第玖頁 梶原景時……THE・「讒言者」

冤罪事件簿 玖
事件事件名無し
讒言者梶原景時(かじわらのかげとき)
讒言された者源義経(みなもとのよしつね)
処罰実行者源頼朝(みなもとのよりとも)
黒幕同上
讒言悪質度



事件 この頁では特に特定の事件がある訳ではない。
 うちの道場主が日本史上において最も嫌う人物の一人である源頼朝に唯一信頼され、その懐刀に徹し、古今に「讒言者」、「おべっか野郎」、「腰巾着」との悪評の絶えない梶原景時の、特に対源義経関係に改めてクローズアップしたものである。
 ちなみに「君側の奸」とされる景時に対する考察は過去作「『君側の奸』なのか?」でも行っているので、こちらも参照して頂けると有難いです(笑)。

 職務的に簡単に云えば、景時は軍監として義経軍の平家追討に従軍し、その任から義経の言動を事細かく頼朝に報告(詳細後述)したところ、頼朝義経の兄弟相克となった訳で、『平家物語』を初めとする文字通り判官贔屓されている義経人気の高い軍記物にあって、彼はかなり人気のない人物となっている。



讒言者 梶原景時を細かく書けばかなり膨大な分量となるので源頼朝義経関連に絞ってここでは記載したい。

 景時は、元は大庭氏の遠縁で源氏の家人だったが、平治の乱で源義朝が敗死した際に、大庭景親が平家に従ったのに伴って、彼も平家に従った。
 しかし二一年後、義朝の遺児・頼朝が挙兵すると直後の石橋山の戦いに敗れた頼朝の隠れ場所を隠匿し、その命を救ったことであの猜疑心塊男・頼朝の信頼を得るに至った(←過去作で何度も触れていますが、薩摩守の頼朝嫌いは少々常軌を逸しています。度合いを大幅に差っ引いて読んで下さい(苦笑))

 その後、安房に逃れて再挙した頼朝が鎌倉に入ると、景時は土肥実平を通じて頼朝に降伏、臣従した。
 翌年に正式に頼朝と対面すると、危機を救ったことと弁舌・教養が気に入られ、当初は主に内政(造営・囚人監視・北条政子の出産奉行等)に携わった

 その後、寿永三(1184)年一月、義経が源義仲追討を頼朝から命じられると嫡男・景季とともに従軍し、宇治川の戦いに勝利すると諸将が鎌倉の頼朝への戦果報告を行った中でも、景時の報告書がかなり詳細であったことから頼朝に益々気に入られた。
 だが、一方で一ノ谷の戦い前後から、現地で侍大将を務める義経とは肌が合わず、この辺りから両者の仲は徐々に悪化していった。
 景時もそれは敏感に感じていて、配置転換を願い出て、源範頼の侍大将となって一ノ谷の戦いに参戦し、父子で大いに活躍した(嫡男景季が平重衡(清盛五男)を捕えた)。
 直後、景時は平重衡を護送して一旦、鎌倉へ戻り、四月に土肥実平とともに上洛すると、各地の平氏所領の没収にあたった。

 しかし、その後総大将である範頼の戦果が捗々しくなく、元暦元(1185)年一月に頼朝義経に屋島攻略を命じると景時は再度義経軍に加わることとなり、両者は戦い前の軍議の度に嫌味を云い合い、平家滅亡後にその対立は更に深刻化させた。

 元暦二(1185)年三月二四日、壇ノ浦の戦いで平家一門が滅びると、義経は後白河法皇から勝手に官位を受けた咎で頼朝の怒りを買い、鎌倉帰還を許されず、京へ追い返された(頼朝からの帰還不許可命令を伝えたのは景季)。

   結局、義経は京から奥州平泉の藤原秀衡のもとへ逃れ、秀衡死後の文治五(189)年に衣川にて秀衡の嫡男・泰衡に殺された。泰衡は鎌倉に義経の首を届けたのだが、これを首実検したのは景時と和田義盛だった。

 その後も景時頼朝の懐刀に徹し、頼朝死後、後を継いだ二代将軍源頼家がまだ若輩であることを理由として一三人の有力御家人による合議制が敷かれた際に、その一人であった景時は一人頼家贔屓が目立ち、他の御家人達と対立。
 やがては一族郎党共々鎌倉を追われ、上洛する途中駿河で一族諸共滅ぼされたのであった。



注進と処断 過去作でも触れたが、梶原景時源頼朝にとって実に有能で、信頼出来る稀有な側近だった。
 実際、軍人としての活躍は嫡男の景季が立派に担い、景時自身は戦況・戦果報告を初めとする実務処理能力に優れていた。
 同時に、頼朝にとって汚れ仕事を任せられる人物でもあった。

