日本史賢兄賢弟

第陸頁 足利義輝und足利義昭…………失われた権威復興への尽力


名前足利義輝(あしかがよしてる)
生没年天文五(1536)年三月一〇日〜永禄八(1565)年五月一九日
通称剣豪将軍
足利義晴
慶寿院(近衛尚通の娘)
一家での立場嫡男
主な役職第一三代征夷大将軍



名前足利義昭(あしかがよしあき)
生没年天文六(1537)年一一月一三日〜慶長二(1597)年八月二八日
通称一乗院覚慶、鞆公方(渾名)
足利義晴
慶寿院(近衛尚通の娘)
一家での立場次男
主な役職第一五代征夷大将軍


兄弟関係
血筋足利氏
足利義晴
兄弟関係同母兄弟
年齢差歳違い



兄・義輝
 天文五(1536)年三月一〇日、室町幕府第一二代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺にて生誕。幼名・菊童丸(きくどうまる)。

 この頃、既に幕府は応仁の乱後の内紛状態が抜け切れず、父・義晴は管領・細川晴元との対立する中、度々敗れては近江坂本・朽木に逃れるということを繰り返しており、菊童丸もそれに従う日々だった。

 天文一五(1546)年一二月一九日、弱冠一一歳にして、菊童丸は父・義晴から将軍職を譲られ、翌日元服した。尚、初名は足利義藤(あしかがよしふじ)である。
 この時、父・義晴はまだ三五歳の若さで、これは自身が健在の内に実子に将軍の地位を譲ってこれを後見する考えがあったとされており、将軍就任式は亡命先の近江坂本の日吉神社(現:日吉大社)祠官樹下成保の第で行われるという、些か将軍権威の伴わないものだった。
 天文一七(1548)年、義晴が晴元と和睦したので京に戻った。

 天文一八(1549)年六月、晴元の家臣・三好長慶が、畿内に築きつつあった一大勢力をもとに晴元を裏切って細川氏綱陣営についたことで、晴元が江口の戦いで長慶に敗れたため、義晴・義藤父子は、京都から近江坂本へ退避、常在寺に留まった。
 将軍職に就いても身辺は安定せず、天文一九(1550)年五月四日、義晴が常在寺にて死去。戦局が好転しないまま義藤は一一月に中尾城に火を放って堅田へ、翌年には朽木へ移った。

 天文二一(1552)年一月、三好長慶と和睦し、京に帰還。但し、「和睦」とは云っても長慶とその家臣・松永久秀の傀儡に甘んじる惨めな物で、翌天文二二(1553)年には早くも長慶に敗れて再び近江朽木へ逃れ、五年間を過ごすこととなった(その途中、天文二三(1554)年二月一二日に義輝と改名)。

 永禄元(1558)年五月、元服時に烏帽子親を務めてくれた六角定頼の子・六角義賢(承禎)の支援を受けて晴元とともに坂本に移り、京の様子を窺った。
 翌六月、如意ヶ嶽に布陣して三好長逸らの軍と交戦。一時期は優勢に立ったが、三好義賢(長慶の弟)の反攻を受け、六角義賢からも支援を打ち切られたために劣勢に転じた。
 同年一一月、義賢の仲介により和睦し、五年振りに帰洛し、政治を執ることとなった。

 勿論これはかなり屈辱的な和解で、義輝は長慶に心許す筈はなかった。
 義輝は長慶を幕府の御相伴衆に加え、更に修理大夫に推挙し、幕府機構に組み込みつつも、長慶に度々刺客を放ちもした。


 その後、義輝は幕府と将軍の権威復活を目指した。
 方法として、諸国の戦国大名との修好に尽力し、伊達稙宗・晴宗父子の内紛、武田晴信(信玄)と上杉政虎(上杉謙信)との川中島の戦い、島津貴久と大友義鎮の対立、毛利元就と尼子晴久との諍い、同じく毛利元就と大友宗麟との衝突、と云った大名間の抗争を調停し、同時に自らの偏諱である「」の字を与えては権威と存在感を示した(例:毛利元・上杉虎・伊達宗等が有名。他にも「」・「」の偏諱を受けた有名無名の人物が多数存在)。
 それもただ、名前で威張るだけではなく、大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、三好長慶・義長父子・松永久秀に桐紋使用を許し、朝廷と幕府の権威を上手く印象付けた。

