
 早い話、ギブ&テイクを重んじろと云うことだ。
 日本国憲法の下、日本国民は基本的人権を基礎とした様々な権利や自由が保証される一方で、納税・勤労・教育の三大義務を課される。納税を行わなければ脱税者として逮捕されるだろうし、働かなければ働くことで得られる社会保障が離れてゆき、義務教育を受けさせなければ責任者義務を放棄したものとして裁かれる。

 このことは国よりも企業を対象にした方が分かり易いだろう。無断欠勤を繰り返し、勤務態度も不真面目で、やらなければならない作業もしないのに有給休暇や賞与に対する文句ばかり人一倍ぶーたれる奴は、雇用者は勿論、同僚からも白眼視されるだろうし、それ以前に解雇されてもおかしくない。
 一方で社則に従って真面目に勤務し、所定の労働義務を果たした社員に対して社主は例え儲けが出ていなかったとしても所定の給与を支払わなくてはならない。副題にも書いた様に、己の権利や自由を叫ぶなら、義務や責任を果たせ、という話である。
 権利も自由も認めない相手に義務・責任を果たそうと思わない人は多いだろうし、義務も責任も果たさない相手に権利や自由を認めたくないと思う人はもっと多いだろう。

 となると、他人の生存権と云う基本的人権の中でも最も基本且つ大切な権利を奪った者が罪に対して責任を取り、贖罪を義務として課すべきなのは、死刑廃止派の方々も認めることだろう。
 勿論、責任の取り方を巡って「死」が適切かどうかで死刑に対する賛否が分かれる訳だが、少なくとも他者の生存権を奪うという大悪行を為したのであれば、その者の生存権を認める認めない以前の問題として、重大な義務・責任を課すのは当然と云う大前提を忘れてはならないだろう。



考察3 人の人権を重んじてから、テメーの人権を語りやがれ
 確かに死刑が廃止されれば、「国家に殺される。」という不安は雲散霧消する(警察官による緊急避難や正当防衛で撃たれた場合はこの限りではないが)。だが、国家が如何に立派な法を作り、その遵守に努めたとしても、法を丸で守らない輩が存在する。
 凶悪犯罪者の死刑に反対すると云うことは、「他人の生存権を蹂躙した者の生存権を尊重する。」という大矛盾を抱えることになる。この点は死刑廃止論者の方々にとっても頭の痛い論題だろう(何とも思わないなら、そいつは死刑廃止はおろか死刑存置を語る資格もない!)

 勿論、如何に凶悪な犯罪者と云えども人権を無視していいとは云わない。人権を重んじるからこそ「裁判を受ける権利」は保証され、例え弁護士の成り手がいない程の凶悪犯でも国選弁護人を付けてでも正当な裁判が行われる。
 同時に、一審の判決に不服なら控訴出来、二審の判決に不服なら上告出来る。更には最高裁にて確定した後も(例え狭き門でも)異議申し立てや再審請求の道も残されている。

 正直、死刑判決を不服として控訴・上告を行う被告に対して、その権利は認めざるを得ないと思いつつも、「人を殺しておいて、自分は死にたくないなんて……ふざけるなっ!!」と云う想いを抱いたことは物凄く多い。否、身勝手な理由で人を殺したすべての犯罪者の控訴・上告に対してそう思うし、殺人ならずとも、悪質な犯罪者が量刑不当で控訴・上告した場合も、「他人の人権を踏み躙っておいて、テメーの権利はしっかり訴えるなんて、ムシが良過ぎんだよ!!」との怒りを抱くことも多い。

 自慢じゃないが、道場主の馬鹿は臆病な人間なので、「死にたくない!!」と云う気持ちはよく分かる。だが、それ以上に他者の「死にたくない!!」という気持ちを無視して殺人に及んだ輩が同じ気持ちを抱くことに対しては著しい不公平感と怒りを抱く。

 人間と人間の関係には様々なものがあり、必ずしも良好な関係を築ける訳ではない。それでも互いに平穏の内に日常を送るために我慢すべきは我慢し、譲るべきは譲り、最低限のルールを守り、奪われたくない物は奪わず、傷付けられたくない事柄は自らも傷付けない。
 死刑を課される程の重罪人とは、そんな最低限のルールすら踏み躙っているのだから、そんな奴が我が身可愛さを露呈すれば激しい怒りや反発を買うのは当然で、百歩譲って死刑にしないとしても、それに匹敵する厳罰の声が挙がるのは当然だろう。

 死刑廃止論者諸兄には、「生存権と云う最低限の人権を保障する。」という考えを捨てろとは云えないが、それ程に重大な権利を破った者に対して死刑の代わりになる厳罰は真剣に考えて欲しいと俺は希望している。
 少なくとも、無期懲役では多くの死刑存置派は納得しないことは認識して欲しい(恐らく、終身刑なら一部には納得する存置派もいると思う)。



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令和三(2021)年二月八日 最終更新