第伍頁 北条時輔……ひどいぞ、時頼、政村、時宗!

名前北条時輔(ほうじょうときすけ)
生没年宝治二(1248)年五月二八日〜文永九(1272)年二月一五日
家系北条得宗家
北条時頼
讃岐局
嫡男となった弟北条時宗(三歳違い)
最終的な立場六波羅探題南方
略歴 「嫡男」に比べて、「庶長子」が如何に辛く、複雑な存在であるかをこれでもか、という程具現化したのがこの北条時輔であると云っても過言ではない。

 宝治二(1248)年五月二八日、鎌倉幕府の第五代執権・北条時頼を父に、側室・讃岐局(出雲の御家人・三処氏の娘)を母に、庶長子として鎌倉で生まれた。幼名は宝寿(ほうじゅ)。

 建長三(1251)年、宝寿が四歳の時に、時頼の正室・葛西殿が異母弟・正寿(後の北条時宗)を出産。その懐妊中に葛西殿と讃岐局の間で諍いがあり、葛西殿の父・重時の申し入れによって讃岐殿が他所に移されたとの説がある。
 いずれにせよ、時頼正寿福寿(後の宗政。やはり正室の腹から生まれた)を特に大切にし、この時から北条時輔の不遇は始まっていた。

 建長八(1256)年八月一一日、九歳で元服(初名は三郎時利)。翌正嘉元(1257)年一二月、一〇歳で六代将軍・宗尊親王の近習として仕えた。正元二(1260)年一月、北条時輔と改名した。

 弘長三(1263)年一一月二二日、父・時頼が病によって死去(←全く関係無いが、J・F・ケネディが暗殺される七〇〇年前)。翌文永元(1264)年八月、弟・時宗が一四歳で連署に就任すると、一〇月に時輔は一七歳で二二年振りに復活した六波羅探題南方として京都に出向となった。

 時輔は無官のまま上洛し、翌文永二(1265)年四月、ようやく従五位下式部丞に叙任されることで官職を得た。
 文永五(1268)年二月、蒙古の使者が到来し、元寇を前にして権力の一元化を図る為、三月に時宗が一八歳で第八代執権に就任した。
 二年後の文永七(1270)年一月、六波羅探題北方の北条時茂が死去し、その後約二年間、北方は空位のまま、六波羅探題は必然的に時輔の影響が強くなった。

 文永八(1271)年一二月、極楽寺流の北条義宗が六波羅探題北方に就任。翌文永九(1272)年二月一一日、鎌倉で名越流の北条時章・教時兄弟が謀反を理由に誅殺された。
 その四日後の一五日、時輔もまた同じく謀反を図ったとして時宗による追討を受けた。所謂、二月騒動だが、鎌倉で事件が起きた二日前、時輔は北方の義宗とともに病気の後嵯峨法皇を見舞っていた。
 当時、鎌倉−京都間は早馬でも七日掛り、法皇を見舞った僅か六日後に、一緒に見舞った義宗の襲撃を受けたのには、どう考えても事前の謀があったとしか思えない。
 いずれにせよ、この襲撃で時輔は誅殺された。北条時輔享年二五歳。
 勿論時輔と名越兄弟が結託して、謀反を画策したことを示す確たる証拠は存在しない。名越兄弟でも、名越時章は後に冤罪であったことが判明している。


庶長子たる立場 北条時輔は、異母弟の北条時宗北条宗政に比べて、様々な形で、「庶腹の生まれである故に、格下である。」との印象を与える冷遇を、父・北条時頼から与えられた。
 その証左となるのは「名前」と「役職」である。