 余程心の拗けた人物か、人を陥れてでも主君の寵愛を得たいと目論む者でもなければ、誰だって讒言や汚れ仕事は気分の良いものでは無い。もし鎌倉殿の御家人たちがこの文章を読んでいれば、「いいや、景時は喜んでそうした奴だ!」というかも知れないが、良い見方をすれば景時は「頼朝一筋」だった。
 頼朝の為とあれば、義経のみならず、範頼・行家・義仲・義高と云った源氏一門の頼朝に対する悪意や都合の悪さを注進することも厭わず、功はあっても態度の悪い上総広常を暗殺(←博奕のいざこざから喧嘩したように見せかけた)する役目も引き受けてくれた。

 そして軍監となって義経軍に従軍した景時は、好戦的で自ら先頭に立って戦おうとする義経を「猪武者」、「大将にあるまじき振舞い」と捉え、それを逐一よりともに報告した。
 上述の壇ノ浦の戦い直後に頼朝からの鎌倉帰還禁止命令を景季に伝えさせた際、義経は体調不良を理由に、景季と合うのを一日延期させたというから、この時点でかなり父子共々義経に嫌われていたと見られる。
 そして命令内容は、直接帰還を禁じたものでは無く、頼朝と対立していた叔父・行家を追討せよ(それが終わるまで帰るな、という体裁)、としたものだったのだが、義経は「体調が回復してから。」として即座には従えないとした。
 義経のこの命令不服従が、景時がもたらしたものだったからなのかは断言出来ないが、鎌倉に戻った景季からその報告を受けた景時は、頼朝に、「(義経様は)謀反を企んでいるに相違ない。」と耳打ちした。
 軍事組織に在って、命令不服従は重罪に匹敵するが、だからと云って、謀叛とまで云えるのか否かは断言出来るものではない。事の真相はどうあれ、景時義経に対する相当の悪意があったことは否めないだろう。



真相と悪質度 源頼朝が弟・叔父・従兄弟、果てはその幼子まで手に掛け続けた史実から、一般に源義経は悲劇のヒーローと見られがちで、頼朝をしてその義経を憎むように仕向けた人物として梶原景時の評判は極めて悪い。
 ただ、昨今は歴史に対する様々な見方が生まれており、義経の言動にも相当問題があったとして人口に膾炙している。

 上述した様に、景時義経に対する悪意は相当なものである。問題はそれが正しいのか否かである。謀叛を起こす気が無くても、「謀反を企んでます。」と讒言された者は、それがもう取り返しがつかないレベルまで相手が信じると認識すれば、本当に謀叛を起こさざるを得なくなるのは世に往々にしてある話である。

 まず注目したいのは、景時頼朝に報告した義経に関する事柄が「讒言」だったのか、否かである。まず景時が申し開きをするとすれば(←景時に限った話ではないが)「拙者は鎌倉殿(頼朝)に九郎(義経)殿の在りのままを伝えただけだ!」と主張するだろう。
 となると考察すべきは、景時頼朝に報告・進言した義経に関する事柄が事実だったのか?という事になる(当たり前の話だが)。

 義経の言動だけで云えば、景時頼朝に伝えた内容は概ね正しいだろう。
 平家追討遠征軍の総大将を命じられた義経だったが、確かに景時が云っていたように、総大将らしからぬ振る舞いや軍事行動が多かった。「総大将」と云うよりは「先鋒大将」に近かった。
 「戦の天才」と云われる義経だったが、薩摩守個人的な見解では半分正しく、半分そうでないと見ている。一ノ谷の戦い屋島の戦いも、所謂、奇襲で、壇ノ浦の戦いでは非戦闘員である漕ぎ手を狙撃して敵軍の機動力を奪うと云うやり方で、ある意味「汚いやり方」だった。
 勿論戦だから、「汚いもへったくれもあるか!」と云うなら義経は間違いなく名将だし、それまでそうしたやり方を誰も知らなかったのなら正しく「コロンブスの卵」を思いついた義経は天才である。
 ただ、世の常で、今までとあまりにも異なるやり方は往々にして世の反発を招くし、王道や定石を重んじる総大将の在り様としては歓迎されない向きを大きかったことだろう。まして義経はこれらの戦いを自ら先頭に立って行った。通常総大将は陣中最奥部にどっしり構え、自らは動かないもので、逆に最奥部にまで追い込まれた際は敵に首級を与えるのが大物の証とすらされた。
 そう云う意味では景時が述べた、「総大将にあるまじきふるまい。」は正しい指摘である。

 ただ、義経には「総大将」という自覚は殆んどなかったと思われる。
 義経は好戦的な性格で、「総大将は兄上(頼朝)」として、自らは最前線の現場監督的な立場や行動を好んだ。
 有名な話だが、壇ノ浦の戦い前の軍議で景時が船に退却の為の逆櫓の装着を進撃したところ、義経は退却の為の準備を端からの負け犬根性的に見て景時を罵った。この時両者はあわや斬り合いになりかねない程険悪な状態に陥ったと云う。故にこれらの意見対立や、物の見方や、論争内容を考察するに、景時義経観は正しいには正しいが、かなり悪意的に見ていた可能性が高いことを踏まえる必要があるだろう。

