第漆頁 後水尾天皇………当てつけ退位
退位者
名前 後水尾天皇(ごみずのおてんのう) 生没年 文禄五(1596)年六月二九日〜延宝八(1680)年八月一九日 在位 〜 退位させられた理由 幕府への当てつけ・抗議 退位させた者 一応は自らの意志 退位後の地位 上皇 無念度 六
略歴 伝一〇八代天皇。文禄五(1596)年六月二九日に後陽成天皇を父に、近衛前子(前久の娘)を母に第三皇子として生まれた。諱は政仁(ことひと)。第三皇子故に三宮との幼名で呼ばれ、当然上には一宮、二宮がいて、本来なら異母兄の一宮が即位する筈だった。だが、周囲の人間の様々な思惑がやがて政仁を皇太子に押し上げた。
政仁が幼少の頃は豊臣秀吉の天下で、農民の生まれであった秀吉は家柄コンプレックスを撥ね退ける為にも後陽成天皇の権威を利用すべく後陽成天皇に尽くした。実際、後陽成天皇と秀吉の仲は良く、逆に豊臣の世が徳川の天下になったことで後に後陽成天皇は政治への情熱を失った程だったが、そんな後陽成天皇が何故か皇位継承者に関しては三宮であった政仁を望み、一宮を押していた秀吉に対して当てつけ退位を仄めかす程だった。
程なく、慶長三(1598)年八月一八日に秀吉が薨去し、皇位継承問題は沈静化した。しかし二年後に関ヶ原の戦いで徳川家康が天下の実権を握ると様相は変わり出した。
亡き秀吉が朝廷に様々な献金を行ったのはその権威を味方につけるもので、秀吉自身は朝廷内部には余り口出ししなかった。逆に家康は「朝廷には金も出すが、口も出す。」的に様々な干渉を行い、これに嫌気が差した後陽成天皇は慶長一六(1611)年五月九日、政仁に譲位した。
既に八年前に家康が征夷大将軍に任ぜられて江戸に幕府が開かれ、その二年後には秀忠に将軍職が譲られたことで徳川将軍の世襲が世に知らしめられていた。政仁改め後水尾天皇即位に際して即位式に掛けられた費用はすべて徳川家が捻出しており、それに比例して徳川家からの口出しはエスカレートした。加えて、武士の横槍で一宮を後継者に出来なかったことで後陽成上皇は後水尾天皇に対しても次第に冷淡になって行った。
周知の様に徳川の天下は大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、抵抗勢力となり得る大名家をすべて滅ぼすか、屈服させるかを為し、武家諸法度を制定することで盤石化した訳だが、それに先立つ慶長一八(1613)年六月一六日、幕府は公家衆法度と勅許紫衣法度を制定し、朝廷と宗教勢力を抑圧する行動に出ていた。
更に大坂の陣を終えた僅か二ヶ月後の慶長二〇(1615)年七月一七日には禁中並公家諸法度を公布し、朝廷の行動全般が京都所司代を通じて幕府の管理下に置かれ、摂政・関白が朝議を主宰し、その決定が武家伝奏を通じて幕府の承諾を得ることによって初めて施行出来る体制を強要された。
これによって摂関以外の皇族・公家は朝廷の政策決定過程から排除された。勿論後水尾天皇も例外ではない。
これに前後して家康は後水尾天皇即位直後に孫娘・和子(秀忠の末娘)の入内を申し入れ、慶長一九(1614)年四月に入内宣旨が出された。つまり、徳川もまた藤原氏、平氏、源氏同様、一族の娘を入内させ、外戚となることで軍事政権のみならず朝廷をも牛耳る道を歩まんとした。
後水尾天皇と和子の婚姻は大坂の陣、の家康の薨去(元和二(1616)年四月一七日)、後陽成院の崩御(元和三(1618)年八月一七日)が相次いだことで延期され続けたが、最終的に元和六(1620)年六月一八日に為された。
だが、その経過はかなりドロドロしていた。
後水尾天皇と寵愛していた女官・四辻与津子との間に皇子・皇女がいたことが秀忠の耳に入り、元和五(1619)年九月に秀忠が自ら上洛して、与津子の振る舞いを宮中における不行跡であるとして武家伝奏・広橋兼勝とともにこれを追及した。
結果、万里小路充房を丹波篠山に、与津子の実兄・四辻季継・高倉嗣良を豊後に配流し、天皇側近の中御門宣衡・堀河康胤・土御門久脩を出仕停止にした。