 これらの義輝の政治的手腕は一昔前までさほど有名ではなかったが、見るべきを見ていた人々、同時代の人々はしっかり認めていて、次第に諸大名から将軍として認められるようになり、上洛・拝謁する者、献上品を贈る者が相次いだ。

 永禄元(1558)年、相変わらず京で権勢を振るう三好長慶に反発した畠山高政と六角義賢が蜂起し、三好氏は劣勢となったが、永禄五(1562)年に義輝は長慶を支持し、三好家の内紛に介入して政所執事を任じ、将軍による政所掌握への道を開いた。
 そして永禄七(1564)年七月に長慶が病死すると、義輝はこれを好機として、いよいよ中央においても幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行おうとした。

 だが、長慶が死んでも後に残された松永久秀と三好三人衆がそれを阻みに出た。
 松永と三人衆は第一一代将軍足利義稙の養子・足利義維(義輝の叔父)と組み、義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍の候補として擁立。永禄八(1565)年五月一九日に謀叛に踏み切った。所謂、永禄の変で、軍勢でもって二条御所を襲撃したのである。
 三好勢約一万に対し、御所に居た戦えるものは約三〇名。本能寺の変並みの劣勢に義輝は近臣達と水杯を交わして覚悟を決めた。

 これまた昨今有名になっているが、剣豪・塚原卜伝から指導を受け、奥義「一之太刀」を伝授された説すらある剣豪将軍・足利義輝は、師譲りの剣術の腕と、三日月宗近を初めとする将軍家伝来の名刀の数本を武器に、雲霞の如く押し寄せる三好勢を次々に斬り捨てた。
 刃こぼれで刀が斬れなくなると次の名刀を手にまた次々と敵を斬り捨てる奮闘に三好勢は恐怖した。
 義輝のみならず、近臣達も奮戦し、一色淡路守とその配下十数名が三好方数十人を討ち、治部藤通の弟福阿弥は、鎌鑓で数十人を討ち取る程だった。

 しかし、多勢に無勢の中、昼頃には全員が討死。剣の腕では誰にも負けなかった義輝自身も、「まともに掛っては敵わぬ!」と判断した敵方に四方八方から畳を被せられた上から槍で突きまくられて壮絶な討ち死にを遂げた。足利義輝享年三〇歳。
 義輝生母の慶寿院(近衛尚通の娘・足利義晴の正室)も息子の死を見るや火中に身を投じて後を追い、懐妊していた側妾の小侍従(進士晴舎の娘)も殺害された(正室は近衛家に送り返された)。

 辞世の句:「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」

 三代目・義満以来、殆ど安定政権を見せられず、六代目・義教以来、覇気を見せた将軍がいなかった中、権威復活に向けての努力と、武士の棟梁に相応しい最後の奮闘が認められてか、六月七日、従一位、左大臣を追贈された。


弟:義昭
 拙サイト、『菜根版名誉挽回してみませんか』『没落者達の流浪』でも力を入れて取り上げている人物なので、極力「略歴」に留めます。
 天文六(1537)年一一月一三日、室町幕府第一二代将軍・足利義晴を父に、正室・慶寿院(近衛尚通の娘)を母に次男として生まれた。幼名は千歳丸(ちとせまる)。第一三代将軍・足利義輝とは同母兄弟にして、年も一つしか違わなかった。

 「家督相続者以外の子は仏門に」という当時の足利将軍家慣例に従い、天文一一(1542)年一一月二〇日、外祖父・近衛尚通の猶子となって「覚慶(かくけい)」と名乗って興福寺・一乗院門跡となった。
 興福寺では権少僧都にまで栄進しており、何事も無ければ覚慶は高僧としての生涯を終える筈だったが、永禄八(1565)年五月一九日、永禄の変で兄・義輝が横死。高祖父・義教(六代目)・曽祖伯父・義視(八代目の弟・一〇代目の父)同様に僧籍からの数奇な人生を辿ることとなった。

