第7頁 「死刑に携わる人々」を巡る死刑廃止論について

キーワード執行者
死刑廃止重要度★★★★★☆☆☆☆☆
死刑存置重要度★★★★★★★★★☆
重視すべき判例特になし。
 死刑存置派の俺が、死刑に対して躊躇いを見せる要因の二大双璧となるのが「冤罪」とこの「執行する人」の問題だ。
 死刑制度に賛成している俺だが、死刑執行が嬉しい訳でも楽しい訳でもない。そもそも死刑が求刑されるような凶悪犯罪が起きた段階で誰にとっても悲しいことで、凶悪犯罪が起きないことで死刑判決も死刑執行も新たに生まれないに越したことは無いのだ。
 つまりところ、誰だって死刑と無縁でいたいし、善良な人間が死刑を喜ぶ筈がない(凶悪犯罪故に死刑執行を支持・納得することはあるが)。

 故に死刑判決を出す判事も、死刑執行命令を求める法務官僚も、死刑執行命令を出す法務大臣も、死刑に携わるのは心苦しく、気が重く、辛い業務である。そして死刑執行命令を受けて実際に死刑を執行する刑務官のメンタル的な痛みたるや、想像しても想像し切れないだろう。
 そして、だからこそ存置派程、この問題から目を逸らしてはいけないと思う。



考察1 さすがに想像し切れんなぁ………。
 当たり前の話だが、俺には人を殺した経験はない。また、俺の決断が人の生死を左右したことも無い。
 大久保清・宅間守・勝田清孝・麻原彰晃(松本智津夫)・山地悠紀夫・宮崎勤・神田司・堀慶末・松永太の様な輩に対して‥‥‥……
 俺が北斗神拳伝承者なら即座に醒鋭孔を突き、俺が大岡越前なら白州に引き据える前に磔にし、俺が渥美格之進なら印籠を出す前に斬り、俺が鞏家兜指愧破の使い手なら即座に激震経破を施し、俺が完璧始祖なら即座にテリブル・ペイン・クラッチを掛け、俺が赤き死のママリオート(飛行機)なら徹底的にシベリアン・タルラーナで斬り刻みたくなる‥‥‥‥‥‥………だが、こんなことを云っていてもこれらは想像(と云うか妄想)に過ぎない。

 もし俺が裁判官なら、凶悪犯と云えども死刑判決を下せるだろうか?
 もし俺が法務官僚なら、死刑執行を法務大臣に掛け合えるだろうか?
 もし俺が法務大臣なら、死刑執行命令書に署名・捺印出来るだろうか?
 もし俺が刑務官なら、絞首台の床を開くボタンを押せるだろうか?

 正直、実際にその時の立場にならないと分からない。
 今現状の心境のみで語るなら、前述した様な凶悪犯どもで、尚且つ冤罪の可能性がないなら「喜んで。」とまでは云わないが、積極的に職務を遂行したい気持ちではいる。
 だが、実際には嫌々ながらも職務を遂行するかも知れない。
 回数を重ねる内に精神を病むかもしれないし、麻痺して殺人マシーンと化すかも知れない。
 解雇を承知の上で職務に服さないかも知れないし、それ以前に退職するかも知れない。

 色々考えられるが、こればかりは本当に分からない。
 ただ、有名な話だが、死刑執行の際には三人の刑務官が同時にボタンを押し、その内の一つが縄を架けられた死刑囚の足下にある床板を開き、吊るして死刑囚を死に至らしめる。
 ボタンが三つあり、三人の刑務官が一斉に押すのも、三人の内誰のボタンが死刑囚の命を奪ったのかを分からなくするもので、「自分は殺していないかも知れない。」と考える余地を残すことで、刑務官の精神的負担を減らす為と云われている。
 また、死刑執行を担当した刑務官は、執行が終わった時点でその日の業務は終了となり、執行手当2万円が支給されると云う。だが、2万円持って帰宅すれば「人を殺して金を得た。」ということが家族にモロバレになるため、業務を終えた刑務官は帰宅せず、特別手当は死刑囚への供養か、重荷を抱えた心を癒す酒代に使われると聞いたことがある。

 いずれにしても、死刑執行という職務が精神に大きな負担を与える証左であることに違いは無い
 俺は度々凶悪犯に対して、「八つ裂きにしてしまえ!」との想いを抱いたり、口にしたりすることがあるが、執行する刑務官の気持ちになると逡巡する心が無い訳ではない。
 勿論、凶悪犯の罪状や刑務官の心持ちによっては絞首刑ぐらいでは心の痛みが軽いケースもあるだろうし、長く顔を合わす内に反省や改悛を深めて死刑囚に情が湧いていれば物凄い精神的負担になるだろう

