第肆頁 北条泰時……得宗家と一門の複雑さここに始まれり

名前北条泰時(ほうじょうやすとき)
生没年寿永二(1183)年〜仁治三(1242)年六月一五日
家系北条得宗家
北条義時
阿波局
嫡男となった弟北条朝時(一〇歳違い)
最終的な立場鎌倉幕府第三代執権
概略 寿永二(1183)年、鎌倉幕府第二代執権・北条義時を父に、その側室・阿波局を母に庶長子として生まれた。幼名は金剛

 建久五(1194)年二月二日に元服。幕府にて元服の儀が執り行われ、烏帽子親となった源頼朝から偏諱を賜って北条頼時(よりとき)と名乗り、後に泰時と改めた(泰時と改名した詳細な時期については不明)。
 元服と同時に頼朝の命で、三浦義澄の孫娘との婚約し、建仁二(1202)年八月二三日に正室に迎えた。
 翌建仁三(1203)年、嫡男・時氏が誕生。同年九月には、比企能員の変で比企討伐に従軍した。

 建暦元(1211)年、修理亮に補任。翌建暦二(1212)年五月、異母弟で正室の子であった朝時が三代将軍・源実朝の怒りを買ったことで、父・義時に義絶され、廃嫡となった。
 建暦三(1213)年、和田合戦では父と共に和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任じられた。

 更に建保六(1218)年、侍所別当、承久元(1219)年、従五位上・駿河守に任じられ、承久三(1221)年の承久の乱では、幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の軍勢を破って入京。
 戦後、「朝廷守護役」の名目(勿論、事実上は「監視役」)で新たに都に設置された六波羅探題北方に就任した。同時に南方には共に大将軍として上洛した叔父・北条時房が就任し、この時房とのコンビネーションは後々にも活かされた。

 京に留まって朝廷及び西国武士の監視、乱後の処理に当たること三年、貞応三(1224)年六月一三日、父・義時が急死したため、鎌倉に戻り、次期執権の座を巡って、継母・伊賀の方と対立(伊賀氏の変)。
 伊賀の方は、彼女の実子・政村(後に七代執権となる)を擁立しようとしていたが、泰時は伯母にして「尼将軍」として隠然たる力を持っていた北条政子を味方につけ、彼女から真執権に任じられ、同時に叔父・時房も新設された連署(執権補佐)に任命され、伊賀の方等を謀反人として処罰した。時に北条泰時四二歳。

 実権を握った泰時だったが、伊賀の方は幽閉としたものの、担がれた政村や事件への荷担を疑われた有力御家人の三浦義村(←泰時にとって岳父)は不問とし、流罪となっていた伊賀光宗も間もなく許されて復帰。義時の遺領も弟妹には多く与え、自分はごく僅かな分しか取らなかった。
 政子は泰時の弟達が力を持つことで騰勢が取れなくなるのを懸念して、泰時の配分に反対したが、泰時は「自分は執権の身ですから」として辞退し、政子を感心させた。
 だが寛大な態度を取る一方で、家政においては「北条氏嫡流家」(後に「得宗家」と呼ばれる)の立場を明確に定義づけた。
 その為に家政を司る「家令」を置き、信頼する家臣・尾藤景綱を任命し、徹底管理させた。

 嘉禄元(1225)年七月、後ろ盾となってくれていた政子が世を去り、痛手であったが、同時に干渉もなくなったので泰時は独自路線を次々に発揮し出した。
 叔父の時房を京都から呼び戻し、連署としての地位を正式なものとし、有力御家人代表・幕府事務官僚等の一一人を加えた一三人での「評定」を新設し、幕府成立初期の合議制よりも上手く機能させた。

 嘉禄二(1226)年、実朝暗殺直後に次期将軍候補としていた摂関家の三寅(八歳)を元服させ、藤原頼経と名乗らせて第四代征夷大将軍とした。
 だが、政治的に順調な一方で、家庭的には不幸が相次ぎ、嘉禄三(1227)年六月一八日に次男・時実が家臣に殺害され、丁度三年後の寛喜二(1230)年六月一八日に嫡男・時氏が二八歳の若さで病没。翌月には三浦泰村に嫁いでいた娘が難産により子(つまり泰時の外孫)は生後一〇日余りで、娘も八月四日に二五歳で夭折する有り様だった。