 兄・義輝の死(同時に母・慶寿院と弟・周ソも惨死)に際し、三好三人衆・松永久秀等に覚慶もその命を狙われ、捕縛されるも、興福寺と云う後ろ盾によって命を永らえ、松永勢の監視下に置かれた。
 だが、覚慶は状況に甘んじず、義輝側近であった細川藤孝(幽斎)等や大覚寺門跡・義俊(近衛尚通の子で叔父に当たる)等に助けられて同年七月に院を脱出した。

 院脱出後、奈良→木津川→伊賀を経て、甲賀郡・和田城主だった和田惟政頼り、和田館で足利将軍家の正統な血筋による再興と当主になることを宣言。永禄九(1566)年二月一七日に還俗して義秋(よしあき)と名乗りを改めた。

 最初は矢島御所から三管領家畠山氏、関東管領家上杉氏・能登守護畠山氏等と連絡を取って、上洛の機会を窺った義秋だったが、三好方の襲撃を受ける日々の中、八月に南近江領主・六角義治が三好三人衆と内通したことで、妹婿の若狭守護・武田義統(たけだよしむね)を頼った。

 だが義統は領内の内紛で上洛どころではなく、実弟・武田信景が義秋に従って九月に越前の朝倉義景の元へ移った。
 義秋は義景にかなり期待した様で、朝廷に働きかけて義景の母に従二位を贈りまでしたが、義景もまた加賀・越中の一向一揆に手を焼いていて、上洛・出兵などは不可能であった。
 だが、それなりの繁栄を誇っていた越前での逗留は無駄ではなく、滞在中に上野清延・大館晴忠などのかつての幕府重臣が義秋の元に帰参し、明智光秀の紹介を経たことで、美濃の織田信長を頼ることになった(越前滞在中の永禄一一(1568)年四月一五日、「」の字は不吉として、朝倉義景を加冠役に「足利義昭」と改名)。

 周知の通り、信長は即上洛に合力。義昭が美濃に来て五〇日も経たぬ内に信長は上洛に掛かった。
 同年九月、北近江浅井氏・南近江六角氏(義賢は例外)等もこれに習って義昭上洛を支持。義昭が無事京都に到着するや三好三人衆等は京都を撤退した。
 一〇月一八日、義昭は朝廷から第一五代将軍に宣下され、従四位下、参議・左近衛権中将にも叙された。時に足利義昭三二歳。

 念願の将軍就任を果たした義昭は関白・管領家・流浪中に尽力してくれた諸大名への人事を行い、恨みにも恩にも報いに出た。義昭の行動に対し、幕府の再興振りを見て、島津・相良・毛利等の諸大名が献上品を送ってその権威を讃えた。
 永禄一二(1559)年一月五日、信長が領国に帰還していた折に、三好三人衆の報復襲撃に晒されたりもしたが、奉公衆・諸大名等の助力も得て、これを撃退。直後の一月七日には大友宗麟に毛利元就との講和を進めたことを利用して三好氏の本拠である阿波を叩く計画を練る等、結構したたかだった(実現はしなかったが)。
 更には信長に命じて烏丸中御門第(旧二条城)を整備。防御機能を格段に充実させ、旧奉公衆や旧守護家など高い家柄の者が参勤するようになり、一時とはいえ、亡兄・義輝の念願でもあった室町幕府の偉容を再興することに成功した

 だが、将軍擁立を深く感謝し、管領にも副将軍にも任じようとし、三歳しか違わないも関わらず「御父」と呼んで敬っていた筈の信長が自分を傀儡として利用していたに過ぎないことに気付くと次第に対立を深める様になった。
 永禄一二(1569)年一月一四日、殿中御掟という九箇条の掟書を信長から突き付けられた。義昭はこの仕打ちに内心憤慨しながらも、恩義を優先してこれらを承認した(全面的に遵守することはなかったが)。

 やがて義昭は秘かに武田信玄・朝倉義景と云った諸大名に御内書(ごないしょ)を送って反信長包囲網を築き上げたが、この段階では互いに表面上は友好を保ち(恩義や利用価値を感じていたので)、義昭は信長に頼まれて浅井・朝倉の一時和解を仲介したりもした。