幕府の露骨な介入に憤慨した後水尾天皇は譲位しようとしたが、藤堂高虎が後水尾天皇を恫喝し、与津子の追放・出家を強要した。
この時処罰された六名は和子入内後に赦免・復職となったが、これも秀忠が後水尾天皇に強要したもので、権威も権利もあったものでは無かった。
一方和子との仲は良好で、元和九(1624)年一一月一九日に第二皇女で後に明正天皇となる女一宮(おんないちのみや)が生まれたのを皮切りに、二男五女に恵まれた。
これに気を良くしたものか、秀忠も表向きは朝廷を立て、寛永三(1626)年一〇月二五日〜三〇日まで二条城へ行幸した後水尾天皇に行われ、秀忠、家光、忠長の父子が上洛、拝謁した。
退位への道 だが、それは表向きで、その後も後水尾天皇の権威は踏み躙られ続けた。
まず寛永四(1627)年に紫衣事件が起きた。詳しくは過去作「怪僧大集合」を参考願いたいが、簡単に云えば天皇が高僧を讃えて贈る紫衣を幕府が剥奪したもので、天皇が授与したものを幕府が帳消しにしたのだから、天皇の権威を完全に否定したことに等しかった。
更に徳川家光の乳母・お福が無位無官の身でありながら朝廷に参内し、これも天皇の権威を失墜させるものとされた(お福を無位無官のままで参内させるのはまずいとしたことで「春日局」の称号が送られた)。
これらの出来事に耐えかねた後水尾天皇は寛永六(1629)年一一月八日、幕府への通告をしないまま女一宮に譲位した。他に男児もいたが、和子との間に生まれた二人の皇子は夭折していた。
譲位を事前に知らされていたのは腹心の中御門宣衡のみで、幕府は大いに慌てた。
一見すると、何の実権もまたない後水尾天皇が不貞腐れて、自棄糞的に退位した様に見えるが、これには徳川に対する報復への深慮があった。
後水尾天皇は和子入内前に既に子がいたように、かなりの性豪で遊郭通いもしており、退位後も和子及び何人もの側室の間に子を成しており、男児だけで一九人も作った。譲位段階では和子が生んだ子を含め男児はいなかったが、まだまだ男児が生まれる可能性が充分にあった。
にもかかわらず女一宮に皇位が譲られたことで称徳天皇以来八五九年振りで、日本史上七人目となる女帝が誕生した訳だが、結婚後に即位した推古・皇極(斉明)・元明・元正天皇と違って、即位時に独身だった内親王が即位した場合、その皇位は一代限りとするのが慣例化していた。そしてそれ以前に女帝と身分的に釣り合う夫は存在し得ず、明正天皇は孝謙(称徳)天皇同様、生涯独身を余儀なくされた(古い江戸時代の話と思う勿れ。令和の愛子内親王様も、将来天皇となられるかどうかは分からないが、即位されれば婚姻はかなり困難な問題となる)。
そしてこれにより徳川家の血を継ぐ天皇が一代で終わることが決定的となった。実権も権威も奪われた後水尾天皇の精一杯の抵抗だった。
退位後 半ば当てつけとはいえ、はっきりと徳川家への抵抗として退位した後水尾上皇だったから、表向きの地位を退いても当然の様に院政を開始した。
当初は当てつけ退位し、徳川家が外戚となる目論見をぶち壊した後水尾上皇の院政を幕府が認めなかったが、寛永九(1632)年一月二四日に岳父にして大御所だった徳川秀忠が薨去し、二年後に将軍にして義兄でもあった徳川家光が上洛・拝謁したことで院政が認められ、他の側室が生んだ男児達を和子(後水尾上皇退位後は東福門院)の養子とし、明正天皇の後に即位した彼女の弟であった後光明・後西・霊元天皇の代にも後水尾上皇は院政を執り続けた。
後光明天皇には先立たれたが、その後墓もなく不可もない人生が続き、延宝六(1676)年六月一五日に東福門院が崩御し、二年後の延宝八(1680)年八月一九日に後水尾上皇は崩御した。武士の世は五代将軍徳川綱吉の時代で、八五歳の享年は記録が残る天皇の享年としては昭和天皇に抜かれるまで歴代最長だった。
尚、後水尾の諡は、清和天皇の別称である「水尾帝」に因んだもので、歴代天皇に「水尾天皇」は存在しない。
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令和六(2024)年一〇月二一日 最終更新