参考資料:日露交流史年表
和暦 西暦 月日 日本 ロシア・ソビエト連邦 出来事 天皇 征夷大将軍/総理大臣 最高権力者 元禄一四年 1701年 東山天皇 徳川綱吉 ピョートルT世(皇帝) この頃、日本人漂流民の伝兵衛らとウラジーミル・アトラソフが出会って初めて日本に具体的に関わった。 宝永二年 1705年 ピョートルT世、サンクトペテルブルクに日本語学習所を設置し、伝兵衛が日本語を教えた。 宝永三年 1706年 ロシア、カムチャツカ半島を占領。以後、毛皮等を目的に千島列島でも活動。アイヌ人を通じて日本人とも部分的交易を行った。 宝永八年/正徳元年 1711年 中御門天皇 徳川家宣 探検家イワン・コジレフスキーが千島列島を探検し、最南部の国後島に上陸。 元文四年 1739年 桜町天皇 徳川吉宗 アンナ(皇帝) ヴィトゥス・ベーリングが派遣したマルティン・シュパンベルク隊が仙台湾や安房国沖に接近。日本との接触を図るも、幕府が沿岸防備を強化していたため失敗(元文の黒船)。 宝暦一四年/明和元年 1764年 後桜町天皇 徳川家治 エカチェリーナU世(皇帝) エカチェリーナU世、イルクーツクに日本航海学校を設置。 明和五年 1768年 エカチェリーナU世、イルクーツクに日本語学校を設置。以後、日本付近への航海積極化。 明和八年 1771年 後桃園天皇 阿波にロシア船が漂着(ベニョフスキー事件)。 安永七年 1778年 イワン・アンチーピンの船がロシア皇帝の勅書を携えて蝦夷地を初めて訪れる。通商を求めたが、翌年に松前藩はこれを拒否。 安永一〇年/天明元年 1781年 光格天皇 仙台藩医・工藤平助がロシア研究書である『赤蝦夷風説考』を著述。北方海防の重要性を世に問うた。老中田沼意次も北方に関心を抱き、蝦夷地調査などを開始したが、まもなく田沼は失脚。 天明三年 1783年 大黒屋光太夫、伊勢白子浦から江戸へ向かう航路途上に漂流してアリューシャン列島に漂着。ロシア人に保護される。 寛政三年 1791年 徳川家斉 大黒屋光太夫、エカチェリーナU世に謁見。帰国を望んでいる旨を伝えた。 寛政四年 1792年 大黒屋光太夫、ロシア使節アダム・ラクスマンに伴われて根室に到着。ロシア側は漂着民を届けることを根拠に通商交渉を狙ったが、幕府老中・松平定信はこれを拒絶。光太夫によって伝えられたロシア事情は桂川甫周の手よって『北槎聞略』にまとめられ、幕府にとっては鎖国時代における貴重なロシア情報となった。
また、海外事情に通じた林子平がロシアの日本近海進出について説く啓蒙活動を行い、長崎出島でのオランダ通詞からの情報などでロシアに関する認識が深まっていった。寛政五年 1793年 一一月 仙台藩の津太夫や善六ら一六人乗りの若宮丸が石巻から江戸へ向かう途上に漂流してアリューシャン列島東部のウナラシカ島に漂着。 寛政一一年 1799年 パーヴェルT世(皇帝) 幕府、松前藩に替わって蝦夷地の直轄統治開始。
最上徳内や近藤重蔵に蝦夷地探検を行わせる。文化元年 1804年 九月 アレクサンドルT世(皇帝) レザノフ、日本人漂流者の津太夫らを伴い、長崎に来航。国書が渡される。 文化二年 1805年 ロシア唯一の日本語学校がイルクーツクの中学校に合併される。 文化三年 1806年 一月二六日 江戸幕府、異国船打払令を廃止し、薪水給与令 (文化の撫恤令)を発布。 二月 津太夫によって伝えられたロシア事情が『環海異聞』に仙台藩でまとめられる。
