第拾頁 加納御前……空前絶後の捏造讒言

冤罪事件簿 拾
事件宇都宮釣天井事件
讒言者加納御前(かのうごぜん)
讒言された者本多正純(ほんだまさずみ)
処罰実行者徳川秀忠(とくがわひでただ)
黒幕加納御前
讒言悪質度


事件 事件が起きたのは元和八(1622)年四月一六日のことであった。
 江戸幕府始祖にして、前将軍である徳川家康の七回忌を翌日に控え、二代目征夷大将軍徳川秀忠は下野日光にいた。日光には云わずと知れた日光東照宮があり、そこには家康が東照大権現として祀られており、命日である四月一七日に参拝した後、秀忠は宇都宮城で一泊して江戸に戻る予定だった。
 その直前に驚愕の密訴が寄せられた。

 それは、「宇都宮城の普請に不備がある。」というもので、密訴してきたのは宇都宮藩藩主奥平家昌の祖母・加納御前で、彼女は将軍秀忠の長姉でもあった。
 その宇都宮城の城主は宇都宮藩一五万五〇〇〇石の主・本多正純だった。本多家は三河松平家譜代の臣で、正純の父・本多正信は家康の友とも云える程親密だった人物だった。秀忠が将軍に就任した際は正信が補佐を務め、大御所となった家康には正純が側近として近侍した。
 そんな本多家の居城で事件が起きるとは尋常ではない。秀忠は、「内容の真偽を確かめるのは後日。」とし、四月一九日に「御台所が病気であるとの知らせが来た。」として称し、予定を変更して宇都宮城を通過して壬生城に宿泊し、二一日に江戸城へ帰還した。

 「怪しきところ有り。」とされた宇都宮城に秀忠が立ち寄らなかったので、事件そのものは起こらず、死者は勿論、怪我人すら出ず、表向きは「上様が急遽予定変更して急ぎ江戸に戻った。」というだけの話だった。
 だが、訴えた者が訴えた者、訴えられた者も訴えられた者だっただけに実体無き事件の処分は苛斂誅求を極めた。



讒言者 「宇都宮城の普請に不備がある。」と徳川秀忠に密訴したのは上述通り、加納御前だった。彼女は秀忠の姉で、宇都宮藩藩主奥平家昌の祖母でもあった訳だが、まずその血縁については下の家系図を参照して頂きたい。



 家系図は過去作「戦国長女」に記載したものと同じもので、詳しい経歴は過去作に譲るので、ここでは簡単にそれを記したい。
加納御前は初名を亀姫と云い、彼女の母・築山殿は家康の正妻で、同母兄の兄・信康は本来なら家康の後を継ぐべき男だった。そして彼女自身は徳川家と武田家の間に挟まれた地方豪族・奥平貞昌に徳川家への臣従と同盟の証として嫁ぎ、戦後貞昌は居城・長篠城にて武田勝頼の侵攻を良く防ぎ、長篠の戦いの勝利に大きく貢献したことで織田信長・徳川家康の二英傑から多いの賞され、信長の「信」の一字を与えられて信昌と改めた程だった。
 直後、不幸にして亀姫の母・築山殿と兄・信康は武田家との内通を疑われる形で家康に誅殺された(この事件は謎が多いので話は単純ではいないが、本作では割愛)。

 その後、時代は流れ、奥平家は松平の姓が与えられ、徳川一門に準ずる家格が与えられ、彼女は関ヶ原の戦いにおける論功行賞で信昌が美濃加納一〇万石の藩主に就任したことで加納御前と呼ばれるようになった。
 信昌は側室を迎えることなく、亀姫との間に四男一女を儲け、父・家康の長女である彼女に対する寵愛は大きく、奥平家は嫡男にして家康初の男孫である家昌が宇都宮藩主となり、三男・忠政が加納藩の後継者とされ、早世した次男を除いて三人の息子全員が大名に取り立てられた。
 だが、徳川家の天下取りが王手をかける頃に彼女に不幸が相次ぎ、それが宇都宮釣天井事件の遠因となった。

 加納御前の一女は徳川家累代の家臣・大久保忠隣の息子忠常に嫁ぎ、忠職を生んでいた。しかし、娘婿・忠常は不幸にして早世。そしてその翌年、娘の義父である忠隣が本多正信・正純父子との対立から失脚した。
 それは大久保長安事件という、大久保家の側近であった金山奉行大久保長安の急逝直後に発覚した黄金横領事件で、長安の七人の息子全員が切腹を命じられ、長安の遺体も棺から引きずり出されて磔にされると云う苛刑が執行され、その監督不行き届きを咎める形で忠隣は改易となった。
 そのやり方は忠隣が幕命でキリシタン取り締まりの為に上洛した隙を突く形で為されたもので、忠職も蟄居を命じられた(蟄居で済んだのは彼が加納御前の孫で、家康の曾孫だったから)。

 加納御前は本多父子の大久保家に対する仕打ちを深く恨んだとされている。それでなくても本多正信は浄土真宗への信仰から三河一向一揆に加わったことで家康と袂を分かったのを大久保家の執り成しで帰参していたから、本多家が大久保家と事を構えること自体、恩を仇で返す重大な意裏切り行為と多くの人々が捉えていた。

