第肆頁 明石全登・・・・・・何が何でも「死」を避けます

名前明石全登(あかしぜんとう。名は「たけのり」・「てるずみ」とも)
暴走を止めた主君宇喜多秀家
最終的な肩書き豊臣秀頼軍一部将
明石景親
後継者明石景行
暴走の止め方信仰強引型
略歴 永禄九(1566)年に宇喜多直家の家臣・明石景親の子に生まれた。
 明石家は元来備前の戦国大名・浦上家に仕えていたが、景親の代に宇喜多直家に降伏したのを機に宇喜多家に仕えた。
 景親は直家死後にその子・宇喜多秀家の重臣となり、明石全登も父の後を継いで秀家に仕えた。
 その一方で熱心なキリシタンでもあった全登は、岡山城下での布教にも熱心で、天正一三(1585)年の段階で城下のキリシタンは三〇〇〇人に及んだと云う。

 全登の妻は直家の娘であり、主君・秀家と義兄弟にして重臣となり、四万石(一説には一〇万石)を拝領した。
 一方で、妻の(恐らくは母方の)血縁から田中吉政と縁を持ち、父・景親が黒田如水と従兄弟だったことから黒田家とも縁を持ち、只でさえ謎の多いこの人物は調べれば調べるほど謎が深まる(苦笑)。


 保木の領主にして宇喜多家の家老も務めた全登は豊臣秀吉からは直参大名として扱われた説もある。
 そんな背景もあってか、押しも押されもせぬ宇喜多家家老として、豊臣政権下五大老・ナンバースリーの秀家を補佐し、宇喜多騒動(詳細後述)の後処理、関ヶ原の戦いに尽力した。

 関ヶ原の戦いでは裏切りや日和見が横行する西軍の中にあって、宇喜多勢は一万七〇〇〇の兵でもって東軍の猛将・福島正則、井伊直政、松平忠吉率いる軍勢と大激戦を繰り広げた。
 軍中にあって全登は過半数の八〇〇〇もの兵を任され、前哨戦でも石田三成旗下の猛将・島左近とともに杭瀬川の戦いに勝利したのを皮切りに大活躍した。
 だが、小早川秀秋の裏切りにより西軍は壊滅。大谷吉継勢に続いて宇喜多勢も総崩れになると全登秀家を戦場から離脱させた後に自らも戦場で偶然に遭遇した黒田長政の伝手を頼って脱出した。

 その後、秀家が六年もの逃亡生活を送る中、全登は親族の黒田家を頼って筑前に落ち延び、黒田如水の弟・直之が熱心なキリシタンだったことから「道斎」と号して、表向きは息子が領地を賜る形で秋月城の城将としての待遇を得た。
 しかし直之が逝去すると、黒田家に累が及ぶのを案じて同家を退転し、肥前長崎・備中足守等に潜伏した。


 慶長一九(1614)年に大坂の陣が勃発するに及んで全登は一〇月に十字架とキリスト像を掲げて大坂城に入城するや忽ち二〇〇〇人とも、一万人とも目されたキリシタン武士の旗頭的存在として豊臣五人衆にも名を連ねた。
 冬の陣ではこれといった活躍は見られなかったが、翌慶長二〇(1615)年の夏の陣では真田幸村と供に後藤又兵衛戦死後の自軍潰走時に殿軍を務めたり、最終決戦で徳川家康の首を狙った奇襲を敢行したりした
 この全登の奮闘は、細川忠興をして、「木村長門(重成)と供に真田・後藤に次ぐ活躍」と云わしめた。
 だが奇襲は豊臣秀頼の不出馬を初めとする様々な原因によって企画倒れとなり、最後の最後まで家康の心胆を寒からしめた幸村の壮絶な討死によって豊臣軍は壊滅し、大坂城は炎上、秀頼・淀殿母子も自害して果て、全登は消息を絶った。

 戦後豊臣方についた将兵への残党狩りは徹底的に行われ、国松(秀頼遺児)、長宗我部盛親も捕らえられ、斬首されたが、全登の行方は杳として知れなかった。
 様々な逃亡先が語られ、噂に上ったが、現在に至るまではっきりしない。
 戦死説もあるにはあるが、いずれにしても熱心なキリシタンであった全登が自害したことだけは考えられないのは衆人が認める所である。