開港要求を幕府によって拒絶されたレザノフは武力による通商開始を皇帝に上奏(後に撤回)。三月一三日 レザノフ病死。 五月 ロシア軍が択捉島駐留の幕府軍を攻撃 (文化露寇)。これを受けて江戸幕府は薪水給与令を撤回。 九月 レザノフの部下ニコライ・フヴォストフが樺太の松前藩の番所を襲撃((フヴォストフ事件)。 一二月 幕府、ロシア船打払令を発布し、幕府軍の増強を図る。 文化五年 1808年 自国軍の暴挙を聞いたアレクサンドルT世が全軍の撤収を命令、フヴォストフを処罰。
松田伝十郎と間宮林蔵がロシア帝国の動向調査の為に樺太へ渡る。文化六年 1809年 間宮林蔵、間宮海峡を沿海州へ渡って黒竜江下流を調査した記録を『東韃地方紀行』にまとめる。 文化八年 1811年 千島列島を探検中に国後島に上陸したヴァーシリー・ゴローニンが幕吏に捕らえられ、その報復として日本の商人である高田屋嘉兵衛が連れ去られる事件が起こる((ゴローニン事件)。 文化一三年 1816年 七月二六日 イルクーツクの日本語学校、閉鎖される。 文政一一年 1828年 仁孝天皇 ニコライT世(皇帝) シーボルトから最上徳内と高橋景保とへ北方の地図や日本の地図と引き換えにクルーゼンシュテルンの『世界周航記』が与えられたことが、間宮林蔵により発覚(シーボルト事件)。
クルーゼンシュテルンはレザノフが後援していた。嘉永六年 1853年 孝明天皇 徳川家慶 アメリカのペリー提督が浦賀来航(黒船来航)したのに続くようにロシア使節エヴフィミー・プチャーチンが三隻からなる艦隊を率いて長崎に来航。
ニコライ・ブッセが樺太を占領するも、三月のクリミア戦争勃発を受けて撤退。安政二年 1855年 一二月二一日 徳川家定 アレクサンドルU世(皇帝) 伊豆下田にて日露和親条約締結。 安政五年 1858年 七月一一日 空位 日露修好通商条約締結。 文久元年 1861年 二月三日 徳川家茂 ロシア、対馬の芋崎を数ヶ月占領し永久租借を要求。しかしイギリスの介入によって退去 (ロシア軍艦対馬占領事件)。 明治元年 1867年 二月二五日 明治天皇 徳川慶喜 サンクトペテルブルクにて 日露間樺太島仮規則を仮調印。 明治八年 1875年 五月七日 サンクトペテルブルクにて樺太・千島交換条約が締結。 明治二四年 1891年 五月一一日 松方正義 アレクサンドルV世(皇帝) 来日中のロシア皇太子ニコライが大津に警護の警官・津田三蔵に斬りつけられて負傷(大津事件)。責任をとって青木周蔵が外務大臣を辞任。 明治二八年 1895年 四月二三日 伊藤博文 ニコライU世(皇帝) 日清戦争に勝利し、下関条約にて遼東半島を割譲された日本に対し、ロシアがドイツ・フランスと共に干渉し、同半島の清へ返還させる(三国干渉)。 明治三二年 1899年 山縣有朋 ロシア、清より遼東半島の旅順・大連を租借。これにより日本国内での対露感情が悪化。
同年、ロシアは朝鮮から撤退。日露間で韓国への干渉を制限する西・ローゼン協定が締結。明治三三年 1900年 清にて義和団事件勃発。自国民保護を大義名分に乱鎮圧に八ヶ国が乗り出す中、ロシア軍が江東六十四屯の虐殺を起こし、その後の混乱に乗じて満州の南北全域を支配。 明治三五年 1902年 一月 桂太郎 日本、ロシアの清進出を懸念することで利害の一致したイギリスと日英同盟を締結。 四月 ロシア、清と満州還付に関する露清条約を結び、満州からの撤兵を開始。 明治三六年 1903年 ロシア、満州からの撤兵を中断。朝鮮の鴨緑江河口の龍岩浦へ軍事基地を設置しようとする(龍岩浦事件)。 明治三七年 1904年 二月八日 日露戦争が勃発。 明治三八年 1905年 九月四日 アメリカのポーツマスにてポーツマス講和条約締結。