 しかし、 元亀三(1572)年一〇月、信長が義昭を批判する一七条の意見書を送付したことで、対立は決定的なものとなった。
 反信長包囲網はほぼ完備しており、信長の盟友は徳川家康ぐらいだった。その家康も武田信玄に三方ヶ原の戦い(同年一二月二二日)で大敗し、信長は最大の窮地を迎えた。
 進退窮まった信長は元亀四(1573)年正月、子を人質として和睦を申し入れたが、義昭は信じずこれを一蹴。近江の今堅田城と石山城に幕府の軍勢を入れて決戦体制を示した。義昭としても一世一代の大勝負に臨む心境だったことだろう。

 だが、信長の攻撃を受けた両城は数日で陥落。三方ヶ原の戦い前である一二月三日には既に信長の謀略に乗った朝倉義景が越前に撤退したことから反信長包囲網は次々と綻び始め、追い打ちを掛ける様に信玄も元亀四(1573)年四月一二日には陣没していた。
 同年七月三日、信玄病没を知らないまま意を決した義昭は宇治槙島に挙兵したが、本居を構えていた烏丸中御門第の留守居は三日で降伏。槇島城も七万の軍勢により包囲され、挙兵から僅か半月の同月一八日に家臣に促されて義昭は渋々降伏した。
 信長は「将軍への反逆」という汚名を避ける為、義昭の子・義尋(よしひろ)を「将軍後継者として立てる」という名目(勿論実質は人質)で預かることで義昭を助命したが、義昭本人は京を追放された(室町幕府滅亡)。

 京を追われ、その一〇日後に室町幕府滅亡を宣言するかのように改元が為された(「元亀」から「天正」に)。翌月には頼りとした浅井・朝倉も信長に滅ぼされ、次々と権威・拠点・よすがを失くした義昭だったが、執念は尽きなかった
 本人的には将軍退位を認めておらず、近臣や大名を室町幕府の役職に任命する等の活動を続けたため、信長勢力圏外(北陸・中国・九州)では、追放前と同程度の権威を保ち続け、京都五山に対しても住持任命権と任命による礼金収入は保持し続けた。

 追放直後の義昭は枇杷庄(現:京都府城陽市)→河内若江城→堺に移っては復活の機を伺った。信長としてもいつまでも義昭と対立しているのは体裁が悪く、羽柴秀吉と朝山日乗を使者として派し、義昭の帰京を要請。この説得には毛利輝元の陣僧・安国寺恵瓊、林就長もあたったが、交渉は決裂した。

 翌天正二(1574)年に紀伊興国寺→泊城、更には天正四(1576)年に毛利輝元の勢力下であった備後国の鞆(とも)に移った。

 鞆にて義昭は信長追討の御内書発給を再開。だが、天正六(1578)年三月に上杉謙信が死去、天正八(1580)年には石山本願寺が信長に降伏、毛利領にも羽柴秀吉が侵攻して毛利の勢力範囲はじりじり後退し、信長の勢力は拡大する一方だった。
 ところがその信長が天正一〇(1582)年六月二日に本能寺の変で明智光秀によって横死。直後に羽柴秀吉を毛利軍と挟撃せんとして密使を送った光秀は密書に自らのことを「先の室町将軍のために戦う者」としていた。

 当然、この機を逃さんとした義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めたが、秀吉がいち早く毛利との講和をまとめ、それを小早川隆景が遵守したことで義昭は最後の機も逸した。


 天正一五(1587)年、関白となっていた豊臣秀吉が九州征伐に向かう途中に義昭を訪ね、田辺寺にて対面。権威も権力も自前の武力も無くとも義昭は「将軍」として秀吉に相対し、そのまま豊臣軍に従軍。島津義久に秀吉との和睦を勧め、天正一五(1587)年四月に島津義久は秀吉の軍門に降った。
 そして豊臣軍の帰還に追随するようにして同年一〇月、義昭は一四年振りに京都に帰還。天正一六(1588)年一月一三日に正式に将軍職を辞して出家し、名を昌山(しょうざん)と号した。