 まず「名前」だが、元服当初、時輔相模三郎時利と名乗った。つまりは庶子であったため、本来長男に付けられる「太郎」ではなく、「三郎」とされた訳である。
 勿論、「正寿時宗)より格下。」と示す為である。
 ちなみに正室での弟達は、元服時に相模太郎時宗相模四郎宗政と名乗っており、時宗の「太郎」は当然としても、宗政が「四郎」とされ、「次郎」が存在しないことに得宗家嫡流たる時宗が如何に突出された存在であるか、が見て取れる。
 また、「得宗家嫡流の異常な突出」から、「時輔が冷遇された」というよりは、「時宗が厚遇され過ぎた」と見る人も多いが、いずれにせよ「嫡流」と「庶流」であからさまな格差が設けられたことは疑い様がなかった。

 前述した様に、時利は程なく北条時輔と改名した訳だが、この命名は時頼によるもので、正嫡である時宗を「る」(たすける)意味で付けられた。平成一三(2001)年放映の大河ドラマ『北条時宗』では、新名を告げる為に、「時輔」の名が書かれた紙を見た北条政村(伊東四朗)が思わず絶句するシーンがあった。
 勿論大河ドラマは「史実を基にした創作」だから、すべてを鵜呑みには出来ないし、同作には現代人的な感覚が色濃く見られたから、本当に政村がそんな絶句をしたかは分からないが、名前の意味が露骨なまでに時輔を兄弟内で格下扱いしていたことに間違いはなかった。

 次に後者である「役職」だが、「庶長子ゆえに執権になれなかった。」を除いたとしても、これまた露骨だった。
 正元二(1260)年六月、鶴岡八幡宮放生会に将軍宗尊親王夫人・近衛宰子の参詣に供奉する御家人の名簿が提出された際、時頼(当時は執権)は名簿にて時宗布衣時輔随兵として差をつけた。
 名詞を見ただけでは布衣随兵にどれだけの格差があるのかピンとこないが、将軍・宗尊親王が時頼時宗時輔を同等の布衣の扱いをするように命じたと云うから、当時の人々の眼には明らかな格差が映っていたのだろう。
 だが、時頼は聞き入れず、時宗宗政布衣時輔随兵とした。

 翌弘長元(1261)年一月四日、将軍の鶴岡八幡宮の供奉人名簿作成に当たっても、時頼は子息の順序を「相模太郎時宗)、同四郎宗政)、同三郎(時輔)、同七郎宗頼)」と記し、時輔は得宗家後継の序列第三位である事を明言した(宗頼も庶腹の生まれ)。
 時頼は同年四月、極楽寺亭において将軍宗尊親王の御前で時輔が笠懸を行った際も、終わった後に自邸にいた時宗をわざわざ呼び寄せて将軍の前で射芸を披露させ、大げさに褒め称え、時宗の嫡男としての地位を内外に知らしめた。

 この時代、正室の子が嫡男として別格の扱いとなるのは得宗家に限った事ではなく、武家社会では一般的なことであったが、時頼による格差付けは時代背景を考慮しても執拗かつ露骨で、ここまでくると時輔のことを愛していなかったのでは?との疑問すら湧く(冷静に史料を調べるとそうでないことは分かるが)。

 一応時頼を弁護(?)しておくと、二つの理由が考えられる。
 一つは時頼自身が嫡男ではなかった、ということ。前頁の北条氏家系図を参照して頂きたいが、北条家嫡流は「泰時→時氏→経時」と来ている。時頼は同母兄・経時の早世で、第五代執権となった。その経時に子がなかった訳でなく、その意味では時頼は「正嫡」ではなかった(一応、時頼は時氏正室からの生まれではある)。
 それゆえ、時頼は自身と時宗の嫡流としての立場を守る為に徹底的にアピールし、その結果、時輔と差をつける事を執拗なまでに行うこととなってしまった云うものである。

 もう一つは、宝治合戦で北条家に比肩し得る有力御家人を滅ぼした直後で、その残党や北条氏内部の反得宗勢力が油断ならない状況下で、時輔が(自身の意志に関わらず)彼等に担ぎ上げられる危険性を懸念してのことと思われる。