日本、韓国(大韓帝国)の保護権、満州におけるロシアの権益、南樺太、沿海州の漁業権を獲得するも、ロシアは戦敗を否定し、賠償金要求を断固拒否。明治三九年 1906年 四月 西園寺公望 東京において日露協会が誕生。 八月 ロシア人技師のカ・カ・ヨーキシが、清国ハルピンにある所有地及び租借地を外国人、特に日本人へ譲渡したいという書簡を日本側に送り、ハルピンが開市場となって日露の関係が深まった。 明治四一年 1908年 桂太郎 ロシアの軍艦が公海で日本の民間船を拿捕(三重丸事件)。 明治四四年 1911年 日米英露の間でオットセイ及びラッコを保護する膃肭獣保護条約が締結。 大正五年 1916年 大正天皇 大隈重信 第四次日露協約締結。 大正六年 1917年 二月二三日 寺内正毅 ロシア革命勃発。ロシア帝国崩壊により、日露協約は廃棄となる。 大正七年 1918年 一月 ウラジーミル・レーニン(人民委員会議議長) ロシア革命後の混乱に対し、極東への共産主義の波及を怖れた日本が英仏伊とともに居留民保護を名目としてロシア極東の主要都市ウラジオストクに艦隊を派遣。 三月 ロシアが連合国を無視してドイツとブレスト=リトフスク条約を締結し、第一次世界大戦から離脱。これに対して日本は中国(中華民国)と日支共同防敵軍事協定を締結。 八月一二日 内戦によりシベリアで孤立したチェコ軍団救援をアメリカが提案したことを受け、日本軍上陸を開始(シベリア出兵)。 大正八年 1919年 原敬 日本、撤兵を開始。日本軍守備隊がパルチザンと衝突し、守備隊と居留民が殺害される(尼港事件)。日本はこの事件をきっかけに、さらに北樺太まで出兵を広げるが、結局ソビエト政権の打倒はならず。 大正一一年 1922年 一二月三〇日 加藤友三郎 ヨシフ・スターリン(書記長) ソビエト社会主義共和国連邦が樹立され、日本はシベリアから完全に撤兵。 大正一四年 1925年 一月二〇日 加藤高明 北京にて日ソ基本条約を締結。日本、北樺太からも撤兵。 昭和八年 1933年 九月一八日 昭和天皇 斎藤実 満州事変勃発。満洲帝国が建国され、ソ連はこれを承認しなかったが、ロシア帝国から引き継いでいた北満鉄路(旧東清鉄道)を満州国との合弁で経営。 昭和一一年 1936年 岡田啓介 ロシア、北満鉄路の利権を日本の南満州鉄道に売却、満州からの撤退と勢力圏の整理を行う。 昭和一四年 1939年 七月二九日 平沼騏一郎 ソ連と満州との間に国境紛争が起きる(張鼓峰事件)。 昭和一五年 1940年 五月 米内光政 モンゴルと満州との国境紛争から大規模なノモンハン事件が起こる。 昭和一七年 1942年 四月五日 東條英機 日ソ中立条約締結。 六月 日本の同盟国であるドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻。 七月 日本陸軍、七〇万の兵士を関東軍特種演習(関特演)と称して満蒙国境線に配備。 八月 日本陸軍、南進を優先することを決定し、関特演を中止。これによりソ連軍は精鋭部隊を満州国境からヨーロッパに投入し、モスクワ攻防戦などでのドイツ軍撃退に成功。 一〇月一八日 日本特高警察、ソ連のスパイとしてリヒャルト・ゾルゲを逮捕(ゾルゲ事件)。 昭和一九年 1944年 一一月七日 小磯國昭 日本、ソ連の十月革命記念日に合わせてゾルゲ、尾崎秀実を処刑。 