 秀吉からは山城槇島(反信長の挙兵を行った所縁の地)に一万石が与えられた。石高は低かったが、前の将軍という権威・出家とともに准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得ていたこともあって、殿中にて大大名以上の待遇で諸大名から迎えられていた。
 更に室町幕府と所縁の深かった斯波義銀・山名堯熙・赤松則房等とともに秀吉の御伽衆に加えられ、太閤の良き話し相手として近侍。文禄・慶長の役にても肥前名護屋まで参陣した。
 慶長二(1597)年八月二八日、腫れ物の悪化により、大坂で薨去。享年六一歳(ちなみに歴代足利将軍の中では最長寿)。法号は霊陽院昌山道休

 うーん、やはり「略歴」じゃ済まなかった(苦笑)。


兄弟の日々
 正直、足利義輝足利義昭の兄弟が行動を共にした歴史上の軌跡は見られない。というのも、義昭義輝の横死まで歴史の表舞台に立たなかったからである。
 前述した様に、足利家の男児は世継ぎ以外の者は僧籍に入るのが慣例で、義昭も興福寺に入っていて、一歳違いの同母兄弟でも両者の置かれた立場には歴然とした差があった。一言で云えば「住む世界が違った。」と云える。

 また前述した様に義輝はそれなりに室町幕府と室町将軍の権威回復に成功していたので、三好・松永の謀反で横死していなければ「中興の名君」として名を馳せ、義昭の出番は全くと云っていい程無かっただろう。
 だが、歴史の結果として義輝は横死し、当初は自らの命を守ることに精一杯だった義昭も、兄の遺志を継ぐこととなった。ある意味、幕政的にはこの時を持って二人は兄弟になったと云えるのかもしれない。

 ここで「兄弟」と云うキーワードが出て来るのは、この後の義昭の行動に、兄・義輝の事績を踏襲しようとしている意が散見されるからである。
 第一五代将軍・足利義昭は「手紙魔」と揶揄されることが多く、「家柄と幕府の権威を振りかざすだけの男」と見られがちだが、薩摩守は個人的にこの男を「根性のある男」と見て、買っている。
 御内書乱発にした所で、自らが持ち得る能力を有効に活かせばこそで、権威主義にしたところでかなり有効に活かす為にも兄・義輝の事績を初め、足利家正統の事績踏襲にこだわっていた節がある。

 前述した様に、一条院を脱出する際に義昭が頼ったのは兄の側近達(一色藤長、和田惟政、仁木義政、畠山尚誠、三淵藤英、細川藤孝)だった。直後に和田惟政の本拠を「矢島御所」として将軍家正統の立場をアピールしたのも、兄の跡を襲うことを内外に示せばこそである。

 その後、不利を悟って若狭から越前に逃れた訳だが、これは極めて妥当な選択をしていると云える。歴史の結果を知る現代の我々は越前守護の朝倉義景を御世辞にも名君と見ることは少ないだろう。しかし当時の越前は「越前京都」と呼ばれる程の文化的・政治的繁栄を誇っており、家柄こそ斯波氏の代理に過ぎなかった朝倉家だが、足利将軍家連枝を保護していた実績もあった。
 その越前に移ったことが明智光秀を通じて信長の助力で帰洛に成功したのもそうだが、それまでの過程においても義昭は巧みに守護・守護代・公家・管領家の助力を取りつけるのに成功し、武田信玄と上杉謙信の仲介を為す、と云う実績を積むことにも成功したのである。