 この間、数年に渡って天候不順によって国中が疲弊し、寛喜三(1231)年には深刻な飢饉となる中、社会不安を終息させる為にも泰時は貞永元(1232)年八月一〇日、日本初となる武士による法典を成立させた。所謂、御成敗式目(ごせいばいしきもく。「貞永式目」とも云う)である。
 御成敗式目は、ほんの四、五〇年前まで「貴族の犬」扱いで、まだまだ無学者が少なくなかった武士社会において、律令の法に通じている者など万人に一人もいないのが実情の中、律令の規定を適用しての処罰は、「訳の分からない法律の為に訳の分からないまま罰せられるものが出かねない。」と見た泰時は、「漢字も知らぬ地方武士のため」を想い、忠孝と平凡な「道理」を重んじ、それでも貴族達を馬鹿にされないように泰時自身は古今の律令ともよくよく照らし合わせ、どこに出しても恥ずかしくない、全五一ヶ条から新しい基本法典として完成させたものであった。

 完成時に六波羅探題にいた弟・重時に送った手紙では、身分の上下や依怙贔屓に左右されない公平な裁判の為のものとして紹介しながら、貴族の蔑視に負けまいとの念も漲らせていた。
 その一方で、日本社会の慣習や倫理観に則った独自性への評価も高く、後の時代に成立した二つの幕府も、式目を大いに参考とし、歴史的な評価も高い(鎌倉幕府が滅びてもしばらく御成敗式目は有効だった!)。

 その後、政治上の問題で、嘉禎元(1235)年には興福寺、延暦寺の僧兵と、仁治三(1242)年には崩御した四条天皇の後継問題で朝廷と対立。承久の乱の首謀者の一人であった順徳天皇の皇子が即位するのを阻止して、後嵯峨天皇を強引に即位させたため、泰時と京都の公家衆との仲は悪化した(後嵯峨天皇の外戚(叔父)・土御門定通は泰時の妹・竹殿を妻としていて、朝廷内部に泰時の勢力が浸透していたのも嫌われた要因だった)。

 仁治二(1241)年六月二七日、泰時は体調を崩したが、翌月には回復した。しかし寿命は迫っていた様で、翌年仁治三(1242)年五月九日、出家。上聖房観阿(じょうしょうぼうかんあ)と号し、異母弟・朝時をはじめ、家来五〇人も後を追うようにして出家した。
 同年六月一五日、北条泰時逝去。享年六〇歳。同時、泰時の父・義時、伯母・政子やその他北条氏政権の重要人物達が六月から七月にかけて没しており、承久の乱で三人の上皇達が流刑となった季節とも重なっていたので、巷間では上皇らの怨霊による祟りではないか、と囁かれた。
 死の翌日、早世した時氏の長男、つまり嫡孫の北条経時が第四代執権に就任した。


庶長子としての立場 北条泰時の母・阿波局は御所の女房と記されるのみで出自は不明。一方で、北条義時の正室は姫の前という比企氏の娘だった。
 義時は姫の前に惚れて何とかアプローチを試みんとしたが上手くいかず、それを不憫に思った頼朝が、正室の地位を約束し、「決して離縁しない」という起請文を義時に書かせたことで婚姻が成立していた。

 だが、頼朝に可愛がられていたことと、異母弟にして義時嫡男・朝時との年齢差があったことが幸いした様だった。
 泰時が一〇歳の頃、御家人・多賀重行が擦れ違った泰時に下馬の礼を取らなかったことを頼朝が咎めたことがあった。
 頼朝にしてみれば、外戚であり、幕政中枢で高い地位を持っていた北条氏に他の御家人が充分な敬意を払わないのは、ある意味我が身が侮られたに等しかった。
 頼朝の譴責に対して重行は、「自分は非礼とみなされるような行動はしていない、泰時も非礼だとは思っていない。」と弁明し、泰時に問い質すよう頼朝に促した。
 当の泰時は「重行は全く非礼を働いていないし、自分も非礼だと思ってはいない。」と語った。だが自分の考えに誤りがないと思い込む頼朝は、「重行は云い逃れのために嘘をつき、泰時は重行が罰せられないよう庇っている。」と判断。重行の所領を没収し、泰時には褒美として剣を与えたと云う。まあ如何にも『吾妻鏡』に収録されている逸話と云いたくなるエピソードなのだが(苦笑)。