 北条時輔が六波羅探題南方就任は一七歳の時で、まだ一四歳の時宗が執権を継承するまでの不安定な時期に、鎌倉より遠ざけられた訳だが、かように得宗近親者が地方に派遣される例は少なくなかった。
 だが、いずれにしても時輔本人が時頼時宗及び得宗家嫡流に叛意を持っていた明確な証拠は存在しない。その庶長子という「生まれ」だけでその気もないのに危険分子とされ、実際にその様に扱われた時輔の境遇には同情の念を禁じ得ない。
 仮に、本当に時輔が翻意を持っていたとしても…………………少なくとも北条時頼に文句を云う資格は全くない


嫡男との関係 北条時頼がこの世を去ったとき、時頼自身三七歳の若さで、北条時輔は一六歳、北条時宗は一三歳という幼さだった。勿論政治を執ったり、庶流を含む一族を云々したり出来る年齢ではない。

 幕府執権体制が盤石であれば、却って時宗を即座に第六代執権として、時輔は名前の通りその佐に出来たと思われるが、過去作『鎌倉私設軍事裁判』に記したように、そもそも将軍補佐に過ぎない執権の公式な立場は低く、北条一族は得宗家嫡流を代々執権とすることに関しては一枚岩だったが、得宗家嫡男が余りに幼少な場合はそれを執権とすることは避け、時頼時宗の間にも中継ぎとして、六代目に長時、七代目に政村が就任した(時宗とその嫡男・高時の間にも五人の中継ぎ執権が就任した)。

 つまりは北条一族に置いて、時宗がワンマン足り得た時間は決して長くなく、時宗が庶兄・時輔に対してどの様な想いを抱いていたかは詳らかではない上、どの様な想いを抱いていたとしてもそれがストレートに通った可能性は決して高くない、と思われる。
 元寇に対処する関係から、時宗は二一歳で執権に就任したが、これは先代の政村から譲位されたもので、政村は再度連署として時宗を補佐して幕政に関与し続けた。
 時宗と政村の仲が悪かった訳ではないが、二代執権義時の弟で、当時一族の長老でもあり、連署・執権を歴任して来た政村の発言力が軽い筈はなく、彼等が時輔を「危険分子」と断じたら、時宗の意志は通り辛かったのではなかろうか?
 北条政村死後は、若さに似合わぬ辣腕を(良い意味でも悪い意味でも)振るい出した時宗だったが、それは文永の役の前年(文永一〇(1273)年)のことで、この時既に時輔はこの世の人ではなかった。

 結論から云って、時輔時宗の中ははっきりしない。弘安の役の前に元の使者・杜世忠達の首を刎ねたことから時宗を血の気の多い人物と見る向きもあるが、これには禅宗の熱心な信者だった時宗が、南宋の禅僧に指示したときに元への憎しみをさんざっぱら聞かされたことが影響していると見られ、一概に時宗が残忍とも云えない。
 一族や幕府内の内紛も、個人をどうこういう以前に、鎌倉幕府の構造的に脆弱な体制状況に寄るところが大きかった。
 そして北条時輔は二五歳で殺され、北条時宗弘安の役の三年後に三四歳の若さで早世した。彼等の人物像もまた充分に検証するのは容易ではない。

 「兄弟」で見たときに、一つのエピソードが、南宋からの渡来僧の兀庵普寧(ごったんふねい)の残した書状に見られる。
 時輔は一三歳から上洛する一七歳までの間、兀庵の門徒となっていたが、弟子に厳しいとして定評のあった兀庵は、時頼死後に後継者の時宗が幼稚であるとして帰国した(←時宗、まだ一〇歳だって!)が、時輔に対しては親愛の情を記していた。

 騎射と蹴鞠に優れ、京風文化に通じていた庶兄・時輔と、禅への信心が深く、対元寇政策の毀誉褒貶が両極端な時宗…………人物像の前に置かれた状況が悪過ぎた、というの過言だろうか?


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令和三(2021)年六月三日 最終更新