Stop! My Boss ストッパーとしての明石全登は実に興味深い。単にこの項で取り上げられているように他の人物の様に主君の暴走を止めただけに留まらない。
 ストッパーとして全登が最初にその任に当たったのは宇喜多家家臣離散と領国経営悪化に対してのそれだった。

 慶長三(1598)年八月一八日、太閤・豊臣秀吉が甍ずると、朝鮮出兵から帰国した宇喜多秀家は出兵による莫大な出費から来る財政難の対応を誤り、翌慶長四(1599)年に身内を含む武断派家臣達の離反を生み、一時はその家臣達が大坂屋敷に立て篭もり、武力闘争にまでなりかけた。
 全登は家臣の離反を止めるのに奔走し、騒動は徳川家康と大谷吉継の仲介で離反者達が増田長盛預かりとなることで辛うじて回避された。
 だが、多くの家臣に去られた宇喜多家中の人的損失は大きく、卑しくも五大老の地位にある者が国政不行届きの失態で、降格・減封もあり得たが、全登は筆頭家老として穴埋めに浪人を雇い入れて補充するなどして、約一年がかりで宇喜多家の内政を騒動前の状態に戻した。

 内政が落ち着いたのも束の間、宇喜多秀家関ヶ原の戦いに西軍副将として参加し、前述した様に日和見の多い西軍にあって、石田三成・大谷吉継勢と並んで激戦を繰り広げた。
 ここで全登は主君秀家に対するストッパーとなった。
 戦の大勢は小早川秀秋の裏切りによって決した訳だが、この時、弱冠二九歳だった秀家は供に豊臣秀吉を父とした義弟の背信を怒り、小早川勢と差し違えて戦場に散らんとしたが、全登はこれを必死に制止し、秀家を落ち延びさせた。
 周知の如く、宇喜多秀家は六年間の逃亡生活の果てに島津忠恒の説得を受けて自首し、前田・島津両家の助命嘆願により、死を一等減じられ、八丈島への流刑となった訳だが、秀家に関しては拙作・『秀吉の子供達』『隠棲の楽しみ方』を参照して欲しい。
 一方の全登は、戦場で遭遇した敵でありながら身内でもあった黒田長政を頼って筑前に隠棲したのは前述通りだが、慶長一九(1614)年一〇月に豊臣秀頼の浪人募集に応じて大坂城に入城することで、全登は再び歴史の表舞台に現れた。

 全登が豊臣方についた理由は信仰の自由を求めてのことだった。
 このとき既に高山右近や内藤如安といった有力キリシタン大名が国外追放になるほど徳川幕府によるキリシタン弾圧は熾烈を極めつつあったが、豊臣領内ではキリスト教の信仰が認められていた(江戸幕府の施政もまだまだ徹底していなかったということである)。
 前述した様に、十字架とキリスト像を掲げて大坂城に向かった全登に一人、また一人とキリシタン浪人が追随し、ついには八〇〇〇を数える兵力が全登とともに大坂城に入城した
 全登は忽ち「キリシタン浪人の代表的存在」と目されたが、彼の参戦にはもう一つの目的があった。

 戦勝の暁に、真田幸村が信濃一国を、長宗我部盛親が土佐一国を求めたのに対し、全登は「キリスト教信仰の自由」とともに、「旧主・宇喜多秀家の赦免」も求めていた。
 当時、幕府では秀家に対して、豊臣秀頼に合力せず、徳川家に忠誠を誓うなら流罪を赦免し、大名に戻すとの懐柔提案も為されていたが、秀家は秀吉・秀頼父子に対する義理からこれを拒絶していた。
 全登は幕府軍と戦うことで、「主君の流刑」と「キリスト教」弾圧に対してもストッパーたらんとしていたのである

 全登のストッパー振りは軍議に、戦場にと続いた。
 夏の陣では、外堀を埋められた状態で篭城も叶わぬ豊臣勢が城外に打って出るより術がないことは誰しもが認めるところだったが、元より不利な戦の中、浪人として朽ち果てるより、名誉の戦死を求めた集まった浪人衆は自己顕示欲の塊のような連中が大半だった、塙団右衛門を筆頭に(笑)
 故に「俺が!」、「拙者が!」、「それがしが!」状態で紛糾しがちな軍議を収めたのも全登なら、猛将・後藤又兵衛を討ち取って気勢を上げる伊達勢に対し、大和口にて銃弾を受けて負傷しながら防戦に務めたのも全登であり、誠に見事なストッパー振りであった。