 加えて、異母弟にして義時・嫡男であった朝時が自滅に等しい廃嫡となった(詳細後述)ため、泰時の庶長子としての立場は、一時期を除けば嫡男に等しいものだった。


嫡男との関係 北条泰時と、異母弟・北条朝時の関係は決して悪いものではなかった。
 両者の関係を把握する為に、朝時を巡る出来事に簡単に触れたいが、朝時が一一歳の時、母・姫の前の実家である比企家が北条氏と対立して滅ぼされたため、義時と姫の前は離縁したことが最初の痛手だった。が、それだけで廃嫡になった訳ではなかった。
 朝時は二〇歳の時に将軍・源実朝の御台所・信子に仕える侍女(佐渡守親康の娘)に恋文を送っても一向になびかず、これに業を煮やして深夜に侍女の元に忍んで誘い出した事が露見して、実朝の怒りを買ったことが痛恨の一撃となって、義時から義絶(勘当)された。

 だが、義時朝時を憎んだ訳ではなく、一年間、駿河富士郡で蟄居させた後、建暦三(1213)年の和田合戦に際して、朝時を鎌倉に呼び戻し、泰時とともに防戦させた。
 朝時もこれに応えて勇将・朝比奈義秀と戦って負傷する程の奮戦をし、合戦後に御家人として幕府に復帰した。
 その後も、承久の乱では北陸道の大将、乱後の上皇方に荷担した武士の処刑を担い、義時逝去時には六波羅探題として在京していた泰時に代わって、の葬送を弟達と共に行った。

 ただ、その後は目立った動きを見せず、嘉禎二(1236)年九月には評定衆に加えられたが、初参の後、即座に辞任し、幕府中枢には身を置かなかった。

 これらのことから、まだまだ北条政権体制が盤石とは云い難かった状況にあって、北条氏は文武に優れた泰時とその直系を北条家嫡流(後の得宗家)として、執権体制の盤石化を優先したと思われる。
 正嫡にこだわるなら、朝時義時後継になれずとも、朝時の同母弟・重時という適任者がいた。恐らくはこの時、北条氏は外部に対して一族一丸となる為に、嫡流と庶流を明確に分け、泰時は己の血筋に確固たる地位を得る代わりに、弟達に危害を加えず、個々に支族として庶流を立てることを認めたのではないか?と考えるのである。

 チョット、下記の家系図を見て頂きたい。



 過去作『鎌倉施設軍事裁判』でも触れたが、北条家は鎌倉時代を通じて一族やその外戚・郎党が権力を巡って醜い争いを繰り返したが、「得宗の流れを守る」「一族外の敵には一致団結する」という二点は堅守した。
 執権位は泰時の子々孫々に世襲され、得宗家当主が余りに幼いときには支族から適任者が中継ぎの形で執権に就任したが、その子や孫に世襲されず、必ず得宗家当主に戻された。これは、日本史はおろか、世界史的にもかなり稀有な例である。
 この決まりがあったことで、皮肉にも伊賀氏の変で第三代執権候補として担がれた政村が四〇年も後に第七代執権に就任するという珍現象が起きた(勿論、後に泰時曾孫の時宗に戻された)。

 ともあれ、泰時の弟達は朝時が名越流、重時が極楽寺流、政村が政村流、実泰が金沢流の祖となり、彼等の流れの中から執権が出たりもした。
 中でも、朝時は、義時の父で、兄弟の祖父である時政が邸宅を構えた名越邸を与えられ(「名越」の姓はこれに因む)、名越流は支族の中でも一際高い家格を保持し、朝時もこの厚遇に応えてか、泰時が天寿を悟って出家した際にはこれに付き合って出家した。
 かくして、一族から強く支えられた泰時と、「元正嫡」としてそれ相応の家格を与えられた朝時の兄弟は問題ない兄弟付き合いに終始した。

 ただ、朝時の子供達には「本来なら自分達が……。」という想いはあった様で、四代執権・北条経時の死後、宮騒動二月合戦と云った一族内紛の渦中に置いて、朝時の子供達は一人が流刑、二人が誅殺、一人が自害という不幸に遭った(しかも一人は後に無実と判明)。  正嫡の流れが狂うということは、当人同士が納得したからと云って終わるとは限らないことを歴史は教えてくれる。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新