昭和二〇年 1945年 二月 ヨシフ・スターリン、ヤルタ会談に参加し、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトから南樺太・千島列島の返還(併合)などを条件に、ドイツ降伏後三ヶ月で対日攻撃を開始する秘密協定に調印。 四月 ソ連、日ソ中立条約の非延長を通告。昭和二一(1946)年四月をもって同条約が失効することが確定(逆を言えば、それまでは有効)。 八月八日 鈴木貫太郎 ソ連、有効期間が残っていた日ソ中立条約を一方的に破棄して対日宣戦を布告。満洲帝国、朝鮮半島、南樺太、千島列島に侵攻(対日参戦)。 九月二日 東久邇宮成彦王 日本、降伏文書に調印。その間、樺太・千島列島各地で日ソの死闘が続き(歯舞諸島は降伏文書調印後に占領された)、多くの民間人が殺害・略奪・婦女暴行の憂き目に遭い、降伏した日本軍将兵は捕虜としてシベリアへ連行され、強制労働に従事させられた(シベリア抑留)。 昭和二一年 1946年 幣原喜重郎 シベリア抑留者の帰国開始。同時にソ連は南樺太・千島列島の旧日本領の領有を宣言。 昭和二三年 1948年 芦田均 日ソ両国間の民間貿易協定の締結。ソ連に占領された南樺太・千島列島に居住していた日本人島民が北海道に送還される(一方で日本国籍を喪失した朝鮮半島出身者は日本への移動を認められなかった。後に在樺コリアン問題となった)。 昭和二五年 1950年 一〇月 吉田茂 中ソ友好同盟相互援助条約により、ソ連は中華人民共和国との間で、仮想敵国とした日本の軍国主義復活の阻止を宣言。 昭和二六年 1951年 日本の首相・吉田茂がサンフランシスコ講和会議に参加、アメリカを中心とした西側陣営諸国との「単独講和」を決断(野党はソ連や中華人民共和国も含めた「全面講和」を求めていた)。ソ連も同会議に参加したが、ポーランド・チェコスロバキアと共に日本国との平和条約(対日講和条約)への調印を拒否。 昭和二七年 1952年 四月二八日 サンフランシスコ講和条約発効。日本は独立を回復し、ソ連も参加した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の対日理事会は解消されたが、日ソ間の国交断絶は続いた(同年の日本の国際連合加盟申請に対し、ソ連が拒否権を発動。以後もこの状況が続いた)。 昭和二八年 1953年 三月五日 ヨシフ・スターリンがくたばる。 昭和三二年 1957年 一〇月一九日 鳩山一郎 ニキータ・フルシチョフ(第一書記) 日本の鳩山一郎首相とソ連のニコライ・ブルガーニン首相が日ソ共同宣言を発表し、国交が回復する。平和条約調印後の歯舞群島・色丹島の返還を約束。 一二月一八日 ソ連、日本の国際連合加盟に対し、拒否権発動から支持に転換し、国連加盟が実現。
同年同月 最後のシベリア抑留者集団帰国が行われる。昭和三三年 1958年 一二月 岸信介 ソ連、日米安全保障条約の延長に対抗して日ソ共同宣言締結時に表明した歯舞群島と色丹島の日本返還を撤回。日本はこれに抗議。 昭和三六年 1961年 池田勇人 アナスタス・ミコヤン第一副首相がソ連商品見本市開催に合わせて訪日(ソ連時代を通して、最高要人の来日となった)。 昭和四八年 1973年 一〇月 田中角栄 レオニード・ブレジネフ(書記長) 総理大臣・田中角栄がソ連を訪問、ソ連共産党書記長レオニード・ブレジネフと会談して日ソ共同声明を発表。 昭和五一年 1976年 九月六日 三木武夫 MiG-25戦闘機に搭乗したソ連空軍中尉のヴィクトル・ベレンコが日本領空に侵入して函館空港に強行着陸し、後にアメリカへ亡命(ベレンコ中尉亡命事件)。 