 かような活躍と戦略眼と統率力で真田幸村にも頼りにされた全登だったが、翌日、慶長二〇(1615)年五月七日、奇跡の大逆転を狙っての奇襲作戦に出た。
 それは、幸村とともに徳川家康の首を取るべく小倉行春(蒲生氏郷の従兄弟でキリシタン)とともに精鋭三〇〇をもって船場から家康本陣背後に迂回して奇襲せんとした秘策だったが、出馬の合図となる秀頼の出馬延期・予想以上の徳川軍の進軍速度などで機会を掴めず、作戦は互解し、幸村も天王寺で戦死した。
 これを知った全登は自らの手勢のみで敵中に突撃・奮闘したが多勢に無勢、忽ち壊滅し、以後、明石全登の消息は断たれた。

 明石全登の行方は諸説紛紛だが、どれも決め手に欠け、その実態は今尚不明である。
 いずれにせよ敬虔なキリシタンである全登が自害することは到底考えられず、憶測が憶測を呼び、全登とその郎党の行方を追う「明石狩り」と呼ばれた捜索は三代将軍・徳川家光の代まで続いた。



ストッパーたり得た要因 一言で云って、明石全登がキリシタンだった事にある。
 江戸幕府によってキリスト教弾圧に本腰が入れられた時、当時日本のキリシタンは七〇万に達したと云われている。それ以前にもキリシタン大名と云われた大名に、有名所だけでも有馬晴信、大友宗麟、織田有楽斎、織田秀信、蒲生氏郷、黒田如水・長政父子、小西行長、高山右近、蜂須賀家政等が存在した。
 だが、南蛮貿易や鉄砲獲得を重視した経済目的による入信も多く、江戸幕府の命により棄教した者や、迫害者に転じた者もいる一方で、高山右近の様に国外追放にあっても教えを守り通した者や、小西行長の様に自害せずに自首して刑場の露と消えた者もいた。
 つまりキリシタン大名といってもその信仰度は様々なのだが、全登は間違いなく右近・行長タイプのキリシタンだった。もっとも、全登は大名ではなかったが。


 全登のストッパー振りを主君宇喜多秀家に限って見ると、関ヶ原の戦いにて戦場の露と消えようとも小早川秀秋の首を取るまで退くまいとした秀家を説得して退かせたのは、自殺を厳しく禁じるキリスト教の教えから全登が自殺行為に等しい戦場残留を防がせた面があるのは間違いないだろう。
 平成一二(2000)年のNHK大河ドラマ『葵 徳川三代』では香川照之氏演じる宇喜多秀家が、五大老として亡き秀吉の遺命に背く徳川家康への敵意から、二九歳の若者らしく激昂しやすい役所を演じていた。
 関ヶ原の戦いでのシーンでも、小早川、脇坂、赤座、小川、朽木勢の裏切りに総崩れになる自軍を叱咤して「死ねー!死ねー!逃げて生き恥を晒すな!」と叫んでいた姿が薩摩守には印象的なのだが、時に狂気に身を委ねることも必要な戦場で、明かに信じられない裏切りの前に冷静さなどを保ち得ない、謂わば自棄糞になってもおかしくない状態にあった若き秀家全登が説得し得たのは、急転直下の災況にも自ら死を招くような行動は決して起こさないキリシタンとしての信仰が些かも揺らがなかったからだろう。
 仏教とキリスト教の違いは有れど、同じ宗教を信じる身としてこの信仰の強さは驚嘆と尊敬に値する。

 少なくとも、信仰に支えられた精神力の強さがなければ、戦場にて全登秀家を接得し、恥を忍んで戦線離脱を決意させることは至難だったと考えられる。
 正直、薩摩守如きの知識で明石全登を語るのはおこがましい気すらするのだが、そんな中途半端な知識でも全登の信仰・信念の強さを語ることは可能で、よく知らない奴でも充分感じられるほどの強さを持っていることを語りたかった。
 明石掃部全登………まだまだ研究を重ねたい興味深く、謎深い人物の一人である。



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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新