 そして念願叶って、京都に返り咲いた義昭が最初に着手したのが、兄・義輝の仇討ちだった。具体的には関白・近衛前久を追放したことであった。
 前久は三好・松永の義輝暗殺容疑・足利義栄将軍職就任に便宜を働いた容疑があった。
 直後に二条晴良を関白職に復職させた義昭義輝が持っていた山城の御料所も掌握。山城国に守護を置かず、兄の側近で自分にも協力してくれた三淵藤英を伏見に配置して統治させた。
 人事だけではなく、幕政の実務にも義輝に倣って、摂津晴門を政所執事に起用。一般には悪評の強い御内書にしても、「異論があれば天下に対し不忠になる」との文言で将軍の貫禄を見せつけたが、この在り様も義輝に習ったものだった。加えて、信長に命じて整備させた烏丸中御門第は義輝が本拠を置いたところだった。
 勿論、この踏襲振りの第一目的は「将軍家正統を後継する」と云うことへのアピールがあったのは間違いないが、亡き兄への弟としての想いもあっただろうと薩摩守は考えている。実際、松永久秀(←くどいが、兄の仇であると同時に母と弟の仇でもある!)が信長に降伏した時、義昭は「自分に斬らせてくれ!」と泣いて信長に懇願したと云う(松永の利用価値を重んじた信長に止められてしまったが)。
 まあ、義昭自身、信長との対立が決定的になった際には松永と組みもしたので、単純な仇論だけでは語れないが。

 そして、義輝とのかかわりではないが、室町幕府後継者としての義昭のこだわりは幕府滅亡後にも見られた。前述した様に、京都を追われた義昭は中国地方に覇を唱える毛利氏を頼ったが、毛利家は先々代当主・毛利元就が天下に色気を見せない様に遺言しており、当主・毛利輝元の叔父・小早川隆景もこれを遵守したため、信長と事を構えるのに意欲的ではなかった。
 その点だけを考えれば義昭は毛利よりも上杉を頼るべきだったかも知れない(結果論的には謙信のその後は長くなかったが)。だが、注目すべきは義昭が居を構えた備後国鞆である。

 鞆こそは、初代・足利尊氏が光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受けた地にして、第一〇代・足利義稙が将軍の地位を追われた際に大内氏の支援を受けて返り咲いたという縁起の良い地でもあった。「ゲン担ぎ」と云えばそれまでかも知れないが、義昭義昭なりに足利幕府正統と兄・義輝の想いを受け継がんとした執念が彼の流浪に次ぐ流浪の日々を精神的に支えたのではないかと思われる。

 ここからは薩摩守の感傷論なのだが、大河ドラマを初めとする足利義昭の描写はそろそろまともな物にして欲しいと思われてならない。
 少し下記の表を見て頂きたい。

足利義昭と俳優の主な例
年代作品演じた俳優
昭和六三(1988)年『武田信玄』市川団蔵
平成八(1996)年『秀吉』玉置浩二
平成一四(2002)年『利家とまつ』モロ師岡
平成一八(2006)年『功名が辻』三谷幸喜
平成二三(2011)年『江〜姫たちの戦国〜』和泉元彌

 勿論、他にも足利義昭が登場する作品は多く、それに比例して演じた俳優も多いのだが、上記の表にて取り上げたのは、「足利義昭の阿呆っぽい演技・描写が特にひどい!」と薩摩守が想った例である。
 殊に『秀吉』にて安全地帯のボーカル・玉置浩二氏が演じた義昭は平静の歌手としての玉置氏が信じられない程裏返った声で、情けない義昭像だった……。
 普段の歌手としての玉置氏の声はダンエモンも好きだし、役柄に対する玉置氏のなりきり振りは称賛物だったが、足利義昭を買っている薩摩守としては、余りに義昭を貶め過ぎていると捉えずにはいられなかった。

 他作品でも取り上げたし、この頁でも触れているが、薩摩守は義昭を「根性のあった男」と思っているし、最終的に信長と袂を分かったとはいえ、恩義は恩義として重んじ、殿中御掟を突き付けられた直後も、信長が帰宅する際にはその行列が見えなくなるまで義昭は直立して見送ったと云われている。大河ドラマで誇張されている様な馬鹿殿様だったら、傀儡にされていることにすら気付かなかっただろうし、書状の上とはいえ、諸大名の支持を取り付けることも叶わなかったことだろう。

 兄の義輝が「剣豪将軍」として、横死が無ければ幕府中興の祖となり得た人物として、正当な目で見られる昨今に便乗する訳ではないが、義昭ともども賢兄賢弟として見直されて欲しいものである。


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令和三(2021)年六月二日 最終更新