昭和五二年 1977年 福田赳夫 レオニード・ブレジネフ(最高会議幹部会議長) ソ連の200海里漁業水域宣言に伴い、日ソ暫定漁業協定締結。 昭和五五年 1980年 五月 大平正芳 日本、前年に発生したソ連のアフガニスタン侵攻に アメリカに追従するため抗議して、モスクワオリンピックへの参加ボイコットを決定。昭和五八年 1983年 九月一日 中曽根康弘 ユーリ・アンドロポフ(最高会議幹部会議長) 大韓航空の旅客機が南樺太・海馬島沖で領空を侵犯したとしてソ連軍に撃墜され、日本人乗客二八人を含む乗員・乗客二六九人全員が死亡(大韓航空機撃墜事件)。 昭和六一年 1986年 五月 ミハイル・ゴルバチョフ(書記長) 八年振りとなる日ソ外相会談がモスクワで行われる。 平成元年 1989年 平成天皇(仮称) 竹下登/宇野宗佑/海部俊樹 ソ連、サハリン州への外国人訪問を解禁。宗谷海峡をチャーター船が運航され、日本人も南樺太や千島列島への訪問が可能になったが、日本外務省は国民に対し、ソ連ビザによる北方領土地域への訪問を自粛するように要請(ビザを受けるとソ連の北方領土領有を認めることになるので)。 平成三年 1991年 四月 海部俊樹 ミハイル・ゴルバチョフ(大統領) ミハイル・ゴルバチョフ大統領が訪日(ロシア・ソ連時代を通じて初の最高指導者来日となった)。 八月 ソ連共産党保守派による反ペレストロイカ・クーデターで日本政府はクーデターを非難し、ボリス・エリツィンらの改革派を支持。 一二月二五日 宮澤喜一 ソビエト社会主義共和国連邦崩壊。日本は直ちに後継国家のロシア連邦、及び他の旧連邦加盟国を国家承認。旧ソ連の条約・協定などはロシア連邦に継承される。 平成五年 1993年 一〇月 細川護熙 ボリス・エリツィン(大統領) ロシア大統領ボリス・エリツィンが来日、日本首相・細川護熙と会談日ソ共同宣言の有効性と、平和条約の早期締結を合意(東京宣言)。 平成九年 1997年 一一月 橋本龍太郎 日本首相・橋本龍太郎とエリツィンが会談し、2000年までに平和条約を締結出来るよう全力を尽くすことで合意(クラスノヤルスク合意)。 平成一〇年 1998年 四月 橋本とエリツィンが会談。橋本が北方四島の北に境界線を引き、当面はロシアの施政を認めるとした提案を行い、エリツィンが合意(川奈合意)。 平成一二年 2000年 九月 森喜朗 ウラジミール・プーチン(大統領) ロシア大統領ウラジミール・プーチンが来日日ソ共同宣言を有効としつつも、川奈合意に対しては「ロシア側の考えとは完全には一致しない。」と言及。 平成一三年 2001年 三月 日本首相森喜朗とプーチンが日ソ共同宣言を「法的文書」として確認し合い、北方領土問題を解決することにより平和条約を締結するとした(イルクーツク声明)。 平成二五年 2013年 四月 安倍晋三 ウラジミール・プーチン(大統領) 日本首相・安倍晋三とロシア首相プーチンが会談。領土問題を双方が受け入れ可能な形で早期に解決することを決意、と表明。 平成二八年 2016年 一二月 プーチンが来日。安倍と会談し、北方四島での「共同経済活動」を協議することで合意。 平成三〇年 2018年 九月 プーチンが年内に前提条件無しで平和条約を結ぶことを提案。 一一月一四日 安倍とプーチンがシンガポールで会談日ソ共同宣言を基礎とした平和条約交渉の加速で合意。
日露の間へ戻る 令和三(2021)年一一月八日 最終更新