 次に考察したいのは、「本当に義経頼朝に叛意を持っていたのか?」という点である。  結論は、「基本的に無かったが、追い込まれて持たざるを得ない面があった。」というのが薩摩守の見解で、これに関しては景時の悪質度と、兄として総帥としての頼朝の共同の無さを責めたい。
 上述した様に、義経は現場指揮官として戦働きに徹し、東国武士団の総大将たる頼朝に取って代わろうと云う考えも無ければ、自らをその器でもないと自認していたことだろう。ただ、出世欲が無い訳ではなく、政治的駆け引けや配慮は兄頼朝の足元どころか、地下深くにすら及ばない程無知・考え無しに等しかった(チョット云い過ぎかな?)。
 有名な話だが、平家滅亡の最大功労者でありながら義経頼朝の怒りを買ったのは、義経が無断で後白河法皇から官位を貰ったからだった。

 朝廷や貴族から犬馬の如くこき使われる武士の立場を改善し、武士による政権を樹立せんとしていた頼朝にとって、配下の武士が自分以外の者から官位を貰うのは自らがやろうとしていることの屋台骨を揺るがしかねない愚挙だった。
 実際、頼朝一ノ谷の戦い直後に検非違使の任官を受けた義経に対してそれを怒り軍務から外した。上述した様にその後範頼指揮による平家追討が芳しくなかったため、「しゃあなし」的に軍務に復帰した。
 ただこの時、範頼は三河守に任官されており、このことが頼朝に責められた気配はない。義経にしてみれば、「兄者(範頼)が三河守に任じられたのだから、自分が検非違使になって何が悪い?」との認識だったことだろう。
 いずれにしても義経は朝廷から官位を受けることの何が悪いのか丸で分かっておらず、伊予守任官を責められた際、義経は書面で頼朝に「高位任官は源氏にとって名誉なことではないのですか?」と記していたから、頼朝の意図が丸で分かっていなかった。
 確かに義経の無知・考え無しは問題だが、武家政権がまだ完全には樹立されておらず、官位拝命への価値観が後々の世より遥かに強い時代、何故に朝廷から官位を受けてはいけなかったのかはもっとしっかり伝える義務が頼朝にはあっただろう。

 結局義経は鎌倉に入ることを許されず、捕虜にしていた平宗盛父子を連れて京に戻る様命じられ、傷心の義経にはそれを同情する体で後白河法皇や源行家(頼朝義経兄弟の叔父)が接近し、頼朝との対立を唆し、義経頼朝追討の院宣を求めるに至った。
 これを受けて頼朝義経に刺客を放った。その魔手を辛くも逃れた義経だったが、結局頼朝と戦うのに思うように兵が集まらなかったこともあって奥州平泉に逃れた訳だが、この経緯からも義経は兄と事を構えることに積極的ではなかったと見られる。

 そんな義経を、景時は「謀反を企んでいるに相違ない。」と頼朝に注進した。その注進は壇ノ浦の戦いから鎌倉に戻った直後だったから、事の善悪はどうあれ、景時頼朝義経が顔を合わさない様に画策していた可能性が高い。
 何せ景時義経の仲は険悪極まりなかったから、義経が鎌倉に戻れば頼朝に自分のことを悪く云うことも考えられただろう。だが、少なくとも壇ノ浦の戦いによる伊予守任官は鎌倉入りを阻まれた後の話で、最初の無断任官は一ノ谷の戦い直後に頼朝から責められている。つまり、この時点の義経に謀反の意を明白に断言出来る証拠はなく、鎌倉入りを阻まれたのも、行家討伐や三種の神器の一つが未発見だったことに対する「任務未遂功」を責められた色合いが強い。

 そうなると景時の讒言はかなり悪質で、「何としても九郎殿を謀叛人にしなくては………。」と考えていたのではないか?とすら思われてならない。実際、景時以外に義経を責めた御家人を薩摩守は知らない(薩摩守が寡聞なだけかも知れないが)。
 義経を許そうとしない頼朝に対して畠山重忠は、「源氏の棟梁ともあろう御方が弟気味を疑われるとは何たることです。どうしても不安なら西方の守りを九郎殿に任せればよろしいではありませんか?」と述べ、これを受けた頼朝は討伐を取り消し掛けた。しかし、直後に景時「もし九郎殿が戻られたら、鎌倉殿はどうなりますかな?」と述べるや、頼朝義経追討の意を固めた。

 たった一言で肉親を許そうとした気持ちを翻した頼朝の猜疑心も大問題だが、ここまであっさり翻るのも、景時頼朝に対する意見がかなりの影響力を持っていたからと云うのもあろう。その点からも「敵」と見做したものへの景時の讒言はかなり悪質なものだったと云えよう。

 個人的に余り共感出来ない男である。


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令和六(2024)年三月七日 最終更新