 ただ、それでも父・家康の存命中は、彼女も大人しくしていた。女性の地位が低いこの時代、父に向って政治や人事に口出しするのは大いに憚られたと思われる。しかし、元和二(1616)年四月一七日に家康が薨去すると、彼女は家康の子孫の中では最長老となっていた。
 父・家康が世を去った時点で、母・築山殿、同母兄・信康は三七年も前に鬼籍に入っていた。そして秀忠から見ても、次兄・結城秀康、次姉・督姫も故人で、長姉・加納御前は唯一人の年上の身内だった。
 加えて奥平家にあっても、夫・信昌が家康薨去の一ヶ月前である慶長二〇(1615)年三月一四日に世を去っていた。不幸にして信昌逝去の八ヶ月前に信政の後を継いで藩主となっていた三男・忠政が、その三ヶ月後には嫡男の家昌が若くして亡くなっていたことで、彼女は図らずも奥平家のゴッドマザーとして二人の孫を後見する立場となり、徳川家・奥平家・松平家のお局様と化していた。

 さすがに二人の息子、夫、父を相次いで亡くしていればその衝撃が大きかったと思われるが、それを考慮すれば、七回忌というタイミングで嫡男・嫡孫が藩主を務めた宇都宮を舞台に彼女が本多正純への報復を図ったとしても全く不思議な話ではなかった。
 そして元和五(1619)年には動機となる事件もあった。嫡孫の宇都宮藩主・忠昌が、一二歳にして下総古河藩に転封となったのだが、替わって宇都宮に入って来たのが恨みある本多正純だった。勿論加納御前は激怒した。



注進と処断 四月二一日に江戸城へ帰還した徳川秀忠は即座に事の真偽を確かめに掛った。既に二日前の一九日に井上正就を宇都宮城に派して宇都宮城に不審な点はなく、本多正純から謀反の証拠となるものが出てくることもなかった。
 しかし、正純は裁かれた。

 四ヶ月後に正純最上騒動で改易となった出羽山形藩に山形城接収の為同地へ赴いた。これがとんだ茶番であったことは過去作「『君側の奸』なのか?」で詳細に語っているので、ここでは簡単に済ますが、秀忠は山形にいた正純に伊丹康勝と高木正次を派し、「鉄砲の秘密製造」や「宇都宮城の本丸石垣の無断修理」、更には「宇都宮城の寝所に釣天井を仕掛けて秀忠を圧死させようと画策した」等、一一ヶ条の罪状嫌疑を突きつけさせた。
 これに対して正純は一つ一つ明快に回答したが、康勝は追加で三ヶ条を突き付け(はっきり云って後出しじゃんけん)、これに正純は答えられなかった。
 ちなみに、幕命で出張中の正純を難詰して裁いたやり方は過去に本多正信・正純が大久保忠隣を裁いた時と同じ手順で、このことが「事件は加納御前による報復」と囁かれる一因になっている。
 これにより正純は有罪とされ、所領召し上げのところを「先代よりの忠勤」に免じ、改めて出羽由利郡に五万五〇〇〇石を与えると命じられた。
 これに対して謀叛画策を認められないとして正純は五万五〇〇〇石を固辞。これを怒った秀忠は改めて本多家を改易とし、正純の身柄は久保田藩主佐竹義宣に預けられ、出羽横手への流罪とされた(正純は一〇〇〇石の捨て扶持を与えられ、事件から一五年後に病死)。



真相と悪質度 まず、いちいち触れるの馬鹿馬鹿しい(それでも触れるのだ)が、釣天井を用いての徳川秀忠暗殺計画など全くのでっち上げである。というか、事の真偽がどうあれ、裁く側が本気で暗殺計画を採り上げるなら本多正純は良くて切腹、悪ければ打ち首だった。
 上述した様に秀忠自身、井上正就の調査でも宇都宮城に不審点はなく、正純に叛意が無かったのも把握していた。

 ただ、正純は多くの人々に嫌われ過ぎていた。
 父・正信の代からの家康からの寵愛が妬まれた面もあれば、福島正則改易を初めとする辣腕振りが恐れられ、嫌われた面もあった。正信帰参執り成しの恩こそあれど怨みの無い大久保家への裏切りに等しい陥れも正純の評判を落とし、何より父・正信に続いて直諫を繰り返す正純秀忠自身、その実力・功績を認めざるを得ないだけに余計疎ましく思っていた。
 そこで見て頂きたいのが、冒頭に記載した表の「悪質度」の項目である。

 事件がでっち上げで、正純が(少なくとも秀忠への害意と云う意味で)何の咎も無いのに改易にまで追いやられた悪質さは一〇段階評価で「一五」をつけたいところである。それを敢えて「五」に留めたのは、正純讒訴の張本人が加納御前か否かに疑問が残るからである。
 勿論、彼女が本多家を怨んでいたことに疑いの余地はない。目上の身内に逆らえない秀忠の性格を考えれば加納御前秀忠をせっついた可能性は充分にある。
 ただ、普段美濃加納に籠っている彼女が弟とはいえ秀忠をここまでコントロール出来るか、またここまでのでっち上げを主導で来たかは疑問である。
 実際、宇都宮釣天井事件の黒幕は土井利勝とする説もあれば、無実と分かっていて裁いた秀忠本人であるとも考えられる。また上述した様に内外に正純を怨む者は多く、その怨みの多さを勘案した結果、かかる苛斂誅求となったかの姓を考慮すると、事件の悪質さを加納御前一人に帰するのも躊躇われたため敢えて「五」に留めた。

 いずれにせよ事件及び正純失脚は完全な冤罪による陰謀である。ようやく訪れた元和偃武の世にかかる陰謀が成されたのも質の悪い話だが、それに多くの人間が加担した可能性があることを思うと、より質の悪い話と云えよう。否、泰平が来たからこそ報復が始まったのであろうか?


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令和六(2024)年三月一一日 最終更新