 いくら思考しても、いくら想像しても、いくら論述しても解決する問題ではないが、死刑に賛成する以上、心を痛めて執行している人々がいることは忘れない様に心掛けている。



考察2 「間接的に人を殺す。」と云う観点。
 死刑廃止派から浴びせられる非難の声の中に、

 「死刑存置派は、無責任に死刑に賛成することで自らは手を汚さず、間接的に法務大臣や刑務官に人殺しをさせている。」

 と云うものがある。
 この言葉をそのまま受け入れはしないが、死刑廃止派よりも死刑存置派が多いことが日本国をして死刑制度を存置せしめ、死刑を執行せしめているのは間違いなく、死刑制度に賛成することが死刑囚の死刑が執行され続けることに繋がっている訳で、「間接的に殺している。」と云うことから目を逸らしてはいけないと思う。

 ただ、死刑制度に賛成し、その結果凶悪犯が刑死することに対して云っておきたい。

 それがどうした!

 と。
 物騒なことを云うが、凶悪犯の中には俺がこの手で始末したくなる奴すらいる。この想いに対して「リトルボギーは野蛮人だ!」と非難する人もいようが、法務大臣・法務官僚・刑務官が人を殺める心の痛みに耐えて死刑執行に携わる以上、死刑制度に賛成する者として極悪人の惨死を望んでいる意思を偽るつもりもない。それが死刑制度に賛成することへの責務とも思っている。
 同時に、法に則ったものであれ、制度への賛意であれ、人を殺すことをそこまで非難する者に対し、それ程非難に値する殺人を先に行ったのが死刑囚であることを刮目して直視することを求める



考察3 真剣に考えている「暴論」
 本当に暴論を展開するが、まず俺は死刑囚を「人」と見ていない。
 勿論、これは俺の感傷で、どんな凶悪な死刑囚でも法的には「人」で、再審請求を行う権利は侵害されない。だが、法の上で俺の考えが通らないだけで、死刑囚をどう酷く扱うことを想像してもそれは俺の思想の自由だ。

 それゆえ、現実に法的に通らないことを踏まえた上で、死刑執行に対する俺の考えを述べたい。

 死刑執行のボタンを遺族に押させてはどうか?

 と。
 一応、これは真面目に考えていることだ。
 勿論希望する被害者遺族も希望しない被害者遺族もいるだろう。一般ピープルである被害者遺族に生殺与奪権を付与するのも大きな問題が伴う。
 だが、高校生時代に女子高生監禁暴行コンクリート詰め殺人死体遺棄事件が発覚したとき(←イカン!年がバレる!)、残忍極まりない事件の凶悪犯どもが少年法の保護の元、決して死刑にならないと知った時、同じ高校生として少年法に有難味など全く感じず、むしろ被害者となった際に少年法がとんでもない凶器となって被害者を二重三重に傷付けかねないことに恐怖し、クソガキ四人組に対して道場主の馬鹿は、

 「こんな奴等は遺族の手による公開処刑にすべきだ!」

 と本気で思った。
 勿論、今以上にそれこそ未熟な少年時代に感傷の暴走で考えたことであるのは認める。だがそれ程の怒りを抱いたこともまた認めざるを得なかった。
 まあ、裁判や刑罰に対する復讐的な面を否定する人々はこの「暴論」を大否定することだろう。だが俺は死刑制度の復讐的側面は否定していないし、そもそも現行の裁判も刑罰も被害者遺族に寄り添わなさ過ぎていると思っている(それゆえ、死刑になるべき凶悪犯でありながら無期懲役止まりになっている者が多過ぎる!とも)。
 そもそも死刑が復讐であることを否定するのは偽善だとも思っている。

 執行者の心の痛みを含め、死刑を軽く見るつもりはない。その重大性ゆえに判決・執行に慎重論を唱えるのももっともなことだし、存置派の中にも現状より死刑適用を厳しくするべきと考える人もいよう。
 それほど死刑制度並びに死刑執行は重く、どう言い繕うと、人を殺す制度であることに変わりはない。だが、重ねて云う。
 それ程重大な人の命を奪うという行為を先にやったのが死刑囚である。俺に死刑に対する暴論を思想する自由が有る様に、死刑制度に反対する自由も認めなくてはならない。
 死刑に反対するなら反対するでいいが、それ程反対する「人を殺す」と云う行為に対する厳しい視線は凶悪犯にも向けて欲しい。死刑執行を散々極悪呼ばわりし、凶悪犯の殺人事実はスルーでは、死刑廃止派は「悪の手先」呼ばわりされかねないことも自覚して欲しい。


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令和三(2021)年